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雲の影を追いかけて   第11章「前半」全14章



第11章「前半」

 扉が開き、祥子の声が聞こえた。裕は客人用の布団から顔を出し、重たい瞼を擦った。瞳の先には、白いワンピースを着た祥子が立ち、楚々とした笑みを浮かべていた。

「おはよう、裕君。父さんの部屋で寝ていたのね」

「うん。昨晩は帰りが遅かったからね。祥子さんを起こしたら悪いと思って、この部屋で寝たよ」

 和夫が使用していたベッドは数日前に廃棄し、部屋は広々としている。裕は部屋の中央に布団を敷いて寝た。

「昨晩は、お仕事だったの?」

「うん。そうかも知れない」

「お疲れ様。裕君・・・」

「祥子さん、こっちに来てくれない?」

 裕は身体を動かし、布団にスペースを作った。祥子はこくりと頷くと、布団に横になり、裕の腕枕に頭を乗せた。祥子の髪の毛が、裕の腕に広がる。カーテンの隙間から、木漏れ日のような柔和な光が差し込み、二人の顔を照らした。裕は時刻を確認しようと壁を見た。和夫が愛用していた壁掛け時計は、七時半を指している。耳を澄ますと、登校中の小学生の煌びやかな声が聞こえた。

「ねえ。不思議な夢を見たんだ。聞いてくれるかい?」

「勿論よ。どんな夢だったの?」

 裕は瞼を閉じ、瞼の裏に夢の世界を造形する言葉を探しながら、ゆっくりと話を始めた。

「夢の中での僕は、高校生くらいだったかな。恐らく学生服を着ていたから、高校生だったと思う。その日は、雲ひとつない快晴で、とても暑かった。初夏の陽気。
 校庭が見渡せる丘に生える大きな樹の木陰で、僕は読書をしていたんだ。本の名前を思い出せないけれど、古い小説だったと思う。暑かったけれど、小説に熱中していて、時の流れを忘れかけていた。蝉の鳴き声と、部活動に励む生徒の声が心地良く、集中が途切れることはなかった。
 すると突然、名前を知らない青年が僕の隣に座った。眉目秀麗な青年は、僕よりも少し年上に見えたな。
 青年は蒲公英の綿毛を吹くように僕へ囁いた。
『この世で美しいものは、何だと思うかい?』
 青年の抽象的な質問に、僕は読んでいた小説を閉じて真剣に考えた。美しいと思えるものを、一つ一つ頭に浮かべていったんだ。宝石。貴金属。一流の芸術品。女優・・・。ありとあらゆるものを。
 すると、青年はクスッと笑った。
『裕君。もっと美しいものだよ。今君が思い浮かべているのは、愚劣なものさ』
 僕は再び考えた。夢の中で苦心するのはバカな話だけれど、何故か懸命に考えた。これまで目にしてきたものを、思い浮かべたんだ。けれども、答えには辿り着かなかった。もし答えに辿り着いたなら、彼が僕の肩を叩いてくれただろうからね。
 僕は彼の顔を見た。青年は空を見上げていた。僕は青年の目線の先に目を向けた。空には、いつの間にか積雲が浮かんでいた。ついさっき迄の、雲ひとつない清澄な空が一変していた。
『ねえ。あの雲を見て、君は何を思うかい?』
 青年の問いに、僕は雲を眺めて色々考えた。乗ることは出来るのだろうか。どのくらいの速度で進んでいるのだろうか。どこで生まれて、どこに消えていくのだろうか・・・。
 僕があれこれ考えていると、青年は再び、クスッと笑った。
『君は、もっと多角的に物事を観察した方が良い。文豪に負けないような、小説を書きたいのだろう。だったら尚更だ。あの浮かんでいる雲を見てみな。とてもゆっくりと穏やかに移動している。そして、太陽の日差しを遮る影が、地上をゆっくりと穏やかに移動してゆく。
 真夏に出来る雲の影。雲の影が太陽の日差しを遮り、地上へ安らぎを齎す訳だ。刹那的な安らぎを与え、去っていく。刹那的な安らぎをね。安らぎを与え続けると、人間は依存してしまう。だから、人間のためにわざわざ去っていくんだ。これこそ、究極の美学だと僕は思うな』
 青年は静かに話し終えた。僕は雲から視線を下げて、校庭を見下ろしたんだ。雲が作る影がゆっくりと穏やかに移動してゆく。部活動に励む高校生は、雲の存在を気付いているのだろうか。いや、一所懸命に走っているから、気付くことはないだろう。でも、きっと涼しい筈だ。
 その時、強い横風が吹いた。校庭の砂埃が舞い上がった。僕は埃が入らないように瞼を閉じた。
 暫くし、瞼を開けると、隣にいた青年は居なくなってしまった。風に乗って去ってしまったようだ。もしくは、雲の影と共に去ってしまった。
 僕は青年の言った美学について、小説を読みながら僕なりに咀嚼していたんだ。するとね、祥子さんの声で目覚めたんだ・・・」

「すごく素敵な夢ね」

 祥子は裕の顔を見つめていた。

「ねえ。咀嚼して、裕君なりに答えは出たの?」

「まだ。はっきりしたことは分からない。けれど、祥子さんと一緒に過ごし、執筆を続けると、いずれかは答えに近付けると思う」

「私で良いのかしら?」

 裕は祥子を直視し、祥子の唇に口付けをした。口付けは、長く続いた。裕が祥子を求めるように、祥子も裕を強く求めていた。



第11章「後半」へ続く。




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