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それからの話〜坊主派手シャツ放送作家と大学中退被災者〜

3月1日になった途端、誰しもがあの日を語らなければならないといったような独特の空気が漂い始める。春の息吹と共に社会がざわめくような不穏さだ。

この時期になるといやが応にも2011年の東日本大震災のことが思い出されるし、思い出さないわけにもいかないといったような圧力も感じる。

新聞、テレビ、ラジオ、ネットニュース、SNS、どんな媒体でも様々な「あの日」「あの時」が語られ、いくら震災にトラウマを抱えていてもそれら全てから逃げ切るのは不可能に近い難しい季節だなと毎年思う。

自らの被災体験を話さなければいけない被災者とそれを待っている社会。
被災の有無に関わらずなんらかの形で震災について触れなければいけないアーティスト達と、自らの言葉を持たなければそれらを黙って享受しなければいけない観客。
そんな構図をこれでもかというくらい目の当たりにしなければならない春の訪れ。

被災当時の16歳の私だったら間違いなくそのような現象に疑問と憤怒を抱きなんらかの形で噛み付いていたと思うが、28歳の今ならそれらがほんの少しだけ分かるような気がする。ほんの少しだけ、想像が出来る気がする。

被災した人も被災していない人も、アーティストと呼ばれる人たちもその観客も、皆あの震災で傷付いたということを。

3月に「あの日」に触れなくてはいけなくなるこの気持ち。何かに例えるなら、そうだなあ、あれに似ている。転んだ子供が泣きながらお母さんに傷を見てもらう、あの感じに似ているなと思う。
傷は誰かに見てもらった途端に不思議と痛みが和らぐようで、私も幼少期に「ママ、見て」と何度も自分の擦り傷を見てもらった。
お母さんだって魔法使いじゃない。せいぜい消毒をして絆創膏を貼ってやるくらいしか出来ないのに、そんな処置とは別に子供は誰かに傷口を見てもらい「大丈夫だよ」と言ってもらいたがる。魔法のように怪我を治すことは出来なくとも、傷を誰かに見てもらいたい。それこそが手当の第一ステップであり、それが治癒のあり方であると我々は幼少期から無意識で知っていたような気がする。

傷を誰かに見てもらいたい。診てもらわなくていいから、見てもらいたい。

幼少期と表現の仕方は変わっても、3月に皆が「あの日」を語るのは「あの日」傷付いたということを知ってもらいたいからなのだと、今は思う。それを見て傷つく人もたくさんいるけど、その人にとってはそれが治癒の形だったのだと、今はそう思う。

今日は多くの人が「あの日」を語るだろうから、私は「あの日から」の話と二つ目の「あの日」の話を書いてみることにする。

震災当時や直後のことはこれまで色んなところでいっぱい書いてきたので、その後自分がどのような人達に手当され、自分自身をどのように治癒してきたかをほんの少しだけ書いてみようと思う。

傷口は塞がりカサブタは剥がれ落ちたものの、陽に照らされればその部分だけ肉が白く盛り上がりテラテラと光り、そこに傷があったことが分かるような、私のそんな場所の話だ。


2011年は間違いなく人生の大きな変わり目であったが、2013年もそれはそれで大きな変化の年であった。

震災は有無を言わさず人生を変えてしまった自然災害だが、2013年は己で起こした生活環境の変化が目まぐるしい年であった。
18年間暮らした宮城県を離れ東京で一人暮らしを始めたのも、都内の大学に入学したのも、その大学でうつ病になり退学したのも、フリーランスのカメラマンになったのも全部この年の出来事だ。

先述の通り2013年、大学を中退した。
学業が苦痛になったからでも経済的に厳しくなり在学が難しくなったからでもない。
勉強は大好きだったし、高校時代に死に物狂いで勉強して「めっちゃ優秀な被災者だったら入学金も授業料も生活費も援助するよー」という懐の広い企業からの返済不要の奨学金をいただいていたし、両親が無駄遣いは一切せずコツコツと学費を貯めていてくれたおかげもあって金銭面で困窮していたわけでもない。

家族や周囲の人々からの支え、企業からの援助、そしてそれを受け取るために必死で勉強した高校生活。そんな大きな支えであり背負うべきものを持ってしても大学に通い続けることが出来なかった理由、敵わなかったものがある。

大学の教授達からの心無い言葉だ。

進学した2013年という年は震災から日も浅く、私の故郷ではまだ瓦礫が山積みになっていたし、東京でも電車の中で「水道水怖くて飲めないけど、どこで水まとめ買いしてる?」といった会話をよく耳にする時期であった。

津波による被害こそなくても東京の揺れも大きく、その後のライフラインの復旧までの期間は東北とはまた違った都会ゆえの不便さや不安があっただろうと思う。
皆、色んな場所で傷ついていた。東北の人達も、東京の人達も。

私が通っていた大学は「大学」の中でもやや閉鎖的な大学で、付属高校からそのままエスカレーター式で進学する子がほとんどの大学だった。教授もかなりの人数がここの卒業生であり、わざわざ東北から進学して来た私のような人間自体がその学校からしてみればそもそも珍しい存在であった。

そんなことも相まって「小岩井さん、宮城出身なんでしょう?震災の時は大変だったね」と色んな教授から授業後に呼び止められた。一年生の生徒名簿には高校名でも書いてあったのか、東北出身者がよほど珍しかったのかなんらかの興味があったからなのか、必修科目の教授達からそんな風に話しかけられることが多かった。

「ご家族は無事?お家はあるの?」と当たり前のように聞かれ「家族は生きてて、家は流されました」と答える。そのお決まりのやり取りはどこに行っても何年経ってもこなさなければいけないらしかった。
当時の私は「家族が死んでたらあんた、なんて声をかけるつもりだった?その答えを少しでも想定してそんな質問したか?」と思っていたものの口に出すことはなかった。
こんなやり取りを今までどれだけ繰り返して来ただろう。そしてこんなやり取りは何歳になるまで続けなくてはいけないのだろう。
そんな質問に嫌気がさしてはいたが、教授が「あの時募金した」や「ボランティアに行った」と話を続けるであろうことも何となく経験上推測できた。
ただ、その推測は大きく外れることとなった。

「東北で被災したんじゃ子供産めないわね。奇形になるし。」

耳を疑った。頭が真っ白になるとはこういうことなのかと知った。怒りや悲しみは湧かず、どのような情報源からどのような情報を得ればそんな思考になるのかも、大学教授でありながらそのようなリテラシーしかないことも、それを当事者に言える神経も、全部が全部、ただただ疑問だった。満員電車よりも「とんでもないところに来てしまった」と東京の過酷さを思い知った瞬間であった。

でもそれは特段その教授に限ったことではなかった。問題を解き間違えれば「被災してるし仕方ない」と言われることもあったし、よく知りもしない教授から「被災したそうだけど、私のボロでよければ服差し上げますよ」と悪意ではなく完全な善意といったつもりで声をかけられることもあったし、これまた親交がない教授から「来週反原発のデモをするんだけど、被災した子が先頭に立ってくれたら何かが変わると思うの」とマスコットキャラクターのようなお誘いを受けたりと上げればキリがなかった。

真摯に気にかけてくれる教授も二人はいたが、大学前期だけで上記のようなことが立て続き、流石に参ってしまい大学の窓口に相談しに行ったが「〜先生はうちの卒業生だし、そんなことはないと思うんだけど」というよく分からない理由で相手にされなかった。
その窓口の人に「被災したせいでちょっと過敏になっているのかな」と言われたことが決め手となりこの大学にはまともな大人がいないんだと思い込んでしまい、通うのが益々辛くなった。

入学から半年が経とうとしていたある日、通学中の自分の顔が震災当時よりも酷いものになっていることに気づいた。
「こんな大学早く出たいから飛び級してやる!」とおかしな方向に努力した猛勉強の末くまが濃くなっていたし、玄関の扉を開けることにすら勇気がいるようになり必ずと言っていいほど通学前に嘔吐し、泣いて腫らした顔は浮腫んでいた。
駅のガラスに写ったそんな自分の顔を目にした時に「震災で生き残ったのにこんなところで死んだら元も子もないじゃないか」と思ったくらいには、今にも死にそうな顔をしていた。

その日、授業の後に「東北で被災したんじゃ子供産めないわね。奇形になるし。」と言い放った教授に自ら話しかけに行った。
「一コマとは言わないので、先生の授業を私に少し下さいませんか。先生と皆に、震災の授業をしたいです。」と言った私の声は、震えていたと思う。

その教授は私の予想に反して「是非ともお願いしたい!」と快く次回の授業のラスト20分を私にくれると約束した。前期最後の出席日はもともと早めに授業を終える予定だったからその時間を使っていいとのことで快諾してくれた。教授に嫌味な様子は一切なく、ああ、あの衝撃的な言葉もこの人の悪意から来たものではなかったのかと、また別の衝撃を受けた。

その一週間後。夏休み前、最後の授業。

「こんにちは。英文学科一年の小岩井ハナです。」

弱々しい自分の声がマイクを通して広い教室内に響き渡る。この日初めて教壇という場所に立った。

「突然で申し訳ないのですが、今日は震災の、被災地の授業をさせてください。」
自己紹介や生い立ち、被災した旨、震災後の自分の活動や(教授のあの衝撃的な言葉は伏せながら)上京してから被災地の現状を正しく理解されておらず間違った情報を鵜呑みにされていることに驚いたという説明をした。

本来であれば今日は授業が早く終わるはずだったのにごめんなさいと謝ると、誰かは分からないけれど小さな声で「頑張れ」と言ってくれた。
その声の主を探すように教室を見渡すと、同世代の生徒たちの真剣な眼差し全てが己に向いていて、それがなんだか心強くて、ホッとした。

「今日は、正しい怖がり方を、一緒に考えてみませんか」

教室の全員に、そう語りかけた。

それからは自分で撮影した被災直後の故郷の写真や被災規模、その後の人口流出の割合や瓦礫の焼却問題など当時ニュースでもよく話題になっていた内容を中心に話を進めた。
そして自分の震災当時の経験も、少しだけ話した。
「色んな怖いことがありました。でも震災後、余震よりも何よりも怖かったのはデマの情報が蔓延していたことです。」
当時は何が正しい情報なのか精査出来ず疑心暗鬼になり、ラジオや新聞の情報よりも近所の人やチェーンメールのデマを信じる人がたくさんいたこと。
国が安全ですと言ったところでそれを信じることも難しい惨状の中で、不安を煽るようなデマの方が信じやすかったということ。
それが一番怖かったという話をした。

「何を信じたらいいかなんて分からなくなるような惨状の中では不安に流された方が楽だし、何が本当かなんてそれを発信する立場によっても変わってくるし、もしかしたら本当のことなんて最初からないのかもしれない。でも、調べ方がわかれば不安に負けずに正しく怖がることは出来る。不安に任せて都合の悪い情報を鵜呑みにするのではなく、正しく怖がるためにまずは自分で調べて欲しい。」といったようなことを、辿々しく説明した。

「もしもっと被災地の現在を詳しく知りたいと思う人がいたら、こんなところがあります」とデジタル版で読める東北の地方紙を紹介したり、臨時災害放送局のラジオが聴けるサイマルラジオの説明をして授業が終わった。

元々人前で上手く話せない私の拙い話を、真剣に最後まで聞いてくれる生徒だらけだったことは短い大学生活で唯一の救いだった。
質問をしてくれる生徒もいて「被災地に行ってみたいけど、どうしたら迷惑がかからないかを教えて欲しい」と尋ねてくれる人もいた。(実際にその後本当に宮城に来てくれた生徒が何人かいてびっくりしたし何かが少し報われた気もした)

そんな夏休み前最後の謎の大仕事を終え、ガランとした教室で帰宅の準備をしているとある女の子が声をかけてきた。
「ハナちゃん、私、分かる?」
と遠慮がちに尋ねてきた。
「あ!レクリエーションの時に仙台から来たって言ってたよね!覚えてるよ。」
と答えると彼女は笑顔で改めて自己紹介をしてくれた。

そして「私ね、仙台生まれじゃないんだ。出身はね、福島なんだ。」と続けた。

福島に生まれ育ったけれど家が原発事故の避難区域になってしまい、家財も何も持ち出せないまま仙台に引っ越したこと。福島出身だと言ったらどんなことを言われるか分からないから、上京してからは自分の出身を隠しているということ。故郷のことが大好きなのにそれを隠すことの自己嫌悪。だからせめて「仙台出身」ではなく「仙台から来ました」と言っていること。

涙で揺れているけどその眼は真っ直ぐで、私よりも大人びた真剣な顔でそう話してくれた。

「今日ハナちゃんが自分の故郷の話を大勢の前でしていて、いいなあって思ったの。被災地になっても自分の故郷のこと話せるのいいなあってちょっと羨ましく思ったの。でもさ、きっと怖かったよね。被災したって他人に言うのも、出身地を言うのもすごく怖かったはずなのに。それなのに話してくれてありがとう。私もいつになるか分からないけど福島出身ですって言えるように頑張るね。」と伝えてくれた。

地震、津波、原発。それらは東日本大震災として一口に語られるが、切っても切れない事柄ではあるもののその問題は別々に山積みとなっている側面も勿論たくさんあり、そしてそのそれぞれの物語を背負ってしまった「被災者」の背景も一様ではない。

私は津波で被災した。彼女は原発によって被災した。
私は家を流された。彼女に実家はあるが、立ち入ることは許されない。
私は自然災害によって故郷を失った。彼女は、自然災害と言い切れるだろうか?

二人とも側から見れば「東日本大震災の被災者」であることには変わりないが、それぞれが背負ってしまった問題も葛藤も背景も全く異なるものであった。上京してからそんな経験をするのは初めてだった。

かける言葉が見つからなかった。そうした無力感も、この時初めて知った。
想像出来るがゆえに口に出来ない励ましと、想像出来ないからこそ尋ねられない質問ばかりで、何も返せる言葉がなかった。
かと言って「ご家族は無事だった?」と聞く気も毛頭ない。

「ありがとう。話してくれて、ありがとう。こちらこそ本当にありがとう」
そう返すだけでいっぱいいっぱいだったけど、あれが18歳のあの時の私と彼女の精一杯だったのだと思うしそれだけで充分だったのかもしれない。

明日から夏休み。教室はもう私たち以外誰も居なくなっていた。

そしてそれが最後の私の登校になった。


夜、両親に電話をした。事情を説明し「通わせてくれたのにごめんなさい」と謝った。私の状況や事情を元々何となく知っていた両親は「大丈夫!生きてさえいりゃあなんとかなる!だから、生きろ。死にそうになってまで通う場所でない、そんなとこ!」と力強く笑ってくれた。

そしてその時も、それからも、ただの一度も「実家に戻って来い」と言わないでくれた。「ハナの好きにしたらいい。自分で決めな。」とただ信じて待ってくれた。口を出さずに待つということは何よりも忍耐のいることなのに。それがありがたかったし、そしてその結果今こうして働けている。

奨学金を援助してくれた企業にも電話で事情を話したところ「予想していなかった出来事なので驚いてはいますが、奨学金は返済しなくていいので、まずご自身を大事になさってください。」と心配して下さった。一生貴社の商品を買い続けますと心の中で誓った。

その後も友人知人に大学を中退する旨を伝えても誰も驚かなかったことに驚いた。それくらいに周囲から見ても当時の私は今にも張り裂けそうな状態だったのだろう。
皆「むしろ退学してくれた方が安心だ」と口々にしていた。


ただその中で一人だけ「大学を辞めることにしました」と伝えると露骨にとても不安そうな表情になった人物がいる。

その人物こそがタイトルに出てくる「坊主派手シャツ放送作家」のおじさんだ。

「坊主派手シャツ放送作家」と書くとヤバい香りしかしないが、この方とは高校生の頃に震災がきっかけで出会い、それからとてもお世話になり続けている。
震災後、いくらマスコミ関係で嫌な思いをたくさんしても「全員がそうではない。真剣に向き合ってくれる人だっている」と思えたのもこのおじさんのおかげだし、真剣なのにちょっと不謹慎なその人のことを、私はとても信用している。

決して頻繁に会うわけではないが自身を「東京のお父ちゃん」と名乗り、奥様まで「東京の母ちゃん」だと言い、夫婦揃って美味しいご飯をたくさん食べさせてくれた。
夏になると私の実家にトウモロコシを送ってくださり「家族ぐるみの付き合いをしている家族」というなかなかに珍妙な関係で、私はそれがすごくありがたかったりする。

大学も通っていたら後期だったであろう時期。おじさんと少しだけお会いする機会があった。

隙を見つけては多種多様な不謹慎を入れ込んでくるような方なので退学すると伝えても驚かないと思っていたが、違かった。
「大学、辞めることにしました」と伝えた途端その人の口数はみるみる少なくなり、何かを考え込ませてしまったようだった。

坊主だし派手シャツだから驚かないと思っていたが、決してそうではなかった。坊主で派手シャツでも、不謹慎でも、いつだってこの人は真剣に向き合ってくれた。
なんの前触れもなく中退する旨を伝えたことを反省した。

それから少し経ってその方から連絡があった。

「いついつに八幡山駅集合で!」とのことだった。
聞いたこともない駅で待ち合わせてもシャツが派手だからすぐに見つけられた。二人でそのまま中華屋で昼ご飯を食べながら、ようやく今日の予定の説明を受ける。

「今日はですね、雑誌の図書館に行きたいと思います。」

なんとも心が踊る響きだった。

皆さんは大宅壮一文庫をご存知だろうか?私はこの日このおじさんに教えてもらうまで知らなかったのだけど、おじさんが言った通り雑誌の図書館のような場所で、検索したい人物名やワードをそこにあるパソコンに打ち込むと関連雑誌が続々と見つかるようになっている。記事の大小問わずにヒットするので資料が少ない人物であっても単著を出していない人物でもなんらかの情報を得ることが出来て、とにかく楽しかったことを覚えている。
そのすごさをうまく説明できないので詳しくは大宅壮一文庫で調べてみて欲しい。

中華屋を出ておじさんと大宅壮一文庫に移動した。そこは民家というか個人経営の病院のような独特な雰囲気の図書館だったため、これは自分一人では来れなかったろうなと思った。

おじさんは「今日は、調べ方を教えます。」と言い、まず施設の利用方法を教えてくれた。検索の仕方、雑誌をコピーしてもらう方法。注意書きを読めば解決するようなことも丁寧に教えてくれた。

施設の使い方が大体分かったところで「おいさんも今日は番組の調べ物があるんでね、あなたも好きなこと好きなように調べてみて下さいよ。」としばらく放って置かれることになった。

私は小学校低学年の頃から大好きな海外の写真家の名前を打ち込み、検索した。その人は写真好きの中では有名なのだろうけど日本ではあまりメジャーではなく、彼女の写真集を買うには大きな書店ではなく限られたギャラリーに行くしかないといった感じの人だった。
震災前までインターネットを使えるような場所に住んでいなかったし、写真集が売っているような書店も身近になかったし、その写真家の写真集が欲しいとなれば東京のギャラリーを探し回るしかない。その憧れの写真家は私にとって実在しているはずなのにどこか幻想のような、そんな遠い存在としてずっとあった。

果たしてここで検索してもヒットするのだろうか。カタカナの名前を打ち込む。エンター。

2冊ヒットした。私が生まれた頃かその前の雑誌だった。
「本当に存在してたんだ」静かに感動を噛み締めた。

坊主派手シャツ放送作家おじさんに習った手続きを踏んで、記事をコピーしてもらった。
今まで存在してるかどうかすら朧だった異国の写真家のインタビュー記事が、日本語で綴られている。今まで経験のしたことのない調べ方で、ネットでは出会えなかったその記事に出会えた。時代の経過や変化を物語る「紙」のそれは、その写真家と社会が存在している証しのようでえらく感動してしまった。

「何か見つかった?」坊主派手シャツ放送作家おじさんが尋ねてくる。おじさんは見出しが手書きでレタリングされた大昔の記事のコピーを抱えていて、確かサーカスだとか誘拐だとかいう文字が並んでいたように思う。仕事で必要な資料だと言っていたが、放送作家ってそういえばどんな仕事なんだろう。その時改めておじさんの職業を不思議に思った。

おじさんはこちらに尋ねてよこす時は目を見てゆっくり問いかけてくれるが、自分の話をする時は照れ臭そうにして顔をそらしてやや早口で話し出す。

「何かを調べる時、まとめサイトで済ませる人も多いけど、そうじゃないと思うんですよ。例えば誰かにインタビューをするとなったら、その人の前情報や過去のインタビューを読んだりするでしょう?でもさ、何度も同じ質問されたって向こうも嫌だろうし、そうじゃない話をこちらだって聞きたいよね。だからそういう時は、その人の過去のインタビュー記事をここで全部探すの。そういう風にね、ここを使っているの。」

何年、何十年分と遡って調べ上げる。その人自身がそこに存在しているわけでなくても、その人の過去の言葉やその人に過去に投げかけられた質問からその人の細い糸のようなものを辿る。そうやって先人たちの言葉の糸を丁寧に手にとって、おじさんは新しい糸を引っ張り出そうとしている。

放送作家がどんな仕事かはよくわからないけど、おじさんがそのような丁寧な仕事をしていることの裏付けの一部を垣間見たようで何故だかこっちまで少し照れ臭くなったりもしたが、これから私がどんな仕事をするようになっても今日という日のことを思い出すのだろうと思った。

大宅壮一文庫の帰りにお惣菜屋さんで「今日の夕飯はこれにしたらいいよ」と唐揚げやらメンチカツやら、茶色い食べ物をたくさん持たせてくれた。

この人は今日、大学で学ぶ機会をなくした私に大学以外の学び方を教えてくれた。ハードルが下がるように目の前でそれを実践しながら教えてくれた。

この人は今日、中退して就職も難しくなるであろう私に手を抜かない仕事を見せてくれた。

そして帰ってからも腹を空かせないようにと、ビニール袋二つ分のおかずを持たせてくれた。

今ここで消費するための何かではなく、私の未来に繋がるであろう「方法」を与えてくれた。

当時も「面白いところに連れて行ってくれたしご飯もくれたしありがたい」と感謝はしていたが、あの日おじさんがしてくれたことの偉大さを年を重ねるごとに痛感する。

私は同年そのままフリーのカメラマンになり、最初の頃は少しだけカメラマン兼ライターとして働いていた時期もあった。
とある研究者にインタビューをさせていただくこととなり、おじさんとの「あの日」を思い出してその研究者の論文を全部読んでからインタビューに向かった。当初渋々インタビューを許可してくださったその方は「僕ね、一応こういうお仕事してるから質問の質で分かるんです。あなた僕のこれまでの論文、全部読んできましたね?」ととても嬉しそうに話してくれた。当初は予定していなかった施設の見学と撮影までさせてくださって、ありがたいことにフリーランスになりたてでそのような経験にも恵まれた。

私には大きく分けて「あの日」が二つある。

一つ目は東日本大震災があった日で、二つ目は坊主派手シャツ放送作家に大宅壮一文庫に連れて行かれた日。

前者は自分の頭で困難を言語化していく機会を、後者は他者や社会と誠実に関わるための方法を与えてくれた。

コロナや様々な自然災害、事件、戦争、12年前の「あの日」は想像もしていなかったことが立て続けに起こっている。
何を信じたらいいのか分からなくなることもあるし、ただ不安がるだけだったらどんなに楽かと思うこともある。

それでも大学生の自分が顔を出す。
「正しく怖がれているか?」
と問うてよこす。

大宅壮一文庫で見た派手なシャツの後ろ姿を思い出す。
「この人に恥じないくらい、自分はリサーチしているか?丁寧に仕事をしているか?」
と己自身に問いかける。

出身地を隠さないと攻撃されてしまうと考えるあの子のような思いを、出来ればもう誰にもして欲しくない。

だから私は正しく怖がるために学ぶことをやめないでいようと思う。
自分の間違いに気付けるように。素直に反省出来るように。

今では現場で全身真っ黒の服を身にまとい機材を担いで駆け回る暮らしを送っているが、あの派手なシャツのおじさんがくれたような愛を他人に朴訥と手渡せる大人になりたいと近頃よく思う。

同じ土俵には立てないし足元に及ぶことすら難しいけど、私は私の地面でしっかり、生きようと思う。


二つ目の「あの日」から約10年後の2023年の、一つ目の「あの日」より。

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