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雲の影を追いかけて    第2章「後半」全14章



第2章「後半」

 牛丼屋の扉を開いた。

「いらっしゃいませ。あ、裕君か。おはよう」

「おはようございます」

 裕は軽く頭を下げ、更衣室へ向かった。制服に着替え、いつも通りの仕事を始めた。

「裕君。今日はどっちする?」

「僕、今日も厨房で良いですか?」

「構わないよ。ピークが過ぎ去るまで、頑張って回そう」

 二人は清掃作業を済ませつつ、懸命に働いた。深夜のピークが早めに去り、普段より早めに厨房裏のパイプ椅子へ腰掛けた。

「裕君。今日は元気が良いね。何か嬉しいことがあったの?」

 田中の鋭い問いかけに驚きつつも、裕は冷静に返事をした。

「あの、驚かないで聞いてほしいのですが・・・。実は、僕の書いた『月の雫』が芥川賞の最終選考に選ばれました」

「え、本当に?」

 田中は口と目を大きく開け、表情を石のように固めた。

「はい、事実です。今朝、編集者から連絡がありまして、そして、公式ホームページでも確認しましたので、間違いないですね」

「おめでとう。それはすごいなあ。いやー本当におめでとう」

 田中は表情を氷解させ、満面の笑みを作りながら裕の手を強く握った。裕の華奢な手に、田中の豊満な手が絡みつき、何度も上下に揺れた。田中の歓喜が、厨房の排気音や店内を流れる音楽を掻き消し、カウンターに座る数人の客へも届いた。牛丼を頬張る客は驚き、首を左右に振った。裕は田中の喜びに圧倒されつつも、喜んでくれる勤務仲間に嬉しさが募った。

「受賞出来れば、良いのですが。こればかりは審査員の判断なので、僕には分かりません」

「発表はいつ?」

「一ヶ月後との事です」

「いやー。楽しみだね。待ち遠しいなあ。裕君と同じ勤務先で誇らしいよ。有名な芥川賞だよ。あの文豪の芥川龍之介の名前のついた、名誉ある賞だよ」

「そこで、田中さんにちょっとした相談がありまして?」

「何々?」

「このニュース見ました?」

 裕は先日買った新聞紙を取り出し、芸能ニュースを広げ、田中に渡した。田中は新聞紙を受け取ると、神妙な顔つきで記事を読んだ。

「あー。俳優の『年の差婚』の話題ね。テレビでもずっと放映しているよ。旬の話題だ」

「この紙面や、テレビニュースを見てどう思いますか?」

「どうって、言われてもなあ。話題性があるのかなとか、男が羨ましいとか、有り触れた気持ちかな。僕もこんな若い奥さんが欲しいな」

「そう、話題性ですよね。話題性。これが大事なワードです。俳優のように話題性があるから、新聞で大々的に掲載されるんです・・・。そこで、色々と考えてみたのです」

 裕は口を閉じ、唾を飲み込み、再び口を開いた。

「情報過多の昨今、例え芥川賞を受賞しても、なかなか名前が売れなかったり、一発屋で終わったり、とても世知辛い世の中です。その流れを変えることは出来ません。
 僕は生涯、文学に携わっていきたいのです。しかし、書いた本が売れなければ生活が安定しません。現に、新人賞を取って僕は、こうやって夜勤を続けているのです。夜勤を続けることは、社会の一員としての役割を担い、大変有意義だと思います。ですが、体力的にもいつまで続けることが出来るのか分かりません・・・。
 そこで、ある作戦を思いつきました。それは、受賞会見の際、世間が僕自身に注目を持ってもらえるような、秀逸な話題を持とうと。背水の陣とでもいいましょうか」

 裕はディベートのように熱弁した。

「ほうほう。興味深い。話題性だけで売れている小説家も多くいるからね。牛丼屋のアルバイトに励む小説家も稀有だと思うけれど。まあ、それは置いておいて、どんな作戦なの?」

「『年の差婚』です」

 裕は冷静に言い放った。

「『年の差婚』? ええ? 裕君、現在独身だよね?」

「そうです」

「まさか、少女と付き合うの? 少女と結婚するの? 法的に大丈夫かな。あれ、女の子は何歳から結婚出来るんだっけ?」

 動揺する田中は、細かいまばたきを繰り返して彼是考えた。

「いえ、三十歳上の女性と結婚します。受賞会見までに」

「ええ・・・?」

 田中の表情が再び固まった。時間が止まったかのように。牛丼を盛る動作や清掃する速度は機敏だが、田中の思考が裕の作戦に追いつかない。

 その時、田中の思考に水を差すように、客の呼び出し音が鳴った。田中は立ち上がり大声を上げてフロアへ向かった。

「ありがとうございます」

 田中は客の会計をし、配膳を下げ、丼を洗い、厨房裏へ戻ってきた。丼を洗うと同時に、固まった表情までも流水で洗い流したのだろうか、表情は菩薩のような優雅な笑みを浮かべていた。そして、鷹揚にパイプ椅子に腰掛け、太い足を組んで口を開いた。

「裕君、さっきのアイディア面白いね。とても。うん、話題性には申し分ない。でもね、還暦を迎える女性は子供を産むことが出来ない。それに、大変失礼だけれど、若い女性より皺もあるし、シミも多いだろう。白髪が生えるし、乳房も垂れてゆくだろう。僕の母は還暦に近いから、見ていれば分かるんだよ。それでも良いの?」

「はい。話題性が作れて、僕の本が売れ、小説家としての生活が成り立てば。あとの事は、起きてから考えますよ」

「楽観的だな。羨ましい。まあ、下賤な話、本が売れてお金があったら、若い女性と再婚も出来ると思うしなあ。是非是非、話題性を持ち、作戦が成功して、大物小説家になってよ」

「はい。小説を死ぬまで書き続けたいと思っています。僕の人生が文学に救われていますから、少ない恩返しです」

「うむ、そうだね。それで、結婚相手の宛てはあるの? 結婚相談所では厳しいと思うよ。三十歳も上の女性と結婚を希望する人はいないだろう。はたまた、街コンなんかも流行りだけれど、還暦間近の女性が街コンに参加するとは、ちょっと思えないなあ」

 田中は顎を握り、鋭い目つきで思慮する。

「問題はそこなのです。田中さんのお母さん、もしくはお母さんのお知り合いに独身の方がいるのかを、聞いてもらえませんか?」

「残念、俺の母さんは、父さんがまだ居るんだよね。でも、母さんの知り合いに独身女性居るのか、ちょっと聞いてみるよ。裕君の力になりたいからね」

「いつも、すみません」

「平気だよ。大物小説家になっても、小説の話をいっぱい聞かせてね。僕の楽しみだから」

「勿論です」

 裕は田中に握手を求め、手を出した。田中は裕の手を握った。裕も強く握り返した。二人は目を合わせて、規約や条約皆無の虚構の契約書へ、透明の署名をした。

 二人はゆっくりと手を離した。

 夜勤の時間は流れるように去り、二人は着替えて牛丼屋から出た。生憎、霧雨が街を覆っていた。霧雨は、何かの始まりを告げる天啓のようにも思え、裕の心は喜んだ。田中の薄くなった頭にも無情の霧雨が降り、田中の髪の毛は蜘蛛の巣に水を掛けた時のように水滴が浮んだ。田中は雨が嫌いで、髪の毛を頻繁に触った。

「田中さん。今日も夜勤ですか?」

「うん、今日もだよ。裕君は?」

「僕は、休みです。もし、田中さんのお時間がありましたら、今日にでも僕の結婚相手をお母さんに聞いて、その結果を教えて欲しいです」

「オーケー。任せて。パートが休みだと言っていたから、早速聞いてみるよ。僕の母さんはお節介焼きだから、すぐに独身女性が見つかると思うな」

「助かります。では二十時に、この先の喫茶店でお会いしましょう。お礼に珈琲をご馳走しますよ」

「悪いね。じゃあ、ご馳走になろうかな。では、また今晩」

「お疲れ様でした」

 互いに軽く会釈して別れた。霧雨の中、裕は河原に行ってみたくなり、歩き出した。

 落ちてきそうな重たい灰色の雲が、街の頭上を揺曳する。土手の夏草は、雨を歓喜し、いつもより葉を大きく広げ舞踏会を催していた。裕は夏草に腰を下ろすことはせず、河川敷脇に設置されたベンチへ腰掛けた。耳を澄ますと、せせらぎが聞こえてきた。

 高ぶる感情のあまり、衝動的に『年の差婚』に相応しい女性の紹介を、田中へ依頼してしまった。『年の差婚』について、冷静に考えてみた。すると、超えなければいけない、障壁の多くが、街に聳えるビルのように不規則に乱立していることに気が付く。平坦なビルなら、容易に超えることが出来るだろうが、障壁は高層ビルのようで大変な苦労が待っているはずだ。同棲経験がなく、他人と暮らすことへの不安が募る。そして、形ある物、全ては無常とは言葉では分かりつつも、劣化する女性の容姿が、自分の持つ女性への美的欲求を、鬱積なく咀嚼出来るのだろうか。性欲の消化が出来るのだろうか。更には、親への報告と承諾もある・・・。

 引っかかる問題を挙げるときりがない。話題性という言葉に踊らされたが、逼迫する前に後戻りするべきだろうか。

 鞄に手を入れ、『年の差婚』のワードが記載された新聞紙を取り出し眺めた。文字の隣に並ぶ、夫婦の顔写真が不気味な笑みを浮かべていた。新聞紙についた無数の皺が、不気味な笑みを作り出しているのだろうか。

 立ち上がり、霧雨で濡れてしまった新聞紙を河川敷のゴミ箱に放り込んだ。新聞紙の終末を見届け、小走りでアパートへ帰宅した。街を覆う霧雨は、いつの間にか小雨に変わっていた。



第3章 「前半」へ続く。





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