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読書のすすめ。   思想防衛論

こんにちは。

何故、小説を読むのか? 何故に、物語を読むのか? 

色々な意見がありますが、最近思うことをメモします。あくまでの、個人的な見解ですので、『へー、そのような考え方もあるんだ』と・・・、そうですね、足元の落ちている、広告の裏面に書かれた、メモのような感覚でお読みいただけますと幸いです。


不完全な私たち人間は、完全な社会を目指そうと奮闘していますが、やはり、多様な価値観がありますので、他人と相容れない部分大いにあり、どこかで歪みが起きてしまいます。世界では紛争が起きていますし、殺人もありますし、いじめはありますし・・・。

他人と生活していますと、感情が疲弊してしまうことが多々あります。自分の思い通りに物事が進まないから、疲弊すると考えます。

もしも、全てが思い通りにしたいと仮定しますと、疲弊してしまう根源を排斥します。それが物であろうと、人であろうと、思想であろうと。
しかし、自分がそのように考えるならば、他者もそのように考えます。

一部人が、感情を抑えきれなくなり犯罪が起きるのですが、殆どの人は、倫理観で抑えているでしょう。

しかし、倫理観だけでは限界がある。その倫理観は、砂上の楼閣なようなものです。時代によって変異しますし、耳に入れる言葉によっても変異します。あれこれ出来事が起因となり、変異します。

そこで、思想の逃げ場が必要だと。

さて、本を読むことは、比較的に能動的な行為に該当します。先ずは、自らの意思で本を探して手に取ります。窮屈な文字を目で追い、知らない言葉は辞書で調べます。そして、著者の意図を読み、物語の人物を自分を置き換えたり、物語を俯瞰したり、とイメージを膨らましてゆきます。このように文字にすると、ますます大変な作業です。呑気に液晶画面を眺めている方が気楽です。

能動的が故に、もう一つの世界が自分の中に現れ始めます。それは現実にはない、誰にも邪魔をされない、無限大の隠れ家。

一見すると、隠れ家のようですが、誰からも邪魔をされないところから、防衛と例えることが出来ます。嫌なことがありながらも、日常生活を送りながら思想を防衛できるわけですから。

勝手に命名しましたが、思想防衛。

本には無限の思想防衛論が多々眠っており、僕らと血となり肉となることでしょう。著者の多くをがそれを望んでいるのかも知れません。

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歩いている時に思いついたことを、勝手に文字にしてみました。未来、論文とまではいかなくとも、もう少し形にしていこうと思います。今日も本を読みます。楽しむために。


花子出版   倉岡


文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。