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『義』  -再び、地下へ- 長編小説


-再び、地下へ-

 懐古的な晴れやかな気持ちで、新宿の街をぶらつく。幼馴染の男の子がいない侘しい感情すらも咀嚼し、美味に変える。皆、大人になってしまったのだ。骨が太くなり、胸板が厚くなり、至る所に太い体毛が生えていた。不細工だと、他人から揶揄されるかも知れない。他人の経験と教養から導き出された、美に反すると。実際に、遥香から揶揄された。しかし、彼女は知らない。店長も知らない。両親だって、大学の教授だって知らない、又は理解出来ない、幼馴染の男の子と過ごした美の時間を。

 ガードレールに足を引っ掛けて器用に座り、煙草を吸っている若い男女がいた。大輔は、自分の美について熱弁してみようと思い、彼らに近寄ってみた。そして、彼らの前に立ち、話すきっかけを伺う。すると、

「ごめんなさい。ここは喫煙スペースじゃないですよね」

 二人は煙草の火を消し、足早に去っていった。大輔は意に反する二人の行為に、つい笑ってしまった。自分の美を話すには、少々縁がなかったのだろう。

 再び、街を練り歩く。

 気が付くと、いつの間にか地下施設の入り口にいた。

「おはようございます」

 大輔は警備員へ挨拶をする。前回と同じ警備員が立っていた。

「お、先日の吉田さんのお連れさんだね」

 警備員が笑顔を作る。

「斎藤大輔です。地下施設に入ることは出来ますか? 吉田さんとお話ししたいです」

「君の独りだけでは、入館出来ない規則なんだ。すまないねえ」

「そこを何とか出来ませんか?」

 大輔は食いついた。

「すまない。規則を破ってしまうと、わしの命が危なくなってしまう。こんな歳じゃが、命は惜しい」

「いえいえ、こちらこそ無理を言ってしまい、申し訳ありません。では、失礼します」

 大輔は肩を落とし、警備室に背中を向けて歩き出した。

「君君、吉田さんを待つかい? 吉田さんは、未だ来ておらんからね。警備員の休憩所があるから、そこで待つと良い。本来は駄目なんだが、まあ、地下施設に入れるわけじゃないから、構わんだろう。それに、吉田さんのお連れさんだからね。あの吉田さんのね」

「ありがとうございます」

 大輔が頭を下げると、警備員は日焼けした口元を緩めて微笑む。

 警備室の脇の小さな個室に入った。中はパイプ椅子と簡易テーブルが置かれ、壁には時計や警棒や雨合羽等、警備用品が整頓されて掛かっている。

「そこに座って待つといい。出入りする人を見て、他所で他言してはいけないよ。この前に規約を読んでもらった通りさ。まあ、こんな時間だから、出入りする人は殆どいないだろうけれど。じゃあ、ごゆっくりと。あ、机の缶コーヒー勝手に飲んで良いからね」

 警備員は個室の扉を閉めた。同時に、車の走行音が途絶え、時計の秒針の音が小さな個室に充満した。大輔は椅子に腰掛け、缶コーヒーを握りしめ、扉に付いている覗き窓から外の様子を眺めた。果たして、吉田は来るのだろうか。

 警備員の言った通り、一般の通行人が過ぎ去るものの、地下施設に入ってゆく人は皆無だった。大輔は缶コーヒーを飲みながら、壁に背中を預けた。静かな空間にて、日々繰り返される東京の喧騒にて濁ってしまった心を、泥水を濾過するように清らかにしてゆく。先ほど店長に豪語した『義』とは、一体何だろう。どこかで聞いた懐かしい一言が、店長の逆鱗に触れてしまった。面倒を見て貰っていたものの、店長から異性や性欲の話ばかりされると、幼少期から青空の下で培ってきた感情の濁りを感じ、度々辟易した。自分の『義』と反するから、自分の『義』を穢されるから、辟易し嫌悪していたのだろう。遥香も、同じだった。絢爛華麗な仮面を被った遥香は、メディアが流した恣意席な情報に右往左往する女だった。遥香に気を使い接していた時間は、やはり『義』とは乖離していた。

「まあ良いさ」

 大輔の呟きは言霊となり、個室を揺曳して彼の心に収まった。遥香と店長はいなくなったが、吉田がいる。ここに座っていれば、吉田に会うことが出来る。揺るぎない肉体、物静かな目差し、雑駁とする世相にて他に依存しない美学、それらのもの吉田は持ち得ている。吉田と話をしたい。吉田が待ち遠しい。

 時計を見ると、午前二時を回っていた。これまでに、独りの若い男が地下施設に降りていったが、見知らぬ人だった。

 その時、急に大輔の感情が高まり、同時に鼓動も早まり出した。素早く、窓の外を凝視する。警備員が手をあげると、皺のないストライプのスーツを着こなす吉田が歩いてきた。威厳に満ちた姿は、卓越した美そのものだった。大輔は立ち上がり、扉を開けた。

「吉田さん。おはようございます」

 大輔は吉田の元に駆け寄り、深々と頭を下げた。吉田は表情を変えずに大輔を見下ろす。

「警備員さんにお願いして、待たせてもらいました」

「すみませんね、吉田さん。彼があまりにも熱心だったもので。もし、地下に連れていけないのなら、ここで帰ってもらうがね。どうですかい?」

 警備員の問いへ、吉田は答えずに大輔を見下ろす。吉田の目差しが、大輔に刺さる。相槌や、取り繕った挨拶、片言節句はない。大輔は無口の吉田に美を感じており、これでよかった。鋭い眼光だけで構わなかった。

「吉田さん、構いませんね? では君、また契約書に署名して、荷物も全部預かるからね」

 大輔は契約書に署名し、持っている荷物を全て渡した。

 地下施設への扉が開き、大輔と吉田は階段を降りた。


続く。

長編小説です。

花子出版   倉岡



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。