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高円誌#02 Just Like a Boy

遮光カーテンだってのにカーテンレールから光がこんなにも漏れるのだからあまり意味がないように思う。
大学一年の時に買った長めのこの青いカーテンは引っ越すたびに裾を安全ピンなんかでとめて長さを調節して使い続けている。
眠れずに何度このカーテンの隙間から漏れ出る朝陽を眺めたことだろう。

夜眠れない代わりに朝眠れるという話でもない。
同様に夜眠れないのなら夜活動すればいい、という前向きな話でもない。
毎晩「今夜こそは眠れるのではないか」「今日こそ夜眠って朝起きて、人間らしい生活を取り戻すんだ」と律儀に意気込んでは、眠れず律儀に絶望する。
昼間に3時間ほど気絶するかのように眠るそれが僕の唯一の「睡眠」になっていた。

眠れない、眠れないと朝を迎える。
もうすっかり珍しいことではなくなった。
もはや眠れる日の方が珍しい。

もう降参といった具合にカーテンを片手で動かせる分だけ開いてみる。
僕のぼんやりとした顔を濃いオレンジ色した朝陽が狙い撃った。

例に漏れず2020年の夏のこの日も不眠症で一睡も出来ずに夜を越した。

あまり好きな言葉ではないけど、所謂コロナ禍になってから益々眠れなくなった。
大学に入学した18の頃から不眠症は始まっていたけれど、今ほど眠れない日が続くという訳ではなかった。
元々撮影以外で外に出ることも少なかったので最初は外出自粛もそれ程苦ではなかったものの「外に出ない」と選択していることと「外に出られない」という状況ではやはり色々違ってくる。

言葉にならない悲鳴が、小さな軋みが今にも心身から漏れ出て来そうであった。



25歳、睡眠薬と寝酒に頼ることを辞めた。
どちらも全く効かないのに翌日の罪悪感と倦怠感だけがすごいから。

25歳、人と深く関わることをより避けるようになった。僕より先に死なれるのが怖いから。


2019年の春、遠藤ミチロウさんが亡くなった。

そうだ、それから不眠症が著しく悪化したのだった。


ああ今日もまた眠れなかった。もう朝だってのに、また眠れなかった。
まあどうせこのまま眠れないだろうから、昔話でもしてみようと思う。




僕の両親はパンクロックが大好きで、高校時代は同じバンドに所属していたらしい。
父がドラムで母はベース。そんなリズム隊の長女として僕が誕生した。

僕がまだ母のお腹にいた頃。
周囲が胎教でモーツァルトを流している中我が両親はTHE STALIN(ミチロウさんのバンド)を「英才教育だっ!」と言って流していたらしい。

それから少し成長した小学校低学年の夕餉。父がしてくれる話と言ったら様々な国の伝承やお伽噺といったメルヘンなものでも、ましてや社会情勢といったステレオタイプな父親らしい賢い話でもなく、遠藤ミチロウさんの数々の伝説的なライブの話ばかりであった。

僕はそうして夕食の時間に80〜90年代パンクロックの様々なシーンを自然と享受して育ったが、ライブの最前列で父の友人がミチロウさんに頭でスイカを割られて二人で大喜びしたという話を聞いて流石に「もしかしたらうちの家族は少し変わっているのかもしれない」と気付き始めるのであった。

何にせよ漁から帰り、酒を飲みながら愉快そうにミチロウさんの話をする父が好きだった。
漁師という命懸けの職業故に険しい顔で仕事の話や同業者の話をすることがほとんどだったけれど、楽しそうにミチロウさんの話をしている父の方が好きだったし、子供ながらにそちらの父を覚えておきたいという思いがあったのかもしれない。



僕らが生まれたのはインターネットはもちろん携帯電話の電波すらない辺鄙な宮城県のとある集落だった。
大昔にどこかの王様が島流しされて辿り着いた浜が僕らの故郷。まあ、言ってしまえば流刑地だわな。
18時を回れば外に人の姿はなく、皆早寝して明朝の漁に備える。
娯楽といえば噂話くらいで、週に1度の街への外出はパチンコって具合のよくある田舎町だった。
非行に走ろうにも雄大な自然しかないので身を落とせる街の影のような場所もない。グレたら山の影で船の塗料をシンナー代わりに吸うか単車を改造するのが関の山。

そんな狭い社会に生まれ落ちたからこそ夕食の時に聞くミチロウさんの話はどこか遠い国の、いや、どこか別の世界の話をされているようでとてもワクワクしたのを覚えている。


上記のような環境に生まれ育ったにも関わらず、父も母も噂話や賭け事を嫌った。そういうところはとても実直な人達だ。
代わりに惜しみなく本や音楽、画材を与え、そしてそれらを楽しみ尽くす術を教えてくれた。
絵を描きたいといえば母が画材の使い方や描き方を教えてくれる。キャンバスがなければ段ボールや地面に絵を描き、ないものは買う前に自分で作り出すという創作の基礎を教えてくれた。
こんな音楽が好きと言えば「じゃあこれも好きなはずだ!」と父がまた別のバンドのレコードを引っ張り出してくる。

物も情報も地引き網のように豊富に収穫出来ない不自由な場所に生まれたからこそ、貪欲にそれらを狩りに行く姿勢が小学生の頃には備わっていたように思う。
そしてその狩りの方向性というのが若干のサブカルチャーというかアンダーグラウンドというか…最初からあまりメジャーではない方に向いてしまったので、もしかするとあの時から既に高円寺街道をまっしぐらだったのかもしれない。
ちなみにその頃模写した絵は丸尾末広や松本大洋で、聴き込んでいた音楽はTHE STALINやポーグスだった。



時を経てミチロウさんと出会ったのは高校生の頃。
初めて行ったミチロウさんのライブ会場で、ミチロウさんに「君この辺りに住んでる高校生だよね?このブログ書いてる子同い年くらいじゃないかな。知り合いだったりしない?」と聞かれ、ミチロウさんに見せられたそのブログというのが正に僕が書いていたブログだった。
それがミチロウさんとの出会いだった。

震災直後、僕はブログを書いていた。
被災して家を失った代わりに、内陸地へ避難したことで電波を得たのだ。
テレビや新聞が報道するのはマクロな情報ばかりだったので、もっと私的なミクロな生の言葉を残しておく必要があると思いマイペースにブログを更新し続けていたのだった。

記事の本数こそ多くはないが1日で200万アクセスを超えることもあったし比例して様々な誹謗中傷も寄せられるようになり、心もそれなりに病んでいた。
でもそれをミチロウさんまで読んでくれているとは。書いている時は想像もしていなかった。

「それ書いてるの、僕です…」と恐る恐る答えるとミチロウさんは「君?!君だったのかあ!!」と少年のような満面の笑みで抱きしめてくれた。

「僕ね、君の言葉が、君の詩が大好きなんだよお」と頬ずりをしてくれた。
ライブに一緒に来ていた母はあまりのことにただただ爆笑していた。

当時僕が書いていた文章は「被災した女子高生のブログ」として広まっていたけれど、あれが「詩」であることに気付いてくれたのはミチロウさんが最初で最後の人だった。

何かを作り続けていたら、ちゃんと届くんだ。
小さい頃から憧れていた人にまで、届くんだ。
そんな実感を高校生の時に得られたことがとてもありがたかった。


それからもミチロウさんとの良い関係性は続いた。
ライブで宮城に来る際は僕の実家に宿泊したり、僕が身体を壊して療養しているとお見舞いに来て公開前の「SHIDAMYOJIN」を病床で上映してくれた。
ご自身も闘病が続き僕なんかよりもずっと体調がすぐれないのに。
いつでも愛されていることが分かるくらい、たくさんの愛情を注いでくれた。
僕は何かミチロウさんに返せたのだろうか。


2018年の秋。宮城でのライブ終演後。
ミチロウさんはライブハウスを出たところで僕を抱きしめて
「ハナちゃん、写真辞めないでね。仕事でやるとかやらないとかは関係なく、写真を撮ることは辞めないでね。僕ね、カメラマンって大好きなんだよ」
と笑ってくれた。
ミチロウさんはご自身の病状のこともよくメールで教えてくれていた。
ミチロウさんの足元はもういつものドクターマーチンのチェリーレッドではない。機能性を重視した黒のスニーカー。骨の形が分かるくらいに痩せた身体と、杖と大きくなったギター。
言葉よりも言葉にされなかったそれらの方が雄弁にミチロウさんの状態を物語っていた。
それでも線香花火が力を振り絞って煌めくように、赤い赤い小さなマグマのような命が震えながら燃えている。
何故か分からないけれどこれがミチロウさんとの最終回なんだという気がした。
泣きたい気持ちを抑えて僕も「はい」と笑い返した。「写真、続けます」とだけ。

そしてそれが本当にミチロウさんとの最後になってしまった。



悲しいことだけれど、人の死には慣れてしまったと思っていた。
小さい頃から病気や事故で周囲の大事な人が亡くなることが本当に多かったし、震災はそれの極めつけだった。
悲しみに引っ張られ絡まりそうになるのを、丁寧に一本一本解きながら、たくさんの人を見送って来た。

でも何故かミチロウさんはそうはいかなかった。
1年経った2020年のこの頃も布団に就くとミチロウさんのことばかり思い出され、何故だか涙がポロポロ溢れて来た。

つい最近になるまで「ミチロウさん」という名前すら口に出せないでいた。それは僕の両親も同じだった。
その名前を出してしまったら、堰を切ったようにとてつもない何かが溢れ出してしまう。
立っていられないくらいの強烈な何かが胸を突き破ってしまうことを身体が知っていた。
だから実家に帰省した際も、誰もミチロウさんの話はしなかった。
思っていることは同じだった。
だから誰も、何も触れないようにしていた。


そんなミチロウさんの死とコロナ禍での環境の変化が重なり、僕は益々眠れなくなった。


眠れないし動けない。
朝陽に撃たれて、不健康であることへの焦りで身が焼けそうになる。
流石にこれじゃまずいと思い、人通りの少ない深夜に散歩してみようと考えた。
どうせ眠れないんだ。一年間そうだったろう。
だったら今夜くらい諦めて街を歩いてみよう。

そう腹を括って、その日は高円寺の深夜を雪駄でペタペタと散歩した。


ミチロウさんに勧められて2015年に高円寺に引っ越してからも、僕は特にこの街を満喫してこなかった。
料理をするのが好きなので外食もあまりしないし、酒は好きでも警戒心が強いため人前であまり飲み食いしたくない。だから行きつけの飲み屋なんてものもない。
ただ散歩は好きなので少し歩くだけでよく景色が変わる街に住んでいたい。
あとは本屋。出来るだけ遅くまでやっている本屋と、品揃えがいい古本屋は近くに欲しい。
そんなこんなの条件を見事に満たしているのが高円寺であったため、高円寺の中で1度引っ越しをしたもののなんとなくこの街に居着いてしまった。


2020年の夜の高円寺はコロナが流行る前よりずいぶん人通りが少なくなっている。
リビングデッドと言わんばかりに項垂れ彷徨う自分のような輩や、情勢なんてお構いなしで酔っ払っている輩も数名いた。


そうして街をぼんやり眺めていると果てしない気持ちになった。
暗い海に投げ出され、プカプカと小舟で浮いているような気分。
元々明日の波止場なんて想像出来ないような人間がたくさん住むこの街は、コロナが加わって余計に不安定になっているように見えた。

皆、確かにそこにあるはずの帰路を求めて彷徨っている。
でも港の灯台が灯っていないから帰る方角が分からない。前なんて分からない暗闇では進めば進むほどに迷ってしまう。
高円寺駅北口ロータリーに停泊して街を眺めたつもりでも、ロータリーそのものが最早真っ暗な海のようで恐ろしくなった。




歩みを進めふと高架下のマクドナルドの辺りに差し掛かった時
優しい歌声が聴こえてきた。
心が痛い。そう思った。
今まで可視化できなかった擦り傷たちがジンと痛むのを感じる。
お風呂で傷口がしみて、ようやく怪我していたことに気付くあの感じだ。
知らず知らずのうちに傷ついていたことを教えてくれるかのような、木漏れ日のように丸くて優しい歌声が夜の高円寺で鳴っている。
声が響いているのではない、鳴っている。街に。暗い海に。声が鳴っていた。
己が雪駄ばかり見つめていた目で、思わず辺りを見回した。
その声の主こそが、後の僕の高円寺生活を大きく変えることとなるグッナイ小形さんだった。


高架下、シャッターの降りた京樽の前を覗いてみると地面に腰を下ろした小形さんがアコギ一本で歌っていた。
友人なのかそうでないのか判別のつかない人懐っこそうな人が大勢小形さんと同じように地面に腰を下ろして路上ライブを聴いていた。

業が深い街にいる割には素朴な表情をしている彼らを少し遠くから見つめる。
決してたむろして馴れ合っている訳ではなさそうだ。
ただふらりとここで、ばったり会っただけ。
約束をしたわけでもない。
今日も灯台が明るかったから寄っただけ。
たまたま見知った顔があっただけ。
ただ自然とそこに停泊してしまっただけ。
その自然さがとてもよかった。

きっとこの人はいつもここで歌っているのだろう。
そうして誰でもない誰かを待つように、灯台のようにここで優しく灯っては歌っているのだろう。
だからこんなにも寂しそうで静かな小舟がたくさん集まっている。
そう思った。

小形さんとその友人なのか友人でないのか判断しかねる人々のその集いは、当時の僕にとっては少し怖くて、そしてとても眩しかった。
「関わりたくないけど、いい光景だなあ」

それが第一印象だった。



「写真、辞めないでね」
ふとミチロウさんの声が反芻された。
「僕ね、カメラマンって大好きなんだよ」
あの優しい声で、しっかりと反芻された。

コロナで撮影の仕事は激減していた。人に会えない、外に出られないのだからどこの現場もストップしている。
スケジュールを組まれてはバラし、長く続いた会社との撮影もなくなる。
またこうして色んな「仕方ない」に殺されていくうちに、カメラを持つ気力もなくなりつつあった。
だけど路上の彼らを目の当たりにした時、確かに心が動いた。

「あまり関わりたくないけど、この人たちを撮ってみたい」

そう思った。

僕はこれからこの高円寺の暗い夜の海に航海していくことになろうとは、例の如くまだ知る由もなかった。





あの白い鉄塔、13本あるんだって。やっくんがそう言ってた。

いつか北口ロータリーの噴水に金魚が放されたことがあったんだけど、あれ、実は鯉だったらしいよ。

社長ってあだ名のホームレスは3回刑務所に入っているし、顔がバラバラおじさんは今日も元気に歌っている。

島田はいつも笑ってくれるけど自分の話はなかなかしてくれないし、りえちゃんは少しくらい悲しくても笑っている。

タブチのカレーの皿はスケボーくらい大きいし、門一のおじさんは食べきれないくらい次から次へとご飯を出してくれるし、小形さんは今日も水色の煙草を吸っている。




「Just Like a Boyを歌うとハナちゃんのこと思い出すんだよ」とミチロウさんがいつかの夏、そう口にしていたことを思い出す。
僕の故郷でのライブの際に
「遥か彼方の海の向こうで 君の言葉が輝いているよ」と歌詞を変えて歌ってくれたこともあった。



果たしてやっくんの言っていた白い鉄塔は13本あるのか。そもそもやっくんとは誰なのか。
北口ロータリーの噴水で泳ぐ金魚は本当に金魚なのか。
タブチのカレーの皿はそんなにも大きいのか。

僕はこれから、この街でそんな小さな答え探しをしていく。
まるで少年のように、街に出て。


小岩井より

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