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批評論

社会学の先生が、「客観的」「科学的」「中立」に社会調査をするコツを訊く学生たちに、「客観的ってなんなんでしょうねえ」とぼやいていた。客観と主観は対立関係にあり、必ず客観のほうが立場が上であり、「それってあなたの感想ですよね」と言われてひるまない人はいないだろう。そして批評とは、主観的なことをいかに客観的に言うかにかかっているような気がしている。気がしている、というのは分からないということだ。私が批評をできているのか、私の感想なのか。批評家です、と自称できるなら、批評家ではありません、とも言えることになる。自称できるシステムを否定しているわけではない。東浩紀が「自己嫌悪はあらゆるひとにかならず訪れるはず。その瞬間こそが批評の萌芽なんです」と言うように、批評は独占された営みではない。

ところが、批評は自意識の塊がやることだから、非常に面倒くさそうなイメージがついている。自分が好きなものをまっすぐに好きと言わないで、なぜ好きなのか、他の人はどうなのか、自分が変なのか、と思考錯誤する、自分を取り巻くものを使って自分を見つめ、説明したがる人種。例え間口が広くても、中にいる人のエリート意識は想像に難くない。

 少し話は変わるが、私は「みんな違ってみんないい」はあり得ないと考えている。あなたがアメリカの文化が本当にいいと思うなら、あなたはなぜ日本流の暮らしを続けるのか。慣れ親しんだものであっても、いいものがあるならそちらを選んだらより良いではないか。できないのだ。本当のところは「みんな違って私が一番いい」のである。そもそも文化を変質させるのは互いの尊重ではない。もちろん出会いにより文化が変容するのは歴史的にずっと行われてきたことだし、それに対しての批判ではない。

私が言いたいのは、誰もが、自分自身が一番正しいと思って生きているし、その前提において批評はその最たるものではないかということだ。オリジナリティ、独創性、そんな言葉では語ることのできない、人間同士の「正しさ」がひしめき合っている場所が、批評の世界なのではないだろうか。私が一番正しく世界を見ていて、一番上手にこの世界を説明できる。それが感想として読まれないためには、批評の対象と自分自身の距離が必要だ。そして、他人の批評に対しては「そうか、君はそんな風に考えているんだね」と言いながら、内心では自分の持っている模範解答と照らし合わせて点数をつけている。

しかし、相手を打ち負かしたい、自分の「正しさ」の国に従えたいという欲求に反し、他人の「正しさ」にも正しさを覚えてしまうことが往々にしてある。拒絶し、科学的手法の元また新たな理論を展開するか、もしくは相手の「正しさ」に入るか。そんな葛藤を繰り返すことこそが批評の本質であろう。そして、それを経験したとき「みんな違ってみんないい」の言葉が身に沁みて分かるのだ。上の立場から、他人の文化に許しを与えるように無条件に存在を認めてあげるのが多文化共生への道のりではない。自分自身の全てをかけて相手の世界を否定し、逆にプライドに喘ぎ苦しみながら相手を認める。自分のどこが正しくないんだ、教えてくれと、自分が進むべき正しさを探し求める、飢えの営みなのである。

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