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行き詰ったら「子ども」になってみればいい

ナビ派の画家であったピエール・ボナールは、終生「子どもの魂」に関心を持ち続けました。
大人になった私たちは、きっとどこかで「子ども」でいることに興味を持っているのではないかと思うのです。

本能と理性、アクセルとブレーキ

その人は、自分の中にある"本能"と"理性"の間で葛藤していました。

本当はこういうことがしたいのに、社会的な目を無意識に気にしてしまい、抑えてしまっている。"アクセル"と"ブレーキ"が両方踏まれている状態に対して、フラストレーションが溜まっているようでした。

Ⅰさんは、行動派で人と話すのが好き。普段はとても快活な方なのですが、そのときはその雰囲気とは異なり、焦りと陰りが見えたように感じました。

「多分、"子どもの自分"と"大人の自分"がいるんですよね。今、子どもの方が縛られて苦しそうに暴れている感じなんです」

「Ⅰさんの中にいる子どもは、何て言っているんですか?」

「・・・思ったことをちゃんと口に出したい。些細なことだけど、例えば、誰かの何かが素敵だと思ったら『それ、素敵!』って伝えたい。相手からどう思われるか、とか、この場に相応しくないんじゃないか、とか、そういうので抑えられるのは嫌」

最後にⅠさんは、「自分が伝えたいと思ったことは、躊躇せずに伝える」ことを決めました。
そう決めた理由は、極めてシンプル ――― その方が自分らしいから、です。

子どもになることを到達点とした画家たち

"社会的な目"のない子どもたちは、とても自由です。そして、興味深いのは、誰だって子どもの時代があったという点です。
つまり、私たちは「いつでも自由になれる存在」であるはずなのです。

「ようやく子どものような絵が描けるようになった。
ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」

これは、パブロ・ピカソの有名な発言ですが、偉大な画家でさえ子どものような絵を描くのに時間がかかるのです。

大人になるにつれ、ルールや慣習、権威ある人の発言、学校で学んだこと、評価・・・・そんなものがあたかも "正解" かのように感じ、無意識にそれを意識して動いている。
ピカソは、その "刷り込み" から少しでも自由になりたかった、「絵はこうあるべきだ」といった思い込みから解放されたかったのではないでしょうか。

ピエール・ボナールが、純粋な子どもの魂へ回帰した晩年の作例は、児童画を思わせる自由闊達な筆遣いが特徴です。これらは、ボナール自身の「子どもの世界の到達点」と言われています。

■「雄牛と子ども」ピエール・ボナール(1946年) 

《雄牛と子ども》

そこには、正確性はありません。
使っている色、事物のカタチの捉え方、すべてが自由です。
キャンバス内に収めようともしていない、評価されたいとも思っていない、ただ描きたいものを感じたままに描いている・・・そんな姿が浮かびます。

子どもはアート思考に長けている

子どもになるということは、「アート思考」のコツでもあります。
アート思考は、「課題から出発せず、自分の内なる衝動を起点に価値を生み出すこと」が特徴の1つです。

内なる衝動とは、本当に好きなこと、すぐにでもやりたいこと、興味がそそられること、心から願っていること・・・そんな想いから生まれます。

例えば、誰かにプレゼントをあげるときに、
「経験上、この人はこれが好みだし、世間ではこういうものが流行っているから〇〇をあげよう」と思うのは分析的思考です。
一方、アート思考は「私は〇〇が大好きだから、〇〇をあげよう」という考え方。ちょっと勇気がいるように感じるけれど、無邪気な子どもってそんな感じじゃないですか?

自分が心から「良い」と感じたものに素直になり、その気持ちを起点に行動に移すこと。
大人の私たちにとってはとても勇気のいることですが、それが本当の自分らしさに繋がると思うのです。

ここまで読んでくださってありがとうございます。
今日も素晴らしい1日を!

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