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雲の影を追いかけて    第5章「後半」全14章



第5章「後半」


 中型トラックから多くの段ボールが運び込まれ、部屋に詰められてゆく。本が窮屈に入る段ボールは、引っ越し業者の男性が眉間に皺を寄せて運んだ。

「これで荷物の搬入は終わりになりますが、他にご用はありますか?」

「特にありません。今日はありがとうございました」

 裕は、引越し業者の男性に深々と頭を下げた。

 去って行くトラックを見送り、玄関を閉めた。大学生の時から十年程住んだアパートから祥子の家に引越しを終え、聞き慣れない軋みを鳴らす階段を上がり二階へ向かう。慣れない他人の家での寝泊まりに、緊張と動揺、そして燐寸の火のような仄かな希望が錯綜した。未開封の段ボールに腰掛け窓の外を眺めた。夜勤で疲労した身体が、氷が溶けるように弛緩してゆく。外から、湿気を含んだ、夏本番を待ちわびる小暑の風が入り込む。空にはうっすらと雲が浮かんでいた。アパートから見る空と、同じ空を見てい筈だが、何故か異国の空を見ているような気分だった。もう、アパートから見ていた青空に出会うことはないのだろう。

 眠りの足音を感じ、夜勤で纏った牛丼の匂いをシャワーで流すため、階段を降りた。

「裕君。荷物の整理は進んでいる?」

 祥子がリビングから顔を出した。

「うん、順調かな。後は荷解きして、整理するだけだよ。引越しを手伝ってくれてありがとう。臭いから、シャワー浴びてくるよ」

「ご飯食べる?」

「ご飯は要らないかな。喉が渇いたから、お茶を飲みたいな」

「分かった。淹れておくわね」

 祥子の笑みに安堵し、裕は脱衣所に入った。汗が染み込んだ下着を脱ぎ、シャワーを浴びる。牛丼屋の匂いが、髪の毛から抜け出し排水溝へと消え去った。

 タオルで髪の毛を拭きながら、リビングのソファに座る。祥子は急須から湯飲みにお茶を淹れて、裕の前テーブル上に置いた。

「凄く、おいしい。なんだか不思議だよね。奥さんの祥子さんが、こうやってお茶を淹れてくれるなんて。物事が急速に進みすぎて、不安になるよ」

「私も、少し不安。でも、私は裕君と出会うために、五十九年間あったと思うの。それくらい幸せ」

「嬉しいな。ありがとう」

「でも、ハネムーンに出かけたり、新婚生活らしい環境を作れなくで、ごめんね。本来なら挙式したり、ドレスを着て写真を撮ったり、指輪を贈ったりしたいところだけれど」

「それは、お互い様だよ。売れない小説家だから、まだまだ生活を支えることが出来ない。だから、そのことは言わないようにしよう。僕は今の祥子さんを愛している。ハネムーンなんて、僕らの愛に比べるとちんけなものさ」

「ありがとう、裕君」

「さてさて、一眠りして、執筆するかね。新しい家で眠れるか不安だけれど」

「そうよね。新しい家って、何かと慣れないもの。もし、何か必要なことあったらいつでも言ってね」

「ありがとう。お父さんは寝ているかな?」

「寝ていると思う。音がしないし」

「ちょっと、顔を見てくるよ」

「分かった」

 裕はお茶を飲み干し、和夫の部屋をノックした。暫く待ったが、返事がない。音を立てないように、慎重に扉を開けた。

 裕と和夫は初めて会った時から数回程話しているが、正式に義父となってからは、まだ話を交わしていない。裕は緊張しつつ、ベッドに横になっている和夫の表情を覗き込んだ。すると、和夫は眩しい光に目を慣らすようにうっすらと瞼を開き、眼球が左右に動いた。夢から現実へと移行し、表情が和らぎ、眼球が裕の姿を捉えた。

「和夫さん、おはようございます。裕です」

 裕は驚かさないように、囁くような声で話しかけた。和夫は裕を目で捉えているが、言葉を脳内で咀嚼出来ず、口が半開きになっていた。

「何か、欲しいものありますか?」

 裕の問いに、和夫の口が動き、夢から醒め、瞳に力が宿った。

「裕君か。おはよう。今日も良い天気だね。風が心地良いよ」

「今日は快晴の予報ですね。ですが、次期に蒸し暑くなると思いますよ。夏が近づいてます。喉が乾いていませんか?」

「ちょっと、乾いているかな。何か持ってきて貰えるかな?」

「分かりました」

 和夫の部屋から出て、冷蔵庫を開けた。冷蔵庫は様々な食材が綺麗に整理整頓され、祥子の性格を嬉しく思う。すると、物音に気付いたのか祥子がキッチンへやってきた。

「何か、探し物?」

「うん。和夫さんの飲み物を探しているよ」

「あら、起きたのね。私が行こうか?」

「いや、僕が相手をするよ。このパックのお茶が良いかな?」

「そうね。朝はいつもお茶を飲んでいるわ。では、お願いしようかしら。ありがとう」

「いえいえ」

 お茶のパックを持ち、和夫の部屋に入る。和夫は同じ体勢で真っ白な天井を見つめていた。八十歳を越えた和夫がどんな情景を天井越しに眺めているのだろうか、と裕は想像する。読了した本の数、瞳に描いた世界の色彩、耳で聞いた様々な音色、圧倒的な蓄積の差が屹立していた。すると和夫へ、興味の雫が頭上から滴った。

「お待たせしました。お茶のパックです。ストロー刺しますね」

「ありがとう。いつも、すまないね」

 和夫は手を震わせながらお茶のパックを受け取り、ストローを口に付け、ゆっくりとお茶を吸い上げる。こけている頬がスプーンで抉られたように益々こけだす。

「ゆっくり飲んでくださいね」

 裕は心配し、声を掛けた。和夫は口からストローを離し、時間をかけてお茶を飲み込んだ。

「ありがとう。体が潤ったよ」

「他に、用事が有ったら、仰ってくださいね」

「ありがとう」

「祥子さんから聞いたと思いますが、今日からこの家に住ませて頂きます。先程、荷物の搬入が終わりました。二階の空き部屋を使います」

「お疲れ様。昔、わしが使っていた部屋だから自由に使って構わない。邪魔なものが有ったら、勝手に処分してくれて良いからね」

「分かりました。それでは、夜勤明けですので、ちょっと休みますね。お邪魔しました」

「ありがとう、裕君」

「いえいえ、では」

 裕は振り向き、和夫の部屋を出ようと足を踏み出した。すると、

「『月の雫』の小説、とても面白かったよ。芥川賞を受賞出来るとわしは思う。また、新作を書き上げたら読ませて欲しい」

 と、和夫は裕の背中を撫でるように言った。裕は背中に手を添えられたような小さな温もりを感じつつ、部屋を出て二階へ向かった。

 二階の部屋は段ボールが乱雑に広がっている。裕は隅に布団を敷き、横になった。読みかけの本を開くと同時に、瞼が落ちてきた。




第6章へ続く。




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