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『義』  -バーボンロック・ダブル- 長編小説



バーボンロック・ダブル

 都庁前にて停車し、大輔は車を降りた。修一へお礼を伝えると、車は走り去った。辺りには、身体に纏わりつく蒸された空気が重く居座っている。新宿駅を目指す終業後の人の群れに溶け込み、地下施設の入り口へ向かった。

 汗を滲ませ、地下施設の入り口に着いた。警備員室を覗くと、初めて見る警備員が立っていた。風貌は若い。警備員が大輔の視線に気付き、警備員室を出てきた。

「何か御用でしょうか?」

 警備員は怪訝な顔を作る。

「あ、いえ。失礼します」

 大輔は素早く立ち去った。初見の警備員に、地下施設へ入りたい、と懇願しても埒が明かない。一般人は入れない地下施設だ。仕方なく立ち去ったものの、吉田に会いたいという感情は止まらない。山岡家に行ったことを、吉田に話したくて仕方がない。そして、吉田の過去を聞きたい。そして、吉田の心を揺れ動かす原石に触れてみたい。投げかけたい質問を脳内で列挙してゆく。

 路地で待ってみるべきか。いや、不審者だと思われ、もっと怪しまれるだろう。黒子の数まで撮影できる防犯カメラが四方八方から、狙っている。吉田のマンションへ行けば良いのだろうか。同じような高層ビルやマンションが聳え、曖昧な記憶では辿り着けるはずがない。BARへ行けば、会えるだろうか。その選択は、今のところ一番確率が高い。又喉が渇いており、更に好都合だ。軽快な足取りでBARへ歩き出した。

 BARの扉を開け、中を覗くも、吉田の背中はなく、落胆した。

「いらっしゃいませ」

 女の店員がテーブルを拭きながら、顔を上げる。店員は大輔を覚えており、手を振って駆け寄った。

「いらっしゃいませ。お久しぶりですね。お一人ですか?」

「はい、一人です。カウンター席でも宜しいでしょうか?」

「もちろんです。御案内しますね」

 店員に案内され、大輔はカウンター席に座った。ビールを注文し、棚に並ぶ、カクテルの銘柄を目で追った。

「お待たせしました」

 店員がビールを置いた。大輔は会釈する。

「吉田さんは、今日は未だいらっしゃっていませんよ」

 店員は大輔の耳元で呟いた。気の利く店員だなあ、と感心しつつ、冷えたビールを渇いた胃に流し込んだ。

 涼しさを求愛する客が入ってきては、酩酊し去ってゆく。流れるジャズが心地よく、大輔も若干愉快になっていた。墓に眠る人を突き止めたからだろうか。無口な吉田の心引く話題を見つけたからだろうか。いずれにせよ、愉快だった。カウンターを照らしている光が、柔らかい木漏れ日のように感じた。

 ビールを五杯飲んだ。ピーナッツは二回注文した。すると、店員が大輔の隣に立った。

「吉田さん、御来店されましたよ」

 大輔の身体に、素早く緊張が走る。硬くなった首を回して振り返ると、入り口に吉田が立っていた。

 笑みを零す大輔と打って変わって、吉田は眉を動かすことなく店内を横切り、大輔の隣に座った。そこは、吉田の定位置だ。

「バーボンロック。ダブル。・・・二つ」

 カウンター内の店員が、アイスピックで氷を砕き、二つのグラスにバーボンを注いだ。琥珀色のバーボンが吉田と大輔の前に並ぶ。吉田はグラスを持ち、一度光に翳し、グラスに口を付けた。

「頂きます」

 大輔も吉田の真似をして、バーボンを飲んだ。ガツンと喉が焼けた。美味とは程遠いが、大人の味を知る優越感、吉田と酒を交わす優越感が、胃に落ちたバーボンから昇る強い香りによって、強固となってゆく。感覚が研ぎ澄まされてゆく。横目で吉田を見た。吉田のグラスは空になっていた。

「美味しいなあ。バーボンが好きになりそうです。突然ですが。実はですね、今日山岡さんの家に行ってきました。山岡元さんの家へ」

 吉田は大輔を見た。リング上で見せる鋭い目が大輔を捉える。大輔は驚いた。

「飲み物いかがでしょうか?」

 女の店員が吉田に声を掛ける。吉田は頷いた。

「唐突にすみません。話を続けても宜しいでしょうか?」

 吉田は答えず、氷の溶け出しているグラスを凝視していた。

 大輔は口が滑ったと後悔の念に苛まれる。アルコールにて、上機嫌になり判断を誤った。自殺した友の記憶を掘り起こして、ご機嫌になる人などいない。この瞬間で、吉田との関係が、グラス内の氷のように消えてしまう。いち早く、謝罪しなければならない。薄氷を履む思いで、バーボンを飲んだ。

 吉田の前に、新しいバーボンが置かれた。吉田は一口飲み、口を開いた。

「大輔、遠慮なく話してくれ。決して怒らない。私は『義』を重んじる大人だ」

「ありがとうございます・・・」

 大輔は今日の出来事を時系列に沿って話した。聞き入る吉田は、瞼を閉じた。

「・・・以上です」

 大輔は話し終え、渇いた口内をバーボンで潤した。吉田が瞼を開ける。

「ありがとう。元の両親は元気だったかい?」

「はい。幸子さんも、修一さんもお元気そうでした。庭には元さんの大好きな向日葵が、綺麗に咲いていました。広い洋館に、噴水のある広い庭。山岡家は、お金持ちなのでしょうね」

「ああ、地下施設のソファに座っているような、富裕層の一家だ。それにしても、懐かしいな。元の家へ、毎日のように遊びに行っていたからな。かくれんぼをしたり、泥んこ遊びをしたり。家政婦さんには、よく叱られていたよ」

 追憶する吉田の口調が、柔らかくなってゆく。格式高い威厳が消滅し、砕けて丸みを帯びた声変り、まるで少年のようだ。

「元は、運動は出来なかったけれど、勉強は人一倍出来た。対照的に私は、見ての通りの運動は得意だったが、勉強は出来なかった。夏休みの友や自由研究は、彼に教えてもらっていたね。もちろん、先生に見つかってしまい怒られてしまったけれど」

「素敵な思い出ですね」

「ありがとう。このグラスの中で溶けてゆく、透き通った氷以上に輝かしい思い出だ。美しき、思い出。死んでしまった元」

 吉田はグラスを掲げた。大輔も吉田と同じようにグラスを掲げた。

「吉田さん、何故、元さんはお亡くなりになったのでしょうか? もし、差し支えなければ話せて頂けませか?」

 吉田は腕時計を見た。反射する時計光が、大輔の目を突いた。

「すまない。仕事の時間だ」

 吉田は残念そうに言った。

「俺も行きます。吉田さんのセコンドをさせて下さい。吉田さんの勇姿を感じたいです」

「すまない、大輔。今日は一人で戦う。いや、今日は元の思い出と共に戦う」

「分かりました。絶対に勝って下さいね」

 大輔は幸子から貰った、向日葵の花を一輪、吉田に渡した。吉田は笑みを浮かべ、スーツの胸ポケットに刺した。向日葵は、高貴なコサージュとなった。

「ああ。負けることはない」

 吉田はピン札をカウンターに置き、席を立った。

「また、会えますか?」

 大輔は問い掛けた。吉田は頷き、カウンターを離れた。いつの間にか、吉田の目はリングに立つ、威厳に満ちた目差しに変貌していた。

 大輔は手を挙げ、店員を呼ぶ。

「バーボンロック。ダブル」



続く。

長編小説です。

花子出版   倉岡



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。