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また次回、という不確かな約束と彼女

完結していない物語を追うことが、いつしか怖くなりました。毎週ジャンプを読んだり、好きな役者の出ているドラマの放送を火曜日まで待ったり、そういう些細なことです。

「この物語は続く」ということを理解しながら、できたてほやほやの最新作を読むことは勇気と体力が必要です。
好きな漫画が次回もある、その次もある、それは喜びでありながら、しかしその先どこまで続くかは分かりません。私がこの世から消えても果てしなく紡がれるかもしれないし、もしかすると今読んでいるこれが最終話になるかもしれない。実際、私が読んでいた最中に終わりを迎えた物語がいくつもあります。今期の新作アニメ全12話という縛りすら、不確かなものです。

好きな物語がいつまでもあれ、と願っているのに、心のどこかで、今すぐに終わってくれたら楽なのに、とも思っています。私が立つここは、世界のどのあたりにいるのか、それは作品をつくった人にすら分からないものです。

これは、丸ごと人生に当てはまります。私に分かるのは過去の長さだけ、いいえ、全体の長さが分からないのに、ただ生きた時間を表示することにすら意味がありません。今、ここにいることだけが真実であり、私自身がいつ終わるかも分からない物語そのものを生きる主体です。ひょっとしなくても、それはとんでもないことなんだ。

二階堂奥歯の『八本足の蝶』(河出文庫)という本を読み始めました。二階堂奥歯というのは実在した編集者で、彼女は25歳で、自らその人生に終止符を打ちました。『八本足の蝶』は、彼女が亡くなるまでの数年間に、彼女自身がウェブサイトに投稿した日記を書籍化したものです。

読みながら、私はずっと戸惑っています。彼女の綴る日記は、少なくとも初期であればあるほど、その生の短さを知りません。ただその時を掴み、暗闇に向かって突き進みます、力強さによらず。日記というのはそういうものだと思っています。しかし、読んでいる私は彼女の最期を知っています。

悲劇というのは、終わるというそれ自体ではなく、終わることで他者から安堵の表情で、高く評価されてしまうことなのだと思います。
生きてさえいたら、身体の中に溜まる濁りを汚らわしいと罵られたり、捻じれた心を何らかの形で与え合おうとすることができるのに、人は「終わり」だと感じた瞬間になぜ、すべてを一言で片づけようとするのでしょうか。生きていた数字に時間はなくとも、月を眺めて考えることは日々変わり、夜を超えるほど、心の影は玉虫色に輝くというのに。奥歯の日記が生々しく息をするのは、そのためです。

一冊の本に収まっていること、この物語は完結していること、俯瞰している立場にいる私は、「今」より強い場所にいられるから、終わりが好きなのです。物語とともに走る怖さは、生きていることに気づいてしまう怖さと似ています。

『八本足の蝶』を読むことは、二階堂奥歯が感じていた恐怖と共に歩くことなのかもしれません。ページはあと半分あり、私は彼女の物語が続くことを願うのに、彼女はその長さを恨み、終わってしまえ、と叫びます。次回もある、と、私も、作者も、一緒に信じられることは、心臓が焼き切れそうだけど、本当はこんなに嬉しいことはないのかもしれない。

いつか、火曜日があると信じられる日が来ることを楽しみに、続きを読むことにします。

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