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雲の影を追いかけて     第10章  全14章


第10章

 病院を出た裕は、首を長くしていたタクシーに乗り込む。「動物園迄」と告げると、運転手は長距離運転を歓喜し、アクセルを軽快に踏み込んだ。祥子が病室から見ているのではないかと危惧したが、加速するタクシーを止めることは出来ない、と偏屈な納得をさせた。

 ラジオから演歌を流すタクシーは、幹線道路を抜け、大きな橋を幾つも渡りながら動物園へと向かった。車窓越しに流れる景色を眺めながら、裕は思慮に耽る。自分の乗車する小さなタクシーですら、和夫の言った『個人の幸せ』というワードが原動力になっているのではないだろうか。鉄板で覆われた車内は、車の走行音やビルから漏れる雑音、工事現場の騒音などのあらゆる音を遮り、乗車客の平静を保とうとする。外装は鉱物を食い潰し、ガソリンは化石燃料を食い潰し、個人の幸福を具現化してゆく。何が正解なのだろうか、と良し悪しでは表わすことの出来ない複雑な感情が、タクシーの振動に合わせて社内をゆらめく。

 料金を精算してタクシーを降りると、生温い風が吹いていた。動物園から漏れる獣臭を懐かしく感じ、自分の前世に思いを馳せてみた。動物だった頃があるのだろうか。鞄から携帯電話を取り出し通知を確認したが、祥子からの連絡はなく、暗い画面が影を潜めていた。

「お待たせ、裕君」

 夏菜子が裕の肩を叩いた。裕が振り返ると、花柄のワンピースに灰色のコートを羽織った夏菜子は首にスカーフを巻き、黒縁メガネをかけて立っていた。絢爛華麗なコーディネートは、非の打ち所がない程洗練されていた。

「こんにちは、夏菜子。今日は暖かくて良かったね」

「そうね。風が木枯らしを忘れちゃったみたい。さあ、動物園に入りろうよ」

 二人は動物園に入園した。平日の午後、郊外にある動物園は人が疎らだった。動物の賑やかな鳴き声が広い園内を行き来する。

「ねえ、あっちにキリンがいるよ」

 夏菜子は裕の腕を引っ張りながら歩いた。夏菜子の柔らかでさらりとした皮膚が、裕の腕に絡みつく。皮膚の感触だけではない。皮膚を伝い、裕の背徳感を撫でるように刺激する。

「キリンは首が長いね。すっごく大きいなあ」

 二人は柵を握りながらキリンを見上げた。長い睫毛のキリンは柵内に生える木の葉を、背伸びをして食べていた。時折、瞬きをしている。

「そうだね、本当に長い。ねえ、夏菜子。何故、動物園に行きたくなったの?」

「動物園って、見ているだけで何だか元気になるの。私達人間は、所謂動物の一種でしょ。素直な姿。包み隠さず生きているって素敵な姿でしょ。洋服も着てないし、食べたい時に餌を食べて、寝たい時に寝る。性欲が湧いた時には、包み隠さずに子作りもする筈よ。決して偽りの仮面を着けて演技をしていない、純粋な姿。だから好きなの」

「動物の一種か。ある意味そうなのかも知れないね。夏菜子は何か包み込んでいることがあるの?」

「うーーん。あるような、ないような。今は分からないかな。ねえ、あっちにはシロクマがいるみたい。行こうよう」

 シロクマはプールに潜ったり、陸で寝転んだり自由奔放に過ごしている。シロクマが動く度に、社会科見学で来ている子供たちが楽しそうに無邪気な頓狂声をあげる。

 日が沈みかける迄、手を握り合う二人は園内を見終わり、タクシーでビル街へと移動した。

「ここのお店はカクテルが美味しいのよ」

 夏菜子の行きつけのバーの店内に入り、二人はカウンター席に座った。海外ビールのネオンがカウンター裏の壁で緑の光を放ち、色とりどりのリキュールが棚に櫛比している。エルビスプレスリーのレコードが回り、とろけるような旋律をリキュールの匂いに馴染ませてゆく。

「何か、飲みたいものある?」

「カクテルの名前をあんまり知らないから、夏菜子のおすすめにするよ」

「分かった」

 夏菜子は、カウンターで氷をアイスピックで砕いているマスターにカクテルとオーダーした。マスターは夏菜子の注文に対して笑みを浮かべ、カクテルを作り、磨き上げられたグラスに注いだ。カクテルが完成し、二人の前に真っ赤なグラスが並ぶ。血を注いだように真っ赤な色で、裕は飲むのを躊躇った。

「これは、ブラッディメアリーよ。ウォッカとトマトジュースのカクテル。私の一番好きなカクテル。さあ、乾杯しましょう」

 二人はグラスの縁を軽く重ねた。夏菜子は光沢のピンク色のリップグロスを塗った唇にグラスを付け、一口飲んだ。唇に真っ赤なブラッディメアリーが付着する。横目で見る裕は、夏菜子の唇に付着したブラッディメアリーに、燃え盛る色彩を感じた。

「さあ、美味しいわよ」

 夏菜子がカクテルを勧める。裕は慎重にカクテルを口にする。口内にトマトの香りが霧吹きで攪拌したように広がり、その後、ほんのりウォッカの香りが広がった。

「どう?」

「うん。飲みやすいね。普段、ビールくらいしか口にしないから、不思議な気分だよ」

「うん。裕君はもっと色んな体験や経験した方が良いと思うわ。その方が、もっと良い物語を書けるようになる気がする。空想の物語では、限界がある」

「そうなのかな・・・」

「きっと、そうよ。ねえ、もっと色々飲みましょうよ」

 夏菜子はブラッディメアリーを飲み干し、別のカクテルを注文した。裕も夏菜子に合わせるように、別のカクテルを口にした。どのカクテルも初めてだったが、夏菜子のオーダーするカクテルはどれも飲みやすく、裕の酔いは深まっていった。

 カウンターには若い女性と中年男性のカップルと、独りの客が間隔を空け座り、マスターが手際よくカクテルを作り、客へ順番に提供する。鷹揚な時が歩くバーは、人々の酔いを深めていく。

「ねえ。この後どうする?」

 夏菜子は裕の耳元で囁いた。夏菜子の息には、お酒の匂いが混じっていた。

「どうしようか。今は、何時だろう?」

 裕は鞄から携帯電話を取り出した。時刻は二十三時を少し回っている。祥子からの着信やメールの通知はなく、若干安堵した。

「夜はこれからね。裕君」

 夏菜子は裕の携帯電話の画面を覗き込み、再び裕の耳へ囁いた。夏菜子の囁きにて、裕の倫理の城壁は崩壊しつつあった。

「夏菜子に任せるよ」

「じゃあ、私の家に来ない?一緒に呑み直しましょう。ねえ」

「良いけれど、僕は既婚者だよ。一流女優のスキャンダルにならないの? 下賤な週刊誌が追ってきそうだ」

「大丈夫よ。こう見えて、私は抜かりない性格よ。安心して」

「分かった」

 二人は会計をし、階段を降りタクシーに乗り込む。街灯の淡い明かりが差し込む暗い車内、夏菜子は執拗に裕の手を撫でていた。裕はタクシーの揺れに身を任せた。


 タワーマンションのエレベーターが裕と夏菜子を乗せて上昇する。裕は酔いが醒め、意識が鮮明になっていた。静かな上昇音に耳を傾けつつ、隣に立つ夏菜子の裸体を想像した。鍛えられて引き締まったお腹。豊満な乳房。細く伸びた足。全身のあらゆる部位を想像していると、益々意識が鋭く鮮明になってゆく。目の前に重ねられた磨りガラスを一枚一枚外してゆくような感覚に近かった。階を示すライトの上昇が止まった。エレベーターの扉が開き、広い通路を歩いて扉の前に着いた。夏菜子が分厚い扉の鍵を開けた。

 二人は靴を脱ぎ、部屋に入った。大理石が敷かれた廊下を抜けるとソファが複数並ぶ広いリビングに着いた。裕の家のリビングが四個以上入る程の広さだった。西側に街を一望出来る広いガラスの窓があり、夜景の明かりを余すことなく取り込み、室内を淡く照らし出す。裕は窓辺に立ち、星のように瞬く夜景を眺めた。

「ねえ。ここから見える夜景、とても綺麗でしょ」

 夏菜子は裕の背後に立ち、裕のお腹に腕を回してきた。裕は驚いたが、抵抗をせず、夏菜子の匂いを感じた。いや、この時を心待ちにしていたのかも知れない。

「こんな大きなマンションに住めるなんて羨ましいよ。やっぱり、一流の女優ってすごいな」

「事務所が勝手に借りてくれているのよ。家賃がどのくらいなんて分からない。裕君もそれなりに稼いでいるのでしょ? 一流の小説家さんだからね」

「まだまだ、こんな所には住めないよ」

「そうなの。でもでも、これからよ。沢山の印税が入り、富裕層の仲間入りよ。この前に出した本も、映画化されるんでしょ」

 夏菜子の手がお腹からゆっくりと移動し、首筋を撫で始めた。手つきが、まるで掬った水を零さないような滑らかな動きで、裕の身体は火照り始めた。

「ねえ。ソファに座らない? もっと話をしましょう」

 夏菜子の問いに、裕は頷いた。

 裕がソファ座ると、夏菜子はくっ付くように座った。裕が距離を取ろうとすると、突然、夏菜子は服を脱ぎ始めた。

「夏菜子、酔っている? 隣に男がいるのだよ」

 夏菜子を見ないように、裕は顔を逸らした。

「ここは私のマンションよ。どんな格好しても構わないことよ。もっともっと開放的にならなきゃ。そうでしょ?」

 夏菜子は下着を残し、艶やかな肌を覆っていた洋服を脱ぎ切り、前のテーブルに置いた。

「この衣服は、私の本来の姿を覆い隠す、偽りの小道具よ。残り二つ脱ぐと、私は動物園の動物と同じ姿になるの。ねえ、裕君、本当の私を見たくないの?」

 目を逸らす裕に夏菜子の手が伸び、頬を撫でる。

「夏菜子。俺には妻がいる。それは、困るなあ」

「ねえ、このマンションを動物園と思えば良いじゃない。キリンさんがいる。ゾウさんがいる。皆、欲望に素直なはず。裕君の身体は私を求めている筈よ。素直になろう。ほら、すごく熱くなっている。何も包み隠さず、二人一緒に欲望のまま過ごせば、もっと気が楽になる筈よ」

 和夫の残した『個人の幸せ』という言葉が、再び裕の脳裡を過ぎった。夏菜子の言う通りかも知れない。欲望に忠実な動物のように解放され、夏菜子の身体を隅々まで貪りたかった。事実、エレベーターの中で夏菜子の裸体を何度も想像をして、倫理観で掻き消した。これまで、深夜の牛丼屋でアルバイトをし、社会から認められない日々が続いたが、幸運にも小説家として花が咲き、富や名声を手に入れた。そして、一流女優の夏菜子が、隣で裸になろうとしている。これ以上の幸せは、例え銀河系を脱出しても探し出すことは困難だろう。

 裕は振り向いた。夜景の淡い光に包まれる下着姿の夏菜子が、とろけた目つきで裕を見ていた。

「ねえ、このブラジャーを脱がせても良いのよ。キリンは裸だったでしょ? 奥さんの歳を重ねた身体よりも、もっともっと魅力的な筈よ。さあ・・・。さあ・・・」

 裕は夏菜子の背中に手を回し、ブラジャーのホックを外した。すると、開花を待ちわびた乳首が二つ、そっと顔を出した。裕は夏菜子の乳房を凝視した。桃色の可憐な乳首だった。

 しかし、裕の心は急に醒めてしまった。何十年も熱し続けた鉄瓶を、雪解け水が流れ込む透き通った湖面に放り込んだように。それは、正に一瞬の氷解だった。

「夏菜子。下着を着けてくれ。今日は帰ることにするよ」

「何故? こんなにも、美しい身体を前にして、裕君は獣にならないの? 下半身はやる気のようだけれど。何故?」

「ごめん。今晩は帰ることにするよ。また日を改めるさ」

「裕君って、分からない人。絶対また来てね。待っているわ」

 夏菜子の嘆きを背中に受け、裕は部屋を出て、エレベーターで地上へと降下した。行きと同じエレベーターの筈だか、まるで別のエレベーターに乗り込んでしまったように違和感を感じた。エレベーターの構造は変わらないが、何かが違っている。目を動かし隅々まで確認したが、相違点を見つけることが出来ず、いつの間にか地上へ着いた。

 路上にてタクシーを捕まえ、祥子が待つ自宅へと向かう。タクシーの運転手が長距離運転を喜び、世間話や苦労話などを彼是口にする。裕は運転手へ適当な返事をし、時間を車窓の明かりに溶かした。




第11章「前半」へ続く。



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