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雲の影を追いかけて    第8章「前半」全14章



第8章「前半」


「今日のゲストは、今、話題沸騰中の芥川賞作家の岸田裕さんです。ようこそ」

 ラジオパーソナリティの女性がマイクに向かい、滑らかな口調で話し始め、拍手をする。テーブル越しに座る、裕も小慣れた口調で話し出す。芥川賞を受賞し数ヶ月が経った。受賞作の本はベストセラーとなり、ラジオや大学等の講演会、テレビ番組など仕事が立て続けに舞い込んできた。元来人前で話すことが苦手だったが、回数を重ねるごとに、流暢な言葉を操るようになった。

「こんにちは、岸田裕です。どうも」

 パーソナリティに向かって頭を下げた。

「本日。もう一人スペシャルゲストがいらっしゃっています。女優の宮田夏菜子さんです」

 パーソナリティの女性の隣に、女優の宮田夏菜子が座っていた。夏菜子は胸元が大きく開いたドレスを違和感なく着こなし、艶のある栗色の髪、肌に馴染んだナチュラルメイク、爪には薄黄色のネイルを塗っていた。高身長だが、幼少期の影を残し、表情にはあどけなさが残る。一世を風靡する女優の夏菜子に、裕はおじけることなく視線を向け、頭を少し下げた。

「こんにちは。夏菜子です。本日は、岸田裕さんとお会い出来まして、とてもワクワクしています。こちらこそ宜しくお願いします」

 夏菜子は落ち着いた仕草で、世間を虜にする愛くるしい表情を容易に作った。

「先ずは、夏菜子さん。先日、映画化されました、岸田裕さん原作『月の雫』の主人公の彼女役を担われましたが、撮影など如何でしたでしょうか?」

 パーソナリティが夏菜子に問いかける。

「はい。この度、光栄にも『月の雫』の彼女役をさせて頂きました。撮影はとても楽しく、主人公の彼女役になり切れたと思います」

「お疲れ様でした。それは、上映が楽しみですね。芥川賞受賞の本ということで、上映間近の映画も話題ですが、原作の『月の雫』、こちらもベストセラーになっています。夏菜子さんは、普段、読書をされますか?」

「いえ、読書と無縁の環境で育ち、自ら本を手に取ったことなんて殆どありません。ですが、今回の役作りのため、岸田裕さんの本を買って読んだんです。本当に感動しました。活字に触れるって幸せなことですねえ」

「私も『月の雫』を読みました。本当に、涙溢れる感動的な作品ですよね。私は本が大好きなんです。古今東西、多くの小説を読んでいます。最近、活字離れが騒がれていますが、これをきっかけに本の文化の見直しがされると良いですよね。裕さんは、小説家のお仕事をされていますが、何かおすすめの本はありますか? ラジオを聞くリスナーへも、おすすめの一冊をお願いします」

 パーソナリティと夏菜子は、合わせて裕を見る。

「活字離れは小説家としても、重要なテーマだと思いますね。しかしながら、幸いにも『月の雫』が映画化されるとのことで、夏菜子さんも含め多くに方が本を手に取るきっかけになったことは、有り難い事だと思います。僕のオススメは、川端康成先生の『眠れぬ美女』です」

「川端康成ですか、裕さんは渋いですね。私は有名な作品の『雪国』は読んだことがあります。夏菜子さんは川端康成をご存知ですか?」

「名前だけは聞いたことがあります。裕さんのおすすめ本の名前をもう一度教えてください」

「『眠れぬ美女』です」

 裕はマイクに向かって、丁寧に答えた。

 それから、夏菜子の趣味の話やファッションの話題、裕の目指す文学を敷衍した話題、たわいもない雑談を繰り広げラジオの生放送は終わった。パーソナリティは満足な表情をし、裕も充分な役割を果たしたと感じた。

 裕はスタッフ等に丁寧に挨拶をし、スタジオを後にした。

 スタジオのあるビルの廊下を歩きながら、祥子へ帰宅時間の報告をしようと携帯電話を開いた。すると、背後で聞き覚えのある声が聞こえた。

「裕さん。お疲れ様でした。今日はありがとうございました」

 夏菜子が小走りでやって来た。

「あ、夏菜子さん。お疲れ様でした。こちらこそ、ありがとうございました」

 開いていた携帯電話を閉じ、夏菜子の姿を眺めた。スラッと長い脚の夏菜子の身長は高く、壇上に座る芸術品を見上げるような姿勢となった。夏菜子は小走りで広がった髪の毛を指先で撫で、整えた。単純な仕草も、女優らしく気品に溢れている。髪の毛から異国の花のような魅惑の香りが漂い、裕の鼻を刺激する。

「少しお話ししませんか? 本の話や、執筆の話を、もっと聞きたいです」

 夏菜子は膝を少し曲げて、上目遣いで裕の目を見る。

「良いですよ。どこか、お話し出来る場所をご存知ですか?」

「私の行きつけのお店に行きませんか? この近くですし、美味しいお酒も飲めますよ」

「では、そこに行きましょう」

「やったあ。嬉しいです」

 夏菜子は屈託のない笑顔を作った。夏菜子の笑顔を近距離で眺める裕は、頬が朱色に染まった。

 階段を登り、夏菜子が扉を開ける。店内は大きなシャンデリアが天井からぶら下がり、ピアノ旋律のジャズが程よい音量で響く。天井の高さが空間を押し上げ、ビルの中とは思えない程の開放感だ。サングラスをかけた夏菜子はウェイターを呼び、小声で話をした。ウェイターは小慣れた仕草で、人目から隠れたカウンター席へと二人を案内する。

「上品なお店ですね」

 裕は周りを見渡しながら言った。

「私の行き着けのお店です。隠れた良い席が空いていて良かったですね。裕さん何を飲みますか?」

 夏菜子は、ウェイターが置いたメニュー表を裕の前で開いた。

「ビールにしようかな」

「では、私もビールにします。何か食べたいものありますか?」

 夏菜子は、裕の顔を見て尋ねた。シャンデリアの灯りが、サングラスを外した夏菜子の表情を煌びやかに照らし、整った顔立ちを洗練させた。

「お任せします」

 裕は答えた。夏菜子は裕に向かって笑みを浮かべて手元のメニューを閉じ、ウェイターを呼び、いくつかの料理を注文した。ウェイターは二人の席を離れて、数分後に戻り、ビールの入った歪な形をしたグラス並べた。

「不思議な形のグラスですね」

 裕はグラスを持ち上げてみた。

「そうでしょ。ガラス細工職人が一つ一つ手作りしているそうですよ。お洒落ですよね。では乾杯しましょう。今日はお疲れ様でした」

「お疲れ様でした」

 二人は乾杯をし、ビールを飲んだ。冷たいビールが裕の身体へ流れ込んだ。歪なグラスは、形の割には飲みやすいと感じた。

「突然のお誘いですみません。裕さんとお話をしてみたかったんです」

「いえいえ、大丈夫ですよ。夏菜子さんは、お時間など大丈夫ですか?」

「はい。先程、マネージャーへメールをしましたので、大丈夫です。裕さんは、奥さん連絡しましたか?」

「いえ、連絡をしていません。ですが、今日は大丈夫です」

「何か、奥さんに悪いですね」

 夏菜子は俯き、寂寥をグラスへ向けた。裕は空かさず、口を開いた。

「自宅を出る時、妻へは『仕事で遅くなる』と言いましたので、気にしないでくださいね」

 裕は嘘をついた。祥子へは仕事が終わったら真っ直ぐ帰ると伝え、そのつもりでラジオの仕事をこなしていた。虚偽に、心に針で刺すような痛みを感じたが、喉越しのビールの爽快感が麻酔薬の役割となり、痛みは消えた。

 ウェイターが料理を運び、手際よくテーブルへ並べる。二人はビールを追加で注文し、並ぶ料理を堪能した。夏菜子が逐一料理の説明をするものの、外食をしない裕は聞いたことのない料理名ばかりで困惑する。しかし、女優と並んで食事をする自身の姿に酔いしれ、そして、お酒の酔いも加速して、並ぶ料理が王妃への貢物のように思えてならなかった。

「裕さんは、普段どんな生活をされているのですか?」

 お酒が回り、陽気になった夏菜子の口調が、婀娜っぽく色付いてゆく。

「普段はですね。朝起きて、散歩して、小説を書いて、昼御飯を食べる。それから読書をして、また小説を書いて、夕ご飯を食べて、早めに寝ますよ。講演会や、今日のようなメディア収録があると不規則になりますが、普段は規則正しく、アスリートのような変わり映えしない日々を送っています。とても地味ですね」

「へー。楽しそうだな。ねえ、敬語じゃなくても良いですか? もっと仲良くなりたいなあ」

「勿論、良いよ」

「やった。嬉しいな。私のことは、夏菜子って呼んでね」

 夏菜子は裕へ寄り添い、腕を握った。裕は夏菜子の指を見た。第一線にて女優業を営む夏菜子の指は細く長く、艶があり、美しかった。ふと、祥子の指先を想起した。決して、比較してはならない筈だった。いや、比較してならないと自分を鼓舞してきた。何故なら、それは教祖への疑念を持つ信者のような行為、死を恐れて生を渇望するような行為に近しいと感じていたからだ。

 祥子の指先を想起すればするほど夏菜子の指先が美しく見え、瞳に宿した曇ったフィルターを、まばたきの度に丁寧に剥がされてゆく。

 奥歯を噛み締め、積み上げた倫理の瓦解を食い止めに走ったが、倫理は欲望の濁流に飲み込まれつつあった。倫理の破片が、歪な輝きを放った。話題性という大波に乗って作家として大成し、若い女優と肌を触れ合うことを、牛丼屋で惨めな生活をしている際に渇望した筈だ。倫理の瓦解は、夢の具現化なのだろうか。酔いが相まって、裕の感情は錯綜し続ける。


 二人の会話がまるでゴムボールのように弾んだ。夏菜子は終始笑顔を作り、裕の横顔を見ていた。

「ねえ。もう一軒行かない?」

 夏菜子は、裕の耳元で囁いた。耳元ではなかったかも知れないが、裕には耳元で囁かれたように明瞭に聞こえ、脳が揺らめいた。腕時計をつけない裕は、携帯電話を取り出して時刻を確かめた。不在着信やメールはなかった。そして、時刻は午後十一時を液晶が表示していた。今なら、裕の終電に間に合う時間だ。

「ごめんなさい。今日は帰るね」

 裕は弱々しく囁いた。

「そっか、残念。また誘って良い? もっと話したいな」

「うん」

 二人は連絡先を交換した。

 会計を済ませ、お店の外に出る。夏菜子は、「また連絡するね」と言って、タクシーに乗車した。老成した運転手の巧みな運転でタクシーは加速し、西に曲がり、ビル街に姿を消した。タクシーのバックライトが裕の瞳から消え、数回のまばたきによって、光の余韻が薄らぐ。振り返り、駅へ向かい歩き出した。辺りには雑な足音が鳴っていた。

 第8章「後半」へ続く。




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