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あの時逃げ出せなかった僕は、8月32日を生きている。



目を覚ます。ヒグラシの声が聞こえる。
外はもう薄暗くて、庭の草木の緑は深い色になっていた。
出しっぱなしの水色のホースが玄関前の芝生の上で項垂れている。
それらが見渡せる仏間が僕は好きだった。
仏間は家の中で一番風通しが良い場所だった。
襖を開けっぱなしにして縁側の向こうの庭をぼんやり眺めたり、そこで漫画を読んだり絵を描いたりして夏休みを過ごす事が多かった。

何より、仏壇の上にかけられたご先祖さんの遺影を眺めると心が落ち着いた。
昔の遺影だから表情は堅苦しくて暗いし、和服姿の白黒写真というのはやはり少し怖いんだけど「この人達がいたから今僕が存在しているんだ」と思うとどうもこの命が自分一人のものではないように思えてきて、妙に励まされた。

明日からまた学校が始まる。
学校に行くくらいなら死にたい。
それか毎日意地悪をしてくる担任の先生を抹殺してしまいたい。
物騒な話だけど12歳の僕はそんな事を真剣に考えていた。
だからこそ「自分一人の命ではない」「命を捨ててはいけない」と思いたくて夏休み最後のこの日も仏間で遺影をぼんやり眺め、そのまま眠ってしまったのだった。

どれくらい寝たのだろうか。頬に付いた畳の痕が痒い。
汗で張り付いた前髪をぐしゃりと掻き分けながら和室をぐるりと見回す。
仏間のご先祖さんの遺影が目視出来ないくらい、部屋の中はもう暗かった。
明日から学校か。
泣き叫びたくなる気持ちを抑えて肌着の下に手を回し、自分の脇腹をぎゅうっとつねる。
「ご飯だよお」という祖母の声が少し遠くで聞こえた。カレーの匂いがする。




夏休みが明ける頃、よく新聞のコラムやSNSで大人達が「逃げていいよ」と書き連ねる。
死ぬくらいなら逃げた方がいい。勉強出来る場所は学校だけじゃない。命は捨てたらお終いだと背中を押してくれる。
その通りだと思う。ごもっともだと思う。
でも正直なところ僕にはそれがあまりピンと来ない。
それは僕自身が辛い場所から逃げられない小学生だったからかもしれない。


小学校高学年の頃、担任の先生から2年間毎日変な嫌がらせを受けていた。
今で言うモラハラというやつなのかもしれない。
先生本人にはその自覚はないのだろうけど、僕達児童はその先生に褒められたことがない。
そもそも良い行いをしたとしても必ず人格や個性、身体的な特徴や生まれた集落を馬鹿にされてしまうのだ。
いくら勉強を頑張っても運動が出来ても、絵や作文で賞を取っても「所詮部落出身のお前達は井の中の蛙。中学に入学したら自分の無能さに気付くはずだ。」と言われてしまう。
モラハラなのか差別なのかよく分からないそれらの言葉を威圧的な成人男性に毎日繰り返し言われ続けるものだから、僕を含め児童達は完全に萎縮し大人の顔色ばかりを気にしなければいけなかった。
挙句の果てには「先生の奥さんは流産したのにお前らはなんで生きている?憎くて仕方ない」とこちらには全く関係のない恨み辛みまでぶつけられる始末で、12歳の僕はすっかり参ってしまった。


毎朝6時半頃、心臓がバクバクと変な動きを始め情けない叫び声を上げてパニックになって起床する。
それに加えて学校に行く前は必ずお腹を下すようになっていた。
ストレスが原因だと当時は気付けず、かといって不登校になるという選択を思い付けず毎日「死にたい」と思いながら登校した。
「学校に行くくらいなら事故に巻き込まれて消えてしまいたい」と毎朝思った。

髪の毛や眉毛を抜くクセも付いていた。
当時リストカットなどの自傷行為を知らなかったが、指をかじったり、体をつねったり、無意識にそれらを繰り返しながらも学校に通い続け、ボロボロになりながらも卒業する事が出来た。



話は少し変わるのだけど、僕は逃げ方には大きく分けて2種類あると思っている。
一つ目の逃げ方というのは生命活動を脅かされている場合に必要となる早急な避難で、二つ目は自分の苦痛や性質に対応したり回避したりしながらも社会と関わりを持つ緩やかな逃げ方。
(この逃げ方や避難という言葉が分かりにくい場合は治癒という言葉に置き換えてもいいかもしれない)
僕はこの二つの逃げ方をごちゃごちゃに混ぜて考えていたため、自分が早急に逃げるに値する環境にいる事に気付けなかった気がしている。


まず一つ目の早急な避難というのは身体的、精神的暴力などを受けて生命の危険に晒されている場合に必要になるものだ。
「死にたい」と思う事は健康的ではないし、ましてやそんな危害を加えて来る人間がいる環境というのは安全な場所ではない。
こういった自分の健康や命に関わる危険な場所からはすぐ逃げ出した方がいい。
きっと夏休みが明けるこの時期に「逃げてもいい」と言ってくれる大人が読者として想定しているのはこういった環境にある子供たちの事なのだろうとも思う。


今振り返れば毎日「学校に行くくらいなら死にたい」と思っていた僕もこのケースに当てはまる気がしている。
毎朝「今日こそは事故に巻き込まれて死ねますように」なんて本気で願いながら登校する事は明らかに健康的ではない。

ただ当時の僕は自分が置かれている環境の苦しさや違和感を言語化して大人に伝える術も、そもそもその事に関する言語も持ち合わせてはいなかった。
多くの人が映画の感想やレビューを書けるのは、他人の映画のレビューを過去に読んだ事があるからだと思う。
つまり「映画のレビューを書くための言語(語彙や表現)」を持っているからである。
しかしながら先生に嫌がらせを受けても「他の誰かから嫌がらせを受けた経験」も「他の誰かが綴ったいじめを受けた体験談」に触れた事もなかった僕は、日々のこの違和感や苦しさを表す言語を知らなかった。
言語化が出来ないと自分の中でその事柄に対する違和感が組み立てられず、気付きの機会を失ってしまう。そして違和感を抱えながらもそれをなかった事にしてしまおうとする。

だからこそ学校が再開するこの時期に「逃げていい」と唱えてくれる大人がたくさんいるのだと思う。
子供達に過去に自分が受けたいじめの経験を話し、死にたいくらいならその危険な場所から逃げ出していいんだと教えてくれる文章には意味があるし、SOSの表し方を知れる場になると思う。
それがきっかけで言語を得て、自分の環境や違和感を組み立てられるようになる子供もいるはずだ。


ただ小学生の僕は一つ目の早急な避難を選択する事が出来なかった。
上記のように自分が安全ではない教室にいるという事を言語化出来ないが故に事態を正しく認識出来なかったし、先生から逃げるために不登校を選択したとしてもその後どのように勉強をして、どのように他人との関わりを持って、どのように働いていけばいいのか分からなかった。
一度学校という小さな社会から離れてしまったらまたどこかに通い始めるハードルが高くなるような気がしたし、人と会わないでいる間に他人の事がどんどん恐ろしくなるような気がしてしまい結局学校に通い続けた。



夏の終わりになるとそんな日々を思い出す。
そして未だに「逃げていいよ」という言葉を見るたびに、12歳の僕が顔を出す。

「どこに逃げればいいの?」

「逃げた後、どうやって勉強すればいいの?」

「いじめられているのは僕なのに、どうしていじめる側が社会に残って、こちらが学校生活から外れなければいけないの?」

「子供のうちは守ってもらえても、大人になったら『逃げた人』は守ってもらえないじゃん」


12歳の僕が、そう尋ねて来る。


あの時僕は、学校から逃げ出す事が出来なかった。




僕は今フリーランスのカメラマンとして働いている。
18の頃からずっとフリーのカメラマンをしているので、かれこれもう9年近くカメラを担いで活動している。
そもそも身体があまり丈夫ではないので不調や病名などを挙げたらキリはないが……それらが爆発しないように引き金となる原因を回避しながら働くためにフリーランスとして活動する道を選んだ。
(学生時代と違い病院に通いやすくなったのは本当に嬉しい)
そんな今の働き方が、第二の逃げ方である緩やかな避難そのものになっている気がしている。


ここで少し僕の仕事の内容やペースについて触れておく。
僕は主に映画やドラマ、ライブ、舞台、CM、イベント、書籍のグラビアなどあまり統一感のない様々な現場に出向いて写真を撮影している。
たまにアシスタントさんを付ける事もあるけれど、基本的にいつも一人で現場へ向かう。心細い時もあるが基本的にはその身軽さが心地いい。
映画やイベント撮影となると撮影自体が一ヶ月以上続く事もザラにあるが、体力的にキツくても憧れていた巨匠達や先輩方と働けるのでとても嬉しい。
人間なのでどうしても苦手な人も出来たりするが、数週間共に働けば解散する事が救いだ。
風通しのいい場所を転々とするので気苦労も多いが、新しい出会いを繰り返していける事は本当に楽しい。


そんな風に一ヶ月以上働いたら次はそれと同じくらい休み、そしてまた次の月には別の現場へ向かう。
キャパの小さい己の心身が回復するには撮影期間と同じくらいの休息を要してしまうので、そのような極端なスケジュールで働いている。
なので仕事中の僕しか知らない人にしてみれば「休みなく働いているカメラマン」という印象になるだろうし、休みの期間にしか会わない家族や友人には「いつもフラッと現れる暇人」と思われている。
実際に近所の小学生には「暇人さん」というあだ名で呼ばれている。
自分の性質である過集中を逆手に取り思いっきり働いて、その後は思いっきり休む。そんな労働と休暇が極端な生活が今の僕には合っているようだ。


小学生の頃には出来なかったけれど今では自分を傷つける対象から離れ、自分の生きづらさや病気、苦手が爆発しないように上手い事それらと付き合ったり回避しながら社会生活を送っている。
完璧にコントロールするのはもちろん無理なのでたまに爆発してしまったりもするけれど、昔に比べれば幾分かはマシになって来たと思う。

呑気な怠け者と思われるかもしれないが、どうしても克服出来ないものから逃げはしても、別の道や道具、方法を見つけてゴールまで辿り着く努力は惜しまないようにしている。
例えばりんごの皮を包丁で剥けないのなら、切り分けた後にピーラーで皮を剥く。手間や方法、用いる道具は変わって来るがそうすれば「皮を剥いたりんごを食べる」というゴールには辿り着く。
人よりも時間がかかるのならば別の道のりを探す。そのために道具が必要になるのなら、無駄遣いはせずに道具を買えるだけのお金を常に蓄えておく。
そんな風に自分の性質や苦手を考慮しながら工夫して働くことは、二つ目の逃げ方である緩やかな避難そのものになっている気がする。



学生時代とは打って変わって生き生きと働いて生活する僕を見て家族は「夏休みみたいな人生だなあ。最高だなあ。」なんて笑ってくれる。

先述した近所の小学生にも「暇人さんはずっと夏休みなの?」とあどけない顔で尋ねられる。
「夏休みを続けることがお姉ちゃんにとっての役割なのかもね」と答えた。


何を思っての「夏休み」なのかは分からないが、他人から見て「夏休み」という印象を抱かれるならそんなに悪い生き方ではないなとも思う。


かと言って「学校に行きたくない」とSOSを発信する子に将来フリーランスという形態の職業を勧めるという的外れな助言をする気もないし、「僕も昔学校に行きたくなかったけど、今ではこんなに楽しく生きてるよ」なんて言えるような自信もないし、そもそもお手本になれるような立場ではない。

ただもう僕は僕を傷付ける大人の元に通わなくてもいい道をなんとか見つける事が出来た。
自分で自分を逃してやり、自分を治癒してやる方法も少しずつ掴めてきた。
時間はかかったしあの時すぐに逃げる事は出来なかったけれど、そうやってゆっくり自分を治癒して社会と関わる道を見つけられるようになった大人がいるという話をしたかった。
ゆっくり壊れてしまったものを、僕は今ゆっくり治している最中だ。

大人になってからの「夏休み」のようなこの人生は、子供の頃の夏休みのようなワクワクばかりではない。
絵日記やワークではないにしろ、色んな宿題や領収書、不安が机に山積みになっている。
綺麗な朝顔は咲かないのに、焦燥感の蔦が身体に絡まっている。
それでも悪い事ばかりではなくて、仕事を通して僕の作品や僕自身の事を大好きだと言ってくれる大人にも子供にも出会えた。

そんな時僕は、もうあの悪夢みたいな教室に通わなくていいんだと心底安心する。
もう15年以上も前の事なのに、今いる安全な場所を確認するととても安心するのだった。


そのように「今僕は安心して過ごせる環境にいるんだ」とふと再認識して胸を撫で下ろす時
自分が存在しない8月32日という夏休みを生きているかのような感覚に陥る。
世間一般的な働き方ではない。
ご近所さんからしたら仕事の内容もよく分からないし、いつ働いているのかも分からないずっと夏休みの「暇人さん」だ。
でも、僕は僕が見つけた形で社会との繋がりを保ち、そして働いている。
実質は9月1日を生きているはずなのに、そんな存在しない8月32日という夏休みの中で生きて働いているような、なんだか宙ぶらりんな心持ちになったりもする。


8月32日。
僕を傷付ける人にはもう会わなくていい、8月32日。
明日は、8月32日。





目を覚ます。東京のマンションからはヒグラシの声が聞こえない。代わりに遠くで救急車のサイレンが鳴っている。30分のつもりだったのにすっかり日が暮れるまで昼寝をしてしまった。
薄暗闇の中、9月から始まる撮影の資料が目に止まり僕は2022年に引き戻される。
悪夢のような教室ではない。
ここは僕の、安全な場所だ。


夕飯の準備に取り掛かろうと、のそのそと起き上がる。
こんなにも暑いというのに何故だか亡くなった祖母のカレーが恋しくなった。
祖母は隠し味のケチャップが重要なのだと言っていたが、いつも隠し切れないくらいに大量のケチャップを入れていた。
そんなカレーを作ってくれた祖母ももう何年も前に亡くなってしまったし、あの仏間があった立派な実家も津波で流されてしまったのでもうそれらを鮮明に辿る術はない。
振り返っても輪郭のないあの夏は白昼夢のようだ。


そうだな、やっぱり今日はカレーにしよう。
隠し切れないくらいの、ケチャップも入れてみるか。




小岩井ハナ



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