武器を持ちたくない若者が詰まったマトリョーシカ
私がボランティアで手伝いをしているカフェで、ある朝、テラス席の掃除をしていると、所定の席でタバコ片手に座っている船長が私を呼び、カタルーニャ語で「このお客さんに何が飲みたいか聞いてごらん」と言いました。
と言われても、私はさっぱり何を言われているのかわからなかったので、「何だって?もう一回言って」と聞き返すと、船長はスペイン語で言い直しました。やっと理解できた私は、船長の目の前に腰掛けている白髪にブルーアイの男性を見て、イギリス人かな?と思い「何飲まれますか?」と英語できいてみました。
すると「カフェ・コン・レチェ(ミルク入りコーヒー)お願いします。あなたどこから来たの?」と白髪にブルーアイの男性は言うので、「日本です」と私は答えました。男性は、ほんの一瞬考えて「オハヨウゴザイマス」と言いました。
すんなり発せられたその言葉に驚いた私は「どうして日本語できるの?」と尋ねると「日本に何度も行ったことがあるんだ」と言う姿が、冷静で知的に見えたので、「仕事で?」と聞くと「そうだね」と答えました。
勝手にスマートでリッチなビジネスマンだろうと憶測で言っていますが、私は人を見る目がないので、もしかしたらオーケストラの指揮者かもしれないし、大学教授かもしれないし、諜報機関の要員かもしれません。
白髪にブルーアイの男性は私に「どのくらいここで働いてるの?」と聞くので、「私は働いてないんだよ、ボランティアで手伝ってるだけで、彼(船長)のパートナーが怪我して店出れないから」と説明しました。「私はコーヒーをごちそうになって、彼(船長)は私にカタルーニャ語を教えてくれるから」とつけ加えると、男性は「そうなんだ、それはいいね」と少し微笑みました。
この男性に、どこの出身なのか聞いてみるとドイツでした。イギリス人かと思っていましたが早速違う。全く当てにならない私の目です。鋭い女の勘なんてかけらもなく、ただの的外れな先入観です。千鳥足で自信満々にダーツをしてるくらいの命中率です。
彼はドイツ南部のバイエルン州に住んでいて、この島にはたびたび休暇で来て、今は3週間ほど滞在中で、このカフェはよく来るのだと教えてくれました。彼を便宜上バイエルンさんと呼んでみます。
私もドイツに住んでいたけどベルリンだけで、南部はほとんど行ったことがないのだ、と言うと、「私もベルリンに住んでたんだよ。ずいぶん前のことだけど。まだ東西にベルリンが分断されていて壁があった時でね、西ベルリンに住んでいたんだよ。壁の中で、陸の孤島といった感じでね、カオスというか独特だったよ」とバイエルンさん。
西ベルリン、壁の中に住んでいた人の話を直接聞くのは、私は初めてです。バイエルンさんは「あなたはどのエリアに住んでたの?私はU.S.セクター(米国が管理した地域)に住んでたんだよ。XX通りだよ、わかる?」と言い、その通りの名前は私が住んでいた場所のすぐそばでした。
連合国のどの国の管理下だったか、という視点からベルリンを語る切り口に、私の脳が震えました。誰かが隣で貧乏ゆすりするよりもう少し強く、家のすぐそばを大型トラックが通過したくらいの震度です。
なんで私は5年も住んでいて、自分の住んでいる場所の歴史について、もうちょっと知らなかったのだろう、と。
別れてから気がづく元パートナーの魅力(経験ないけど)、去ってから気になる住んでいた場所の歴史。
ベルリンは、ドイツが東西に分断されていた東側に位置し、さらにベルリンの中が東西に分割されていて、つまり西ベルリンは東ドイツの土地の中の西ドイツの飛地だったので、まさに「陸の孤島」だったのです。ここまでは私も認識していましたが、その陸の孤島の中がどう分割占領されていたのかはさっぱり記憶していませんでした。
そんなの一般常識だよという方、心から尊敬します。これを書きながら早急にWikipediaを読みました。
西ベルリンは、まるでマトリョーシカ人形でした。
ソ連領だった東ドイツ・マトリョーシカを開くと、双子のベルリン州マトリョーシカが出てきて西・東ベルリンです。
東ベルリン・マトリョーシカはもう開きませんが、西ベルリン・マトリョーシカはまだ開き、アメリカ・イギリス・フランスの3体のマトリョーシカが出てくるのです。
ベルリンの壁があったのは1961年から1989年の間ですから、バイエルンさんはその期間のいつか、アメリカマトリョーシカの中(米国占領地)に暮らしていて、私もその数十年後に同じ場所に居たわけです。
ふと気になり「ベルリンにはなぜ住んでいたの?」と聞いてみました。バイエルンさんは「ドイツには徴兵制があったんだけど、西ベルリンは旧連合国(米英仏)の統治下だから徴兵制が適応されなくて、軍隊に入るのを避けられたからだよ」と教えてくれました。
私の脳は再び震えました。線路沿いの壁の薄いアパートの横を長く重たい貨物列車が轟音を立てて通り過ぎ、窓がガタガタする振動でした。
Wikipediaにはバイエルンさんが言った通りのことが書かれていました。
若きバイエルンくん、徴兵を嫌った若者だったんですね。
西ドイツでは兵役を拒否して、代替えの公共福祉サービス(医療機関や老人ホームなどで労働)を選ぶことも許されていたようです。
ところが西ベルリンに住んでいれば、その代替えの社会福祉の仕事もしなくて良いため、兵役対象年齢になる高校卒業時に、すぐに西ベルリンに移り住む男子たちもいたのだそう。いずれにしても合法的な兵役回避の選択肢があったということですね。
しかしこれは西ドイツの話で、共産主義の東ドイツの男の子たちの様相は異なり兵役は絶対で、社会福祉のような代替え策はなく、西ベルリンに引っ越すなんて選択肢はないし、武器を持ちたくない青年たちは、建設兵士として、公共工事や鉱業の現場で働くことが義務だったようです。
当時の18歳以上の男子たちの気持ちは想像しようとしても、今の現実を生きる私からは簡単ではありません。
ドイツの兵役は1956年から2011年に志願制になるまで続き、ついつい最近まであったのです。知りませんでした。
もうひとつ興味深かったのは、兵役免除になる人は、女性や、医療上の理由がある男性のほか、“ホロコースト犠牲者の三世までのユダヤ人”も免除対象だったとありました(志願して就くことは可能だった)。
ここまで書いたのはあくまでWikipedia情報を私の理解力のフィルターで漉したものなので、いろいろ間違ってることも大いにありますから、ぜひ、丸呑みして信じないでください。
バイエルンさんの話から、ルールには抜け道があるんだ、選択の自由が認められている体制下では生き方は選べて自分で決断することも可能だけど、選択の自由が認められていない体制下では、体制が決めたことは絶対で、同じ地続きにいながらも壁の中と外の現実はひどく違っていたことを知りました。
今でもベルリンには日本では滅多にお目にかかれないようなパンクなおじさんやおじいさんが、いつまでも灰にならず、くすぶり続ける焚き火のように残っていますが、アナーキーな風味は歴史・時代によって醸成されたのだなと。当たり前ですが。
ベルリンのカオスは一日にして成らず。
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