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紅白梅図屏風とその灯り(素人による展示美術論)

このエッセイは、大学で受けた授業を踏まえてまとめたレポートを編集したものになります。



1.紅白梅図屏風


 私の一番好きな作品を申し上げれば、それは尾形光琳の紅白梅図屏風です。初めて見たのはテレビでしたが、その標題の割に澱んだ空気を醸すこの作品のアイロニカルな雰囲気が印象に残りました。両側の梅の木は下から上に(上底の長い台形のような形で)広がっています。普通、下から上に開くイメージで言えば、花が開くような芳しさや艶やかさといった丸みを帯びたものをイメージしますが、この作品はもっと地面の奥深くから、もっと言えば根源的な部分からの広がりを持っているように感じられます。そのように感じる理由を私は、左手の白梅に見ています。右手の紅梅が幹の根から手を開いているのに対し、(人間で例えるならば立ったまま両手を広げているようなのに対し、)左手の白梅からは一度両手を畳んでしゃがみ込んだ後、うねるかのように再び立ち上がりつつ手を広げているような印象を受けます。枝の書き方も右がひらがなのような曲線美であるのに対し(柔和的ないし女性的?)、左は漢字のはね・はらいのような隆々とした印象(男性的?)です。

 こうした紅白梅図の主題がアイロニカルであるのは、中央の川の流れが遠景から近景へと流れているものの、渦を巻いているために起こる、その底知れなさによるものです。また、中景の歪んだ描き方も、川の流れの不定さ・予測不可能さを表しているようです。普通不均一な流れを見せる川といえば急峻なものであり、急峻故に踏み込めない底知れなさがあるものですが、それとは異なります。また先ほど、左手の白梅が根源的な動きと隆々とした印象を見せていると述べました。それに比べると中央の川は根源が不可視的であり、また鬱屈としていて(紅梅のような)円環的な閉じた丸みを帯びていますが、それでもなお、何か生命的でカオティックな拡大の兆しを見せています。このように見てみると、一見、梅という同種を隔てるようにして川がある気がしますが、実のところ対極に位置する紅白それぞれの梅の要素を混ぜ合わせるようにして中央の川が存在することによって、両者の橋渡しの役割を担っているとも取れるのではないでしょうか。だからこそ主題は両端の梅であり、翻って言語化されていないからこその不明瞭な不気味さを川の影に落とすのではないでしょうか。

 さらに言えば、川の平面っぽさが不気味であるとも言えます。それは、両側の梅が立体的に見えるからであり、それは木皮の濃淡や剥落によって見事に表されています。しかし、よくみると花はほとんど鑑賞者側を向いています。普通、花が同じ方向を向いていると、何か人為的な、自然的な躍動感とは離れる気がしますが、この屏風においては花の見え方を意識しつつそれをうまく表現の範疇で不自然にならないように木皮が保障しています。これにより、梅花と川を近景のレイヤー内で親和させつつ、遠景との不和なひずみを生み出すことで、アイロニカルな印象が生じるとも言えるのではないでしょうか。


2.博物館について


 こんなに述べましたが、私はあまり美術品に明るくないですし、美術用語も知らなければ、美術館にも滅多に行かず、ほとんどの作品も2〜3分みるか見ないかぐらいです。(紅白梅図屏風は30分くらい見ていた気がしますが。)その理由として、どうにも美術館的展示と博物館的展示が私にはミスマッチである、という点があります。作品の生きた匂いがしない、という感覚でしょうか。そこで展示されるものには再び運転されるのを望んでいる古びたバイクのような息遣いは感じられるのですが、それは生命の鼓動とは言い難い、寝息のような深呼吸です。

 私としては、物にはあるべき場所があるような気がします。ものは物自体というよりはその部屋的な周囲や背景といった相との関連の中にある、というのに近いことをとある空間・造形の講義で聞きました。それと同じで、科学的に分離・摘出されたものに(特に文化学的歴史学的人類学的な芸術品に関しては)収集的価値以上のものを見出しづらいような気がします。これが私のいう博物館的展示(類似表現としては「図書館的展示」でしょうか)です。そうすると、私が紅白梅図屏風に見た澱みもテレビや美術館で見た黒背景の影響かも知れません。そのような美術館だからこそ、生の躍動を紅白梅図屏風に見たのかも知れませんが。

 私個人としては、こういった墓場ともいうべき博物館的展示にこそ、現代絵画が映え、そこに魂(Guistないしアウラ)のような根源的な作者の息遣いが生まれるような気がします。白を基調とした美術館的展示では、作品は白の持つ生によって均質化され、ウィンドウショッピングのような比較的で資本主義的な展示品になってしまう気がします。特に、現代絵画特有の「デザイン」感においてはその意味合いが強まっている気がします。

 むしろ白を基調とした美術館では、写実主義や印象派が良い気がします。生の躍動がもたらす息苦しさとは対照的に、自然的環境のもたらす均質感は平穏なひと息をもたらします。本当はそれらの絵も眺望としての窓として家の形をした何かしらの空間に飾るのがちょうど良いのですが、実際のところオリジナルは一つでありその大半が海外であるからしてそういった作品をベースとして建物を考えるのは難しく、従って箱物としての白を基調とした美術館で飾られるのは仕方のないことでしょう。(なお、個人的な意見ですがルネサンスからロマン主義までの絵画に関しては、写実的な人為的空間のような印象を受けるので、面白い深みを感じることができません。)

 では、立体造形はどうでしょうか。絵画は、そのスクリーン内で独自の世界を形成するためにある種フィクショナルな印象があるので空間的影響は少なく、かえってその異質さを与えますが、その意味では立体造形の方が空間に溶け込む気がします。しかしそれは空間自体が生きていなければなりません。ですので、私は美術館的展示と博物館的展示のいずれにおいてもあまり(文化学的歴史学的人類学的な文脈を持つ)立体造形に心を奪われたことがありません。博物館で見る仏像と寺で見る仏像について考えれば、後者の方が威光を感じる気がします。

 私はこうした文化学的歴史学的人類学的な空間を訪れる際には、その周縁に根ざす人の気持ちで歩き、見たいと思っています。古墳を囲む埴輪は何を護っているのだろうか、火焔土器は祭儀にどんな神話を見たのだろうか、遮光器土偶はどんなフィクショナルなノンフィクションに生まれたのだろうか、そういったことをできれば肌身で知りたいのですが、現実的には厳しいでしょう。肌身で「知る」といったのは、少なからず私にも博物館的コレクター気質があるからです。

 現代的な空間芸術を見に来る人は、(イルミネーションやチームラボでもいいですが)訪れる意識を以ってその空間に入ります。それは経験のコレクターにすぎません。私たちはその空間を買えませんが、あけすけに言えばどこでも似たようなことはやっています。私がこれと異なるのは、「そこ」でしか見られない「それ」を探しているという不交換性(≠不交換「価値」性)のみで、訪れる意識のコレクターという点ではおそらく変わらないでしょう。なぜなら、普段どれだけ空間的に意識して自分の部屋や通学路を見ているかと言われれば、ほとんど意識して見ていないからです。温かい湯船に体を浸しても溶け出すような感覚があるだけで、実際には溶けきらず、最終的に湯船から出るようなものです。エイリアンは結局エイリアンです。ただただ、文化学的歴史学的人類学的にノンフィクショナルであるということのみが、フィクショナルなそれよりは異邦人でないような意識をくれるというだけです。結局のところ、私も博物館的展示を素地とした人間です。

 では、博物館的展示と美術館的展示に適したものはあるでしょうか。思うにそれは、前者が古代ギリシア的彫刻であり、後者が民芸品としての彫刻です。後者はその素朴さ・自然性(↔︎人間性)ゆえに、経済的差異を生み出しづらく、それでいて各々の空間に独特の緩やかな風を流し、生きた現実空間とのシンクロニシティを起こします。反対に前者は、そこにセレンディピティを生み出します。なぜなら古代ギリシア的彫刻は、「どう足掻いても消滅する」、という人間存在の持つ悲劇性の相剋の末に生まれたからです。その存在は、人を模した生々しい墓場でありつつ、何かを伝えんとする佇まいです。その目を見ても何かを伝えようとしていて、その真意を読み取ろうとすれば眼差しの奥に吸い込まれそうになるようなブラックホールの危うさを持ちます。しかしそれでいて悠然としていて、何か高みの輝きを放っています。死後も生きようとする魂の鼓動が、仮に彫刻とそれをうつノミとして現れているような気がします。そしてそれらが本来飾られていたであろう神殿とは、翻って俗世の有限性を示していたのではないでしょうか。であるならば、古代ギリシア的彫刻は博物館的展示に適していると言えるのではないかと考えます。

3.あかりについて


 話を戻しますが、前述の通り、紅白梅図屏風には見えない根源からの躍動感があるといました。また、ものはあるべき場所があるというような話もしました。私はこの二つについて先述の講義で話されていたことを絡めて考えると、あかりに対する西洋と日本の違いというものを考えざるを得ません。その講義では、日本は南面採光であるために庭が影になる、そして西洋はその反対に窓が北にあるため木がよく見える、といったお話がありました。思うにそれは、日本の思想や創造性にも現れているような気がします。

 例えば、日本の松はどうでしょうか。アップされた松の葉の描き方を見てみると、下から上に広がるように描かれています。幹を見てもやはり、下から上に伸びるような描き方がなされていて、まるで下から覗き込むような視点で描かれています。歌川広重の名所江戸百景のような、自然を背景としたロングショットの浮世絵を見てみても、せいぜいその視点は人間の視線から水平的に捉えられていて、上からの視点ではないような気がします。そもそも、浮世絵自体が全体としてくすんだような色遣いであるのも、このような南面採光の捉え方があるためではないでしょうか。

 対して印象派の絵画は、上からの視点が多いような気がします。ゴッホの「花の馬栗の木」というのをAmazonで発見しましたが、これは日光に当たる葉という、上から下の流れがあります。モネの「モレノガーデンのオリーブの木」では、確かに下から上に描かれてはいますが、その影は他の影と混ざり額縁の外へ消えるだけで、影として強調されているような印象は受けません。むしろ、木漏れ日とそれに映し出される鮮やかな赤茶の地面がコントラストによって注目させる印象を受けます。「草上の昼食」に関しても、確かに空間としては影ですが、主題となるのは中央の人々とそこに当たる上からの光です。

 そして人工的なあかりについても同様の印象があるように思われます。西洋はシャンデリアや壁掛けランプ、ガス灯といった人間の背丈より上からの明かりのイメージがあります。そしてそれらの形状は、ベッドサイドランプのランプシェード(アバジュール)ような下底の長い台形イメージがあり、そこには上から下の印象があります。対して、日本の神社などに見られる灯籠は木製と石製の物がありますが、前者は一本の木から広がりを持つようにして、上底の長い火袋が設けられており、後者は正面から見ると長方形のような火袋を設けています。もちろん、灯籠の屋根は、屋根単体としてみれば上から下の広がりのように見えるでしょう。しかしながら、灯篭というのは大体目線と同じ高さに来ます。ですので、西洋的な広がりが自らに降りかかるというよりは、地面から一続きに生えてきた何かが収束するかのような印象を受けます。そのような高さにあかりがなっているのも、南面採光によって、庭に生えた木が影を作るからではないでしょうか。

写真は以下より引用。

https://www.moaart.or.jp/?collections=053


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