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雲の影を追いかけて   第13章   全14章



第13章

 裕と田中はエレベーターに乗り、高層階の夏菜子の部屋を目指して上昇する。田中は獣に睨まれた小動物のように縮こまり、目が泳いでいた。

 数日前、田中と一緒に行くことを夏菜子へメールで伝えると、女優の矜持にて反対すると思っていたが、幸いにも承諾をもらえた。寧ろ、「女優の友人を呼んでおくね」と言い、田中のことを歓迎していた。

 エレベーターが到着し、夏菜子の部屋まで歩き、玄関のチャイムを押した。直ぐに扉が開き、夏菜子が顔を出した。

「今晩は」

 田中は小声で挨拶をした。田中の挨拶に併せ、裕は小さくお辞儀した。

「どうぞ、あがって」

 夏菜子は笑顔を作り、裕を田中を招き入れた。田中はよそよそしく靴を脱ぎ、丁寧に並べた。夏菜子の後を歩き、廊下を過ぎて広いリビングに着いた。日が沈み、夜景が燦々と輝く。室内は淡い光の間接照明で、落ち着いた雰囲気だ。

「裕君は、ここに座ってね。それで、田中さんはこっち」

 夏菜子が座るソファを指示した。小さなテーブルを挟んで、裕の目の前には、見覚えがある女優が座っていた。髪の毛は短く、顔立ちは幼げだった。ショートパンツを履き、夏菜子と同様に白く長い足が覗く。細身の身体に、胸は豊満だ。その女優の隣に田中が座った。裕が女優を見ていると、女優は口を開いた。

「初めまして。緒方郁子です。裕さん、それに、田中さんですね。本日はどうぞよろしくお願いします」

 丁寧な挨拶だった。田中が興奮気味に、声を出した。

「話題ドラマ主演の緒方郁子さんと、渡辺夏菜子さんにお会い出来るなんて、裕君はどれだけ凄い人間なの。嬉しいなあ」

「そんな。私って、夏菜子と比べたら全然凄くないですよ。偶々売れたというか。話題になったというか。事務所のおかげというか」

 郁子は口に手を当て微笑んだ。

 エスニック料理を持つ夏菜子が戻ってきた。そして、テーブルに料理を並べると、裕の隣にくっ付いて座った。

「はいはい。じゃあ飲みましょう。乾杯」

 四人はワイングラスを持って、乾杯をした。高貴な輝きを放つグラス内のワインが波立ち、葡萄の香りを散りばめる。四人はワインを飲みながら、それぞれ順番に自己紹介をした。夏菜子から始まり、裕、郁子、そして田中と続く。

「僕は、牛丼屋の店長をしています。お客さんに美味しい牛丼を提供出来るように日々頑張っています。離婚歴がありますが、慎ましく生きています。ささやかな楽しみは、裕君の本を読むことです」

 田中の言葉を聞き、裕はこの場に田中を呼べたことを嬉しく思い、そして目的が果たせたために帰宅したくなった。喉を通るワインに、過度な苦味を感じ、水を飲み干した。

 世話焼きの郁子が料理を取り分け、四人の前に置いた。四人は夏菜子のエスニック料理を食べながら田中の会話中心に時間が流れた。

「ねえ。裕君飲んでる?」

 頬を赤く染め夏菜子は、虚ろな目つきで裕の耳に囁いた。

「うん。それなりに」

 テーブルの料理はなくなり、ワインの空き瓶が三本床に転がっていた。

「えー。全然飲んでないじゃん。この前は、たくさん飲んでいたのに。田中さんは飲み過ぎて、あっちのソファで鼾を掻いて寝ているわよ。郁子は飲んでいるわよね?」

「うん。飲んでいるよ。ねえ、私も裕君の隣に行っても良いかな? 田中さん居なくなって、寂しくなっちゃった」

「良いわよ。裕君を二人で挟んで、飲みましょう」

 郁子は立ち上がり、裕の隣のソファーに座った。夏菜子と郁子から、お酒の香りに混じった吐息に合わせ、柑橘系のコロンの匂いがした。

「ねえ。裕君って、不思議な人で面白いでしょ。独特な感性がないと、芥川賞なんて受賞出来ないわ。私ね、裕君の目が好きなの。澄み切っていて、それでキリッとしていて。若干の男らしさがあるの」

 夏菜子が言った。

「うん。確かに魅力的よね。今日会えて良かったわ」

 郁子はグラスに入ったワインを一気に飲み干した。すると、夏菜子が郁子のグラスにワインを注いた。裕は二人のやりとりを傍観した。

「ねえ、この前みたいなことする? 郁子が邪魔だったら言ってね」

 夏菜子は、裕の右の耳元で囁き、お腹を撫でるように腰に手を回した。裕の全身が縄で縛り上げられたように強張ってゆく。唾を飲もうとした。しかし、乾いた口からは、飲み込む程の唾液が出ていなかった。夏菜子の手を振り解こうとした。すると反対に座る郁子が、裕の腕に手を回してきた。正に絵に描いたような両手に花の光景になっている。身動きが取れない。

「裕君。私のことどう思う?」

 郁子は左の耳元で囁き、胸を裕の腕に押し当てた。郁子の胸は、祥子とは違い、柔らかく弾力があった。裕はどちらの問いにも答えなかった。すると、

「裕君。私と、郁子の、どっちの身体を抱きたい? 私よね。こんなに美しいのよ」

 夏菜子は言い切った。酩酊し、若干呂律が回っていない。

「ねえ、裕君。私よね。夏菜子より、私の方が若いのよ。身長は負けるけれど、胸の大きさなら負けないわ。ほら触って」

 郁子は全身を裕へと密着させた。裕の身体を、夏菜子と郁子は撫で回してゆく。

 裕は張り詰めた糸が切れ、頭の霧は晴れ渡った。

「ちょっと、離れてくれないか」

 強めの口調で言った筈だが、酩酊する二人は変わらず裕の身体を貪っていた。

「ねえ。ちょっと困るな」

 裕は二人の腕を強く握り、振り解いた。素早く立ち上がり、反対側のソファーに移動し腰を下ろした。驚く夏菜子と郁子は目が点になり、事態を飲み込めていないようだ。裕は二人の表情にも頷けた。二人は人気女優で無数のファンがいる筈だ。大金を払ってでも抱きたい人が、勿論いるだろう。そんな女優が、裕から侮蔑の仕打ちを食らったのだ。

「二人とも、僕の戯言かも知れない言葉を聞いてほしい。こんな拙い小説くらいしか取り柄がない僕に良くしてくれることは嬉しい。実際、芥川賞受賞の小説家にならなかったら二人と会うことは出来なかっただろう。僕の目の前に座っている二人はとても若くて、肌の張りがあり、胸は豊満で、スタイルも抜群に良い。目もはっきりして、鼻も高い。身体も煌びやかだ。それに比べて僕の妻の祥子は、髪の毛は白髪が混じっているし、足腰は弱くなっていっている。顔には皺が増え、胸も垂れ始めている。三人を全裸で並べたら、この星の殆どの人間が、夏菜子と郁子を選ぶだろう。絶対に・・・。それでも僕は妻である祥子を選ぶ。僕は祥子が作ってくれる影を追い続けることを決めたんだ。それは、自縄自縛になることかも知れない。でも僕の美学はそこに眠っている」

 夏菜子と郁子は口を半分開け、無表情で裕の話を聞いていた。虚ろな視線は裕を見ているが、裕を透かし異国の景色を眺めているようだった。裕は話を続けた。

「だから、この高級マンションから帰り、祥子の影を追い続けたい。そして、文豪の残した本を読み、自らの執筆の仕事をしたい。これからも、恐らく、ずっとね」

 裕はテーブルにある、水を口に含んだ。お酒の匂いが染み込んでいるような味がした。吐きたい気持ちを堪えながら、飲み込んだ。すると、夏菜子が長い足を組み直し、口を開いた。

「あー、なんか冷めちゃったね。もう少し、楽しい人間なのかと思ったけれど、なんだか退屈しちゃう。おじいちゃんみたいな、変な蘊蓄を並べるし。ねえ、郁子?」

「うん」

 郁子は小さく頷いた。

「ごめん。二人の希望に沿えなくて。帰ることにするよ」

 裕は立ち上がり、田中の寝ているソファに移動した。田中は満面の笑みを浮かべ鼾を掻いていた。裕は自分の放った言葉が、果たして正義であるのか、果たして自分に幸を与えてくれるのかを思慮した。田中のように、憧れの女優と楽しくお酒を飲み、呑気に寝る。もし、田中が芥川賞を受賞した小説家だったなら、夏菜子と郁子の身体を獣のように貪り、夜通し抱くことになっただろう。そもそも、田中の性格では祥子と出会うことはないだろうが。自分の性格に辟易し、暗澹たる気持ちになりつつも、砂漠の砂の中から一粒の小石を探すように、祥子に出会えたことを嬉しく思った。

「田中さん。帰るよ」

 裕は田中の太ったお腹を叩いた。清々しい快音がなった。

「あれ、もう帰るの? 早いなあ。もっと二人とお話ししたかったなあ」

 田中は少年のように瞼を擦っている。裕は田中を引っ張り起こして、玄関に向かった。別れ際、夏菜子と郁子と目を合わせることはなかった。

「じゃあね。お邪魔しました。また、裕君と来るよ。今度は牛丼屋に遊びにきてね。沢山サービスするよ」

 田中は夏菜子と郁子に深々と頭を下げて挨拶し、裕の後を追った。

 エレベーターで高層マンションから地上へと降下する。二人はタクシーに乗り、自宅へと向かった。田中はタクシーの運転手と、最近の時事ニュースや、世間話をして盛り上がっていた。裕は車窓から見える街灯の明かりを、一つずつ目で追った。


 田中の自宅の前で、田中をタクシーから降ろした。田中は終始、御満悦なようで笑顔を絶やさなかった。そんな田中の表情を見る裕は、女優に会わせることが出来たことを嬉しく思った。タクシーの扉が閉まり、風を切るように裕の自宅へと走り出した。

 料金を清算し、夜闇に足を下ろして、玄関を開ける。

「裕君、お疲れ様。今日は早かったね」

 祥子が玄関に顔を出した。玄関の照明が祥子の頬を照らしていた。

「うん。早く帰れて良かった。お酒の匂いを洗い流したいから、お風呂に行くよ。疲れた」

 裕は外套を脱ぎ、風呂場へと向かった。

 蛇口を回し、熱めのシャワーを頭頂部から、掛け流した。身体に着いたお酒の匂いと、夏菜子と郁子が付けていた柑橘系のコロンの匂いが排水溝へと流れてゆく。今後、夏菜子たちと私用で会うことはないだろう。排水溝に流れる水を掬おうと思い、蹲み込んだ。流れる水を掬ってみたが、指先から溢れ、排水溝へと流れ去った。

 風呂から上がり、寝巻きに着替えて、和夫が使っていた部屋へ向かった。祥子の身体を気遣い、寝室を二階から一階へと移動した。裕が寝室に入ると、祥子は敷いた布団で読書をしていた。裕は祥子の敷いた布団へ潜り込んだ。

「祥子さん、何の本を読んでいるの?」

「『月の雫』よ。前の本がボロボロだったでしょ。新しい本を買っちゃった」

 祥子は本を閉じ、枕元に置いた。読書灯を落とし、裕の布団へと移動した。

「ねえ、裕君。何か面白い話をしてほしいな」

「面白い話ね。話すのは苦手だけれど・・・」

 裕は何作目になるか分からない、今後書きたい物語の話をした。祥子は瞼を閉じ、裕の話に耳を傾けた。裕は祥子の寝息が聞こえるまで、話を続けた。

 暫くし、祥子の寝息が聞こえ出したため、裕は読書灯を消した。室内は真っ暗になり、夜の足音が辺りを駆け回っていた。


最終章へ続く。






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