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雲の影を追いかけて    第8章「後半」全14章



第8章「後半」


 自宅へ着き、リビングの扉を開けた。ソフォに座る祥子の姿がなく、張り詰めた静けさが影を潜めていた。静けさを壊すように明かりを点けると、テーブルの上に白紙が目に入った。

『父の体調が悪化したから、病院に行きます。お仕事、お疲れ様。 祥子』 

 祥子の丁寧な文字が、白紙の上に並んでいた。裕は、夏菜子との密会に耽った自分の姿に、後ろ指を指されるような後悔の念に苛まれ、携帯電話を取り出して祥子へ発信した。電話の呼び出し音が、耳元で嫌な音を立てる。祥子が電話に出ない。もう一度、発信した。

「もしもし」

 祥子は疲れた口調で呟いた。

「もしもし、祥子さん。遅くなってごめん。今、帰ってきて、書き置きを見たよ。和夫さんの調子がどう?」

「ちょっと待ってね」

 祥子は病室を出た。祥子の足音を聞き、裕は唾を飲む。

「ごめん。父さんはあまり良くないみたい。今日は帰れそうにない」

「僕も病院へ行くよ」

「裕君はお仕事で疲れているでしょ。無理しないで、寝ていて良いよ」

「大丈夫。すぐにタクシーで行くよ。病棟と病室はメールで教えてほしい」

「ありがとう、裕君・・・」

 裕は電話を切り、玄関を出た。和夫の一報で酔いは醒め、大通りまで走り、タクシーを捕まえた。運転手へ行き先を告げると、タクシーは加速し、走行車の少なくなった深夜の道路を駆け出した。街灯が流星のように、タクシーの車窓に映り込んでくる。裕は無言で外を眺めた。

 病院の入り口は明かりが消え、自動ドアが開かない。裕は夜間出入り口から病棟へ入る。エレベーターを上がり、ナースステーションにて和夫の名前を言うと、看護師が病室へ案内した。病室に入り、足音を立てないよう歩き、窓側に面したベッドのカーテンを開けた。祥子がバイプ椅子に座り俯いていた。

「祥子さん」

「来てくれてありがとう。父さんは点滴をしているから、眠っているよ」

 裕は横になる和夫を見た。白い掛布団を被り、口には呼吸器をつけている。腕には点滴のために、複数のパイプが繋がっている。心電図のモニターには、細かい波形の起伏を描いている。和夫の掛布団から覗く足先は、筋肉が衰えて骨が剥き出しになっていた。裕は手を布団に潜らせ、和夫の腕に触れた。少し温かいが、朽ちかけの古木を触った時のような感覚だった。和夫から手を離して布団を元の位置に戻し、音を立てないように、祥子の隣のパイプ椅子に座った。

「ごめんね、仕事と打ち合わせが長くなってしまったよ。和夫さんはあんまり良くなさそうだね」

 裕は夏菜子との時間を想起し、すぐに掻き消した。すると、再び想起してしまう。牛の反芻のように、想起と搔き消しを繰り返す。祥子に女優と御飯を食べていたと、一言告げるべきだと思ったが、和夫の看病をする祥子の前では割腹しても言えないと口を慎む。

「うん。もう歳だから長くないみたい。それと、入院になるから、準備しなきゃいけないわ」

「仕方ないね。祥子さん、疲れてない? 入院の準備もあるだろうから、帰宅して休んできたら? 和夫さんは、僕が見ておくよ」

「ありがとう。助かるわ・・・。じゃあ帰るわね」

「下まで送るよ」

 二人はパイプ椅子から立ち上がり、病室を出た。静寂に包まれた廊下に、足音が響く。足音を立てないように歩いているが、構造上の問題か、それとも深夜の病棟の空間が足音を助長させているのか、廊下に足裏を付ける度に音が鳴った。

「今日はお酒を飲んできたの?」

「うん。ちょっと仕事の打ち合せで飲んできた」

「そうなの。ごめんね、結婚以降、介護や看病など大変な事を任せてしまって。お仕事が忙しい筈なのに」

「大丈夫」

 エレベーターで一階へ降り、病院を出る。タクシーが二人を待ち構えていたかのように、病院前の大通りから走ってきた。祥子は、「じゃあね」と言い、小さな笑顔を浮かてべタクシーに乗り込んだ。祥子の乗るタクシーは走り去り、東へ曲がり裕の視界から消えた。

 裕は和夫の眠る病室へと戻った。

 眠っている和夫の呼吸の音が、呼吸器越しに伝わる。稀に痰が詰まり、咳を挟む。裕は和夫の手を握り、瞼を閉じた。

 夜が深まる病室、鞄の中で携帯電話が震えた。裕は和夫の手を離し、鞄から携帯電話を取り出し画面を見ると、新着のメールが一通届いていた。メールは、夏菜子からだった。内容は、今日のお礼と近々会いたいとのことだった。義父の生命の息吹が終息へ向かっている最中に、合わせて愛する祥子が介護で疲れている最中に、女優の夏菜子からの誘い。人生の不条理が、バケツをひっくり返したように裕の頭上から降り注いできた。

 本来妻帯者なら、迷わずに丁重にお断りのメールを送るべきだろう。しかし、裕は方位磁針を持たずに深林を歩くように、真っ暗な感情の渦中を彷徨っていた。

 右腕に夏菜子の柔らかく、瑞々しく、可憐な指先に掴まれた感覚が蘇る。握力は弱いが、縄で縛り上げるように指作の感覚が激しく纏わりつく。夏菜子の美しい指先という視覚的美への執着が、感情を複雑な別の生命体へと作り変えてゆく。

 理性と欲望の沼で溺れかけ、感情の錯綜に耐えきれなくなり、携帯電話を鞄へ放り込み、和夫の手を握りしめた。和夫から忿怒の形相で怒って貰いたかった。そして、指針を示して貰いたかった。

 しかし、和夫は眠りに就き、手は一切動かなかった。裕は再び、瞼を閉じた。遠方から、救急車が駆け抜ける音が聞こえてきた。



第9章「前半」へ続く。


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