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町史を知り、襟を正す

こんにちは。

歴史を学ぶということは、単なる知的好奇心でもありますが、先人達の営みを知ることによって、自分の振る舞いを見直すきっかけにしている側面もあります。

先日に帰熊した際、調べ物をしようと図書館に向かいました。図書館には普段目にすることのない、多くの書籍がありました。僕が調べたいことには辿り着きませんでしたが、資料を漁っていると町史の資料に出会いました。

町史についてはずっと以前から知りたかったことで奇遇です。

資料には、以下のように記述されています。

正平九年(1354年)の「矢部郷村注文(阿蘇文書)」にある「なつれいし」村の一部である。この村囲域は広く、現在の大字下名連石、御所地域をいう。
江戸初期の寛永十一年(1634年)の「肥後国郷帳」に下名連石、上名連石に分村している。
「なつれいし」地名の由来は何か。古老たちは、村に巨石が分布するからと語る。たとえば雷石平の雷石、馬場の下名連石、大石尾の大石、山口と一の瀬村の境界で赤石谷川にかかる昭八橋のたもとに巨石があったが、県道建設の時、粉砕したという。
阿蘇火山の噴石によって、この一帯は大小無数の岩石でおおわれている。斜面に連なって石が存在した。往昔の景観を表現した地名であろう。
村内には、阿蘇氏の二つの支城(砦)跡、室町期の六地蔵、五輪塔残欠、延暦二十一年(802年)開基という金福寺などを有し、金福寺の薬師三尊像は県指定文化財という、歴史を秘めた村落である。


ほうほう・・・。
僕が生まれた村には西暦でいうと1300年には入植し、人々の営みが始まっていたわけです。もちろん、戦国時代より前です。この頃にはインターネットがありませんし、遠い世界の情報を得ることは不可能に近い。よって、多くの人々が斬り合っていた中、僕の故郷は桃源郷のように安寧な暮らしをしていたのだろうか。又は戦火を逃れるために、僕の故郷に迷い込んでそこで子孫を残したかもしれません。有名なテレビ番組の「ポツンと一軒家」に出演できるようなところに建っている家が点在しますので。
いずれにせよ、先人方の歴史があったわけです。
歴史にロマンを感じるとともに、先人方に恥じぬよう襟を正さねばいけない、と改めて感じました。



皆様も生まれた場所についてお調べになってはいかがでしょうか? 図書館にいけばきっと最適な資料に出会えるはず。出会えなくとも、最適な本に出会えることでしょう♪


花子出版   倉岡剛

文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。