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おばあちゃんの「昔ながらのコロッケ」が認知症でカレーコロッケに変わった話


年末、実家のある宮城に数日間帰省した。
と言っても帰省ラッシュが始まる前にはやぶさに乗り込み、年を越す前にはこまちで東京へ戻ってきたので世間が思う「年末の帰省ラッシュ」からはほんの少しずれているのかもしれない。

「うちはいつでも正月みたいなもんだから年末年始にこだわらず都合がいい時に帰ってきたらいいよ」という両親からの連絡があったものの、80代の祖父母にあと何度会えるのだろうかと考えると、なんとなくめでたい雰囲気のある年末か年始には顔を見せたいなと思った。

それに冬の東北の海産物はやたらと美味い。特に年末は震災前の漁師仲間の人たちがカゴいっぱいに海の幸を詰めて分けてくれるのでそれを目掛けて帰らない理由はない。
あとは東京で年始に飲む日本酒を一升と何合かは買って帰りたい。

抗原検査を済ませ新幹線での飲食もせずそろそろと静かに実家に帰省した。


実家と言っても宮城のこの家には1年しか住んでいない。
16歳の頃に東日本大地震の津波で家をなくし、高校3年間は1年ずつ別の場所で暮らした。
1年生の頃までは元々住んでいた家で、震災直後の2年生は高校に近い内陸部の親戚の家に住まわせてもらい、高校3年生の時に今あるこの実家が建った。
そのため自室に思い入れがある訳でもなく、眠る部屋や寝具なんかも帰省するたびに変わったりもする。家の中での遊牧民だ。
それでも実家を実家たらしめるものは家そのものというより、そこに暮らす家族だったり匂いだったり味だったりする。
寺を寺たらしめるものは寺院であるが神社を神社たらしめるものはその土地であるといった具合に、実家を実家たらしめるものは家族である。
なので家族や家族の生活のおかげで私はそこを「実家」と思うことが出来る。


帰省して2日目の昼だろうか。
母が「ハナが食べたがってたから、おばあちゃんがコロッケ作ってくれたよ」と冷凍してあった祖母のコロッケを揚げてくれた。
「今度ハナが帰って来たら食べさせてやって」と作ってくれていたコロッケらしい。
このコロッケのシェフである母方の祖母とは同居こそしていなかったが、母の仕事の都合で幼少期から毎週のように面倒を見てもらっていたため、同居している父方の祖父母だとか別に暮らしている母方の祖父母だとかいう区別が私にはなかった。
どちらも同じ距離感の私の「おじいちゃんとおばあちゃん」であった。

同居していた父方の祖母はチャーハンとあんこ以外の料理は壊滅的であったが、母方の祖母は肉屋のお惣菜係を担当していたこともあり料理上手だ。
料理上手というより料理にすごく愛のある人と言った方がしっくりくる。
何か特別な調味料や材料を使っているわけでもないのにおばあちゃんのご飯を食べると身体が喜ぶ。
身体だけではなく、食材もおばあちゃんに調理されて喜んでいるような、そんな愛のある料理をいつも作ってくれた。
私もそれなりに料理が好きなので友人や自分の舌が喜ぶ料理を作ることは出来ても、祖母のように食材自身が喜んでいるような料理を作ることはまだまだ難しい。
手間暇を惜しまず「おいしい」の一言と笑顔のためにいつも寒くて小さな台所に立って料理をしてくれる、妖精のように小さなおばあちゃんの後ろ姿を思い出すと記憶の中だというのに抱きしめたくなる。


あれは中学校一年生の頃だったろうか。
文化祭の合唱コンクールで「クラスで一番人畜無害だから」という理由だけで指揮者に選ばれた私は上手に指揮棒を振れず音楽の先生に酷く叱られ、その日はとても落ち込んでいた。
絵や写真などの模写は得意なくせにダンスやその他諸々の動作などの形態模写の能力を著しく欠いていたため、四拍子の指揮を両手で振ることさえ出来なかったのだ。
1日何時間と練習してもぎこちなく片手でしか手を動かすことが出来ず、そのくせ両手両足を使ってドラムは叩けてしまうがために音楽の先生からは「サボって練習していない」と勘違いされこっぴどく怒られてしまったのだ。
サボってはいないにしろ両手で指揮を振れないことは事実である。
手の動きは真似できないくせに参考にしていた久石譲の似顔絵だけが上達し、より焦る。

いくら練習しても出来ない焦りと先生からの叱責で落ち込んでいた私に、おばあちゃんは何も言わずにコロッケとハンバーグを作ってくれた。
それらを口に運んだ途端ずっと張り詰めていた緊張や不安が解け、千と千尋の千がおにぎりを食べた時のように号泣してしまった。
ご飯を口に運ぶ度に何故だか「おばあちゃんは私の味方なんだ」と思い安心してボロボロと涙がこぼれ落ちた。
味方という言葉に味という字が入っているのはこういう訳なのかもしれないとすら思った。

取り調べ中の容疑者がカツ丼を食べて自白する古典的なあのテンプレートはあながち間違いではないのかもしれない。
咀嚼するたびに張り詰めていた糸が緩み、飯を飲み込むたびに本音を吐き出したくなり、涙がボロボロと溢れてくる。
それでもおばあちゃんは何も事情を聞かずにただ「泣きながらご飯を食べたことがある人は強くなるんだよ」と言い微笑んでいた。
(その約10年後に「カルテット」というドラマで同じような台詞を松たか子が口にしていて驚いた。もしかしたらこれは真理なのかもしれない)

そんな思い出や名もなき日々に食べ続けたおばあちゃんのコロッケは私にとって何よりのご馳走だ。
もし最期の晩餐が選べるのならおばあちゃんのコロッケか母の作った天かす丼がいい。おばあちゃんの方が私より先に亡くなっちゃうだろうから無理だろうけど。でもそれくらい、好きなのだ。

歳を取り台所に立つのも億劫になったであろうおばあちゃんがコロッケを作ってくれた。東北の寒さでキンキンに冷えたあの銀色のシンクの台所とそこに立つおばあちゃんを思い出す。
それだけで若干涙が出そうになるくらい、嬉しかった。
いつものあの味を確認するように、母が揚げてくれたおばあちゃんのコロッケを一口齧る。

あれ、なんだか、様子がおかしい。


「これ……カレー味じゃね?」


まさに晴天の霹靂だった。
私が生まれてから28年間、いや、母が産まれてからの50数年もの間一度も変わったことのないおばあちゃんのコロッケが初めてアレンジされていたのだ。
その衝撃はあんこ以外の大福は邪道だとずっと言っていた頑固な和菓子職人が何の前触れもなくある日突然クリーム大福を作り出したものに近いのかもしれない。
揺るがなかったおばあちゃんのコロッケはインド人が見落とすか見落とさないかギリギリのラインのほんのりとしたカレー風味になっていた。
絶対に崩れなかった味が、これからも崩れないと信じ込んでいた味が突然カレー風味に変身した。
80歳を超えてついに冒険に出たのかおばあちゃん!大航海時代じゃないか!
と私が若干興奮していると、母の顔が一瞬強張った。


母曰く、おばあちゃんは認知症が始まっているらしい。


この一年くらいのことだろうか。
おばあちゃんは物忘れや話が噛み合わないことが少しずつ増えていたようだ。
短期記憶が抜けていることもあれば長期記憶も抜け落ちていることもあり、それでも何らかのヒントやきっかけがあればぽつりぽつりと物事を思い出すことは出来るらしい。
家族のことを忘れるだとかそういうことはないにしても、同じ事柄を繰り返し話したり、かなり昔のことをつい昨日の出来事と勘違いしていたり、指示された時刻を時計の針で書き表すことが出来なくなっていたり。
認知症テストなるものを試してみてもやはり該当するらしく、今は生活に支障をきたしてはいないものの家族皆で気を付けて見守っていこうねといった感じになっているとのことだった。

そんな状態だからこそ、突然カレー味に化けたコロッケを母は不安がった。
「いや、これはこれで美味しいよ。全然あり!新メニューじゃん」という私の感想は全くもって母には響かず「どうして…カレー味になるの…」と眉をひそめるその不安とも悲しみとも落胆とも取れる表情が東京に帰ってからも私の脳裏に焼き付いていた。


母の味を失った母のショックは、私にはきちんと理解出来ない。
祖母の味が変わっても、私にはまだ母の味があるから。
そのことが保険になっているため母の気持ちを同じ温度で分かち合うことは出来ないし、正直に言えば私はまだその不安と対峙したくない。
だからこそ私は「でもカレー味のコロッケも美味しいね」と言い何個も平らげた。
そして太田胃酸にしっかりお世話になった。



おばあちゃんのこのカレーコロッケプチ騒動はなんだか宙ぶらりんで妙な喪失体験だなあと、私にはなんだか少しおかしく思えて仕方ない。
不可解であるというおかしさではなく、おかしみがあるというニュアンスでのおかしさだ。

母は「母の味」を、私は「祖母の味」をカレー味によって失った訳だがそもそものおばあちゃんはといえば、生きている。
バリバリ元気に生きている。
なんなら私よりも遥かに健康に生きている。
それにコロッケも若干のカレーの風味を除けばベースはおばあちゃんのコロッケであることには変わりなく、形状も元のコロッケのままなので口にしてみないとその変化には気付かない。

おばあちゃんは生きているし、コロッケの形状もそのままだ。
でも私と母は、小さな何かをあの日喪失した。
だが側から見れば何も喪失していないように思える。おばあちゃんもコロッケも健在している訳だから。
そのアンバランスさに若干のおかしみとなんとも言い表せない不安があってこれは趣深いなと思った。


突然だがよく「人は二度死ぬ」などと言う。
一度目は命が尽きた時で、二度目はその人のことを忘れてしまった時。
だから故人のことを忘れないでいようねなんて言うけれど、正直あまりピンと来ない。

私も人は二度と死ぬと思う。
一度目は心臓が止まった時で、二度目は故人との思い出を誰とも共有出来なくなった時なのだと思う。
滅多なことがない限り故人のことを忘れるなんてないけれど、その人との思い出を他の誰かと分かち合えず自分の朧げな記憶だけに存在するようになった時、それが二度目の死だと私は考える。
忘れるのではなく、誰とも分かち合えず朧なものになること。
それは忘れることよりも不確かで、恐ろしいことだ。


おばあちゃんのコロッケがカレー風味になった不安。
それは上記の二度目の死に少し近い体験だったからこそ生まれたものなのかもしれないと思った。
おばあちゃんの変わらない味がおばあちゃんの容態によって変わる味になったこと。
おばあちゃんのあの味を、食卓で誰かと共有出来なくなったこと。
おばあちゃんのあの味が、朧げな記憶の中でしかもう確かめられないこと。
でもおばあちゃんのコロッケ自体はそこに存在しているから、完全に喪失した訳ではない。
それにおばあちゃんも元気に生きているから、おばあちゃんを喪失した訳でもない。


形は実在しているのに、言葉に出来ない何かが失われる。
銘銘が抱えていたノスタルジアが本物のノスタルジアになってしまう切なさ。
その全体的なアンバランスさが絶妙でおかしな不安を醸し出していたのだろう。


そんな認知症がもたらす「目に見えない、他者に上手く伝えられない喪失感」というものをカレー風味になったコロッケが教えてくれた。


形が残っていても静かに失われるものがある。
それは老いていくことに近似しているのかもしれない。
姿形を留めて生きていても日々ゆっくりと何かを失い続けている。
かといって何もかもを永遠に残すことが美徳とは思えない。
だからこそ失っていきながらも、老いていきながらも、その中におかしみを見つけて生きていくことが私にとっては望ましいなと思った。

ちなみにどうしてカレー風味になったのかと母が祖母に尋ねたところ
「カレーライスがね、余っていたから!」
と元気にウインクしていたので、それもまたそれで良いなあと思えた。

私は何を手放して、何を忘れていこうか。
何を得るかよりも何を手放していくか、それがこれからの残りの人生の鍵になる気がする。

そんなことをカレーコロッケをきっかけに考える昨年末であった。


今年もどうぞよろしくお願いします。

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