雲の影を追いかけて 第5章「前半」全14章
第5章「前半」
「もしもし。芥川賞の発表会当日の流れの事でお話したいのですが、今って、お時間ありますか?」
「もしもし、杉本さん。今、大丈夫ですよ」
裕はガムテープを床に置き、ボールペンに持ち替え、電話から漏れる声に集中した。アパートの小さな部屋は、引っ越し準備で大小様々な段ボールが散らばっていた。
「ありがとうございます。当日ですが、受賞されると東京會舘で記者会見がありますので、東京會舘の近くでお茶でもしながら、発表を待ちたいと思っています。この流れで、如何でしょうか?」
「大丈夫です。もし受賞の場合は、そのまま会場に行く流れになりますか?」
「その通りです」
「分かりました」
「待ち合わせ場所は、追ってご連絡しますね」
「よろしくお願いします。もし、受賞したら、会見の際にどのようなことを話せば良いのでしょか?」
「率直な気持ちを述べていただくと良いと思います。力む必要も、偉ぶる必要もありません。いつも通りの裕さんで、大丈夫かな。読者も、そんな裕さんを求めていますよ。きっとね」
「分かりました。では失礼します」
終話ボタンを押し、メモに残した。そして、ガムテープに持ち替え、満杯になった段ボールの蓋を閉めて、ガムテープを貼って回った。不要な雑貨を置かない裕の部屋は、容易に荷造りが進んでゆく。
「ここにある全部の荷物、私の家の空き部屋に収まるかしら? 結構あるわよ」
雑巾を握る祥子は、部屋を見渡した。
「入ると思うよ。一緒に住むから冷蔵庫や洗濯機は要らないし、執筆に使う机は和夫さんが使っていた机を使うよ。ここにある不要なものは全部捨てる」
「そうよね。私たちって、一緒に住むのよね。ごめんね、二人暮らしなら、もっと気楽でしょう?」
「気にしないで、祥子さん。自分自身で選択したことだからね。それに、和夫さんは介護が必要な訳だし。祥子さんの家には、空き部屋があるから有効活用しないと勿体ない。僕なんて、まだまだ売れない小説家だからね。家賃の支払いが無くなるだけでもすごくありがたい。その分、牛丼屋のアルバイトを減らして、執筆に専念するよ」
「そう言ってもらえると、私も安心するわ。ありがとう、裕君。執筆に専念出来るように、妻としても全力を尽くすわ。裕君の実家には、挨拶に行かなくても良いのかしら?」
「僕から、連絡するよ。年が離れすぎているから、どうせ反対するだろう。反対されると、祥子さんが傷付くだけさ」
「そうかしら・・・」
裕は俯く祥子に抱き付き、一度口付けをした。祥子は苦笑いし、裕を見た。二人は互いの瞳に、互いの姿を映して、羞恥の色彩で愛を刻んだ。
しかし、裕は不安になることがあった。口から出る言葉は、強固な自分を誇示させるために吐いているのではないだろうかと。祥子との婚姻届を数日前に出したが、二人の関係を両親を説得出来る見込みはない。籍を入れたことがばれてしまうと、親族総出で『年の差婚』を反対されるだろう。狂気染みた相手を説得させる話術を、これまでの人生で身につけていなかった。
物事を急速に進め過ぎているのではないか。まるで話題性を持つという安易な船に乗船し、難破を秘めた名もなき海流に乗せられ、大海原を素手で漕ぎ続けているような気分だった。故に、祥子との口付けは、裕の抱いた不安を霧消させる、儀式のような時間となった。
「今日は、夜勤だったよね?」
「そうだよ。夜勤明けに、引越し屋さんに段ボールを運んで貰う」
「無理しないでね。身体が一番大事よ」
「ありがとう」
「私は、帰るね。父さんのご飯作らなきゃ」
「うん。和夫さんによろしくね。一緒に暮らせることが、楽しみだね」
「こちらこそ。じゃあね」
祥子は手を振り、アパートを後にした。
裕は足元に転がる詰め忘れた本を手に取り、蓋をした段ボールの上に腰掛けた。開けた窓から、レースカーテンを浸潤しつつ研ぎ澄まされた西日が差し込んできた。壁に目を向ける。時計が夜勤までの時間の告げていた。本のページを捲り、文字を眺めた。
日が落ち、母親へ電話をかけ、引っ越しの報告と祥子との入籍を、伝えた。祥子の年齢を告げた際、母親の声が一瞬止まったが、咎められることなく、平静に「分かった」と言われた。裕は複雑な感情が湧き上がった。もしかすると、結婚を止めてもらいたい、と思っていたのだろうか。
終話し、音の余韻がやけに長く感じ、複雑な感情を溜息に織り交ぜて吐き捨てた。
夜闇に輝く牛丼屋の看板が街の風景に一枚になる。裕は目を細め、看板を見上げた。知る限り、看板の電灯が切れたことは一度もなかった。いや、もしかすると、自分の知らない所で、修理業者が看板の点検を行なっているのだろうか。物事に永遠はない。それが世界の常。一見、同じ世界を眺めているようでも、刻々と世界が変わっている。稀有な悟りを齎してくれた看板に思いを馳せ、牛丼屋の扉をそっと開けた。
「いらっしゃいませ。あ、裕君か」
田中の自動音声のような、定型分の挨拶が裕に向かってきた。
「田中さん。おはようございます」
裕も定型分の挨拶を返す。裕はこのやり取りを好んだ。これまでの様々な会話を想起し比較しても、田中との挨拶が上位に来ることは間違いなかった。田中の挨拶は永遠であって欲しいとの渇望を胸に抱き、更衣室で着替え、厨房へ向かう。勤務者と引き継ぎをし、注文の入った牛丼を素早く盛り始めた。田中も張りのある声を出しながら、フロアを右往左往と駆け回る。
客が帰り、牛丼屋は静けさに包まれた。パイプ椅子に座る裕と田中は、会話を始めた。
「今日は、結構混みましたね。忙しかったなあ。売り上げも、まあまあ高いでしょう」
「うん。結構売り上げたと思うよ。それでさ、その後、祥子さんとはどうなの? 母さんも気になっているみたいだよ」
「実はですね。もう入籍しまして、明日から一緒に住み始めます。夜勤明けに、引越し業者が来ますから、ちょっと疲れていますね」
「おーー、それは早いね。さすが、話題性満点の小説家だ。二人は、どこか新しい街に引っ越すの? 新婚生活でしょ」
「いえいえ、祥子さんの実家に転がり込みます。家賃も浮きますしね。祥子さんの父と二世帯住宅です」
「二世帯住宅かあ。何かと、気を遣うことが多くなりそうだね。僕自身、嫁の実家で人間関係を築けずに離婚しちゃった身だからね。二世帯住宅の大変さは痛いほどしっているよ」
「まあ、仕方がないですね。祥子さんの父は介護が必要ですし。呑気な僕が、住む場所を動かすしかありません」
「裕君なら、上手く出来るさ。そして、芥川賞の受賞も出来ると良いね。あと、二週間位で発表かあ。楽しみだ。受賞したら、牛丼屋は辞めるの? 執筆依頼や講演会の仕事が殺到しそうだよね」
田中の表情に寂しさの影が浮かんだ。
「仕事が舞い降りれば良いのですが、受賞してみないと分かりませんね。こればかりは。そして、牛丼屋のアルバイトについても」
「大丈夫さ。きっと全てが上手くいくよ」
「田中さんって、リストラや離婚されてもいつも元気に働いていますよね。本当に羨ましいなあ」
「そんな事ないよ。実際、子供の養育費や将来の不安はたくさんある。けれど、牛丼屋で働くことは自分の性格に合っていると思うな。お客さん好きだし。今度、社員試験受けてみようかな?」
「うん、うん。田中さんなら、社員にぴったりです。真面目で、他のスタッフにも優しく教育出来ますからね。お互い違った道ですけれど頑張りましょうね」
「そうだね、互いに頑張ろう。あ、お客さん来たね」
田中は大きな声を出しフロアへ向かった。田中の背中を眺める裕は、未来への不安をかき消すことが出来なかったが、流れに身を任せてみようと思い、田中を追った。
第5章「後半」へ続く。
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