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だいじょうぶ

灰色の空、熱を帯びた薄い膜が肌に貼り付くような空気。
ここ最近はずっと息が苦しく、体が重い。

何だっけ、この感じ。

窓の外を見て思い出した。
ああ、子どもの頃って、なんかずっとこんな感じだったな、と。

窓の外の雨を眺めながら、母がアイロンを掛けているそばで、絵を描いたり、本を広げたりするのが好きだった。
人生でいちばん、守られていた頃の記憶。
「好き」という気持ちはいつも「不安」とともにあった。
守られていながら、それが永遠ではないおそろしさを、今よりもずっと、体全体で感じ取っていた気がする。
不安になった時、私は目を瞑り、確かめるように自分の体を自分で抱きしめた。
いつも眠くて、眠れなくて、世界に絶望していた、子どもの頃の私。

よく知らない大人が馴々しく近づいてくるのが本当にいやで、その割に「子どもらしくない」とため息をつかれると傷ついていた。次第に子どもらしいとされる態度を真似て、かわいがられる術を覚え、辿りながらその時代を生き抜いた私は、大人になっても、ずっと子どもがこわかった。

みんなそんなもんだと思っていた。
だから、仕事でいろんな子どもと出会い、絶望とか、不安とか、愛され方とか、そんなこと考えもしない子どもが、意外とたくさんいることを知った時、感動して、眩しくて、うらやましくて、でも不思議と疎ましさはほとんどなかった。
かえって、子どもという生き物のすべてを愛しいと思うようになり、そう思えるようになってから子を授かることができたのも幸運なことだと思っていた。
かつて自分が憎んでいた、盲目な大人になっていることにも気づかずに。

自分の体から出てきた子どもは、とても不安感が強い子だった。
「お母さんが笑ってれば、子どもは自然と笑うもの」
「ゆったりとかまえてればいい」
その言葉はかえって、私にとっては呪いのようで、どんなに笑顔で接しても、柔らかく抱きしめても泣き叫ぶ我が子を私はいつからか、かわいいと思えなくなっていた。

理想の子育てなんてないし、特別なことは何も求めていない。
着替える、爪を切る、お風呂に入る、お風呂から出る、おもちゃで遊ぶ、寝返りを打つ・・・
ただみんなが無表情で、またはにこにことできているあらゆることで、うちの息子は、こちらの耳がちぎれそうになるくらいに泣き叫ぶ。
これは赤ちゃんの泣き方ではなく、「怒り」だね、と言う人もいた。

「だいじょうぶ、みんな一緒だよ」
優しさからなんだろうけど、そう言ってくれる人が憎らしかった。
よく知らない私にもずんずん笑顔で近づいてきて、にこにこしながら爪を切られ、ケープの中でおっぱいを飲み、気づけばすやすや眠りについて、お皿も財布もカメラもスマホも本も投げ飛ばさないようなあなたの子とうちの子の子育てを一緒にしないでくれ。
私はあらゆる方法をやってきて、それでも、この子はこうなのだ。
その子にはその子なりの大変さがあることも分かっていた。
けど、それならなおさら、一緒だなんて言ってほしくなかった。
こんなことを思ってしまう自分にも嫌気がさして、ああやっぱり他人に弱音なんて吐くもんじゃないな、と思った。

「いいパパになりそう」とみんなに言われ、妊婦健診もほぼ皆勤賞だった夫は、産後すぐ、私の代わりにガルガル期とマタニティーブルーになり、早々にいろんな役割から降りた。私はやれやれといった感じで、出産や育児くらいでへこたれない自分が強くてたくましいと思っていた。周りには「子育て余裕」と思わせたかった。実際は、じわじわと、本当にじわじわと、蝕まれていたんだと思う。

1歳半の時、私の不注意で、息子を骨折させてしまった。
ワンオペながら、やっといろんなことを楽しめるようになってきたかもという矢先だった。公園のベンチで一緒にパンを食べていて、急に走り出した子に追いつけなかったのだ。
「ストップーーー!!!」と叫ぶ私に、息子は笑顔で手を振りながら石段から落ちた。
追いかける時、落ちた財布やスマホを拾わなければ間に合っていた。そんなもの後でも良かったのに拾ったのは、数日前に同じ公園でスマホを落として夜まで見つからなかったのと、まさか1歳児の走る速さがそこまでになっていると思わなかった自分の読みの甘さからだった。
白くて小さな腕に、小さなギプスと三角巾。それもその段階では後遺症が残る可能性もあると言われていた。見ているだけで涙があふれるのに、悲しみ嘆く夫や、子の姿を見る人たちの目がさらに私を追い込んだ。泣く資格もないのがつらかった。
子は骨折そのものよりも、病院でレントゲンを撮る際に私たちと引き離され、真っ暗な部屋でグルグル巻きにされたことがトラウマのようだった。
そろそろと思っていた卒乳も、子が恐ろしく不安定になり、乳をよりどころにするようになってしまったので断念した。それまではできるだけ時間を考えてあげていたが、そこからは、欲しがれば欲しがるだけ、ひたすら乳をあげた。息子が寝た後、暗い部屋で、布団をかぶって、何度泣いたか分からない。懺悔の授乳は、本人が「もうやめる!」と言い出すまで、なんと3歳半まで続いた。

コロナ禍ということもあって、私にとっての育児はずっと暗いトンネルのようなものだった。
今も当時を思い出すと胸が苦しくなる。たぶん、これからもずっと。

息子のことを、また心からかわいいと思えるようになったのは、自分の子ども時代の記憶と今の息子の姿が重なってきた頃あたりからかもしれない。
他人からはどうせ理解されないだろうと思って、当時はしまっていた気持ちを、息子と一緒に分かち合った。

「あぁ、そういうことってあるよね。お母さんもよくそういうことあって泣いたなぁ」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。お母さんも昔おんなじだったよ」

そのうち、かつての自分のように「お前の話と一緒にするな」と怒られるかもしれない。
それでも最近の息子は、そんな風に伝えると、顔がぱっと明るくなることが増えた。
私は何度でも彼を抱きしめる。

わかるよ。
だいじょうぶだよ。

気休めではなく、本当に不安で、暗くて、しんどかったあの頃の自分がいたからこそ寄り添えた気持ち。
重く居座っていた記憶も、やっと成仏できる時になったのかもしれない。


この前、保育園の連絡ノートに先生がこう書いてくれた。

今日は給食の後、私が○○(息子)君のお茶をこぼしてしまうと「大丈夫だよ!○○もそういうときあるからさ!気にしないで!」と優しく声をかけてくれました!本当に自然にすっと出てくる言葉に○○くんの人への気持ちが伝わってきます。言葉掛けありがとう ○○くん!

たったこれだけのことだけど、これまでの数年間が、さらに子ども時代からの自分までもが、ちょっと報われたようで、胸が熱くなった。

いい親になろうなんて思わない。
いい子になろうとも思わなくていい。

ただ、子どもには幸せでいてほしい。
だいじょうぶって思ってほしい。

ほんと、それだけだ。



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