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新社会人

1.福祉の世界へ

大学卒業後は、祖父から紹介された地元の某社会福祉法人へ入社し、1年目から重度の知的障がい者更生施設へ“生活支援員”として配属されました。そこの施設は、約100名位の利用者さんが入所している施設で、24時間シフト制で回している職場でした。
早番・日勤・遅番・夜勤の交代制で、休日も不定期。当時は義務マニュアルがあり、ほぼ1日の流れがルーティン化され‥決まっていたので仕事は大変でしたが、やりがいはあったと思います。
当時、苦手な職員もいましたが‥3年も経つと、自然と打ち解けられるようになり仕事も慣れてきたのもあり、利用者さんと触れ合う事も周囲の方とのコミュニケーションも苦ではありませんでした。
ただ、私は環境が変わったり、急な予定変更があると、毎回精神的に困難を感じるようになっていました。必ずといっても良い程、シフトの急な変更が重なる度に、体調を崩す事が多く、それでも周りに迷惑かけまいと、少しの不調を感じる時でも、休まず出勤したり、市販薬で何とか保てていました。
今、思うと‥相当無理していたのだと思います。当時の私は、“ちょっとの風邪や不調ごときで休んではいけない。休んでしまえば、周りに申し訳ないから”と、ずっとそんな事を思い続けていました。
仕事の覚えに関しては、周りの先輩達に比べると、かなり覚えるまで時間を要し‥何よりこの仕事をする時から、マルチタスクが苦手でした。
また、先輩の行動を見て覚えたり、周りの動きを汲み取り、自分で考えて行動するような仕事に対し、苦手意識が強くあり、毎年の人事考課の評価も低く、いつも同じ事で躓くようになってしまっていました。
その度に、夜勤明け等に、上司に呼ばれ同じ事で指摘を受けていたのを、今でも鮮明に覚えています。
先輩達には、「自分も新人時代は、全然出来なかったから、大丈夫。」と何度も励ましの言葉を頂いていましたが、その場しのぎで、自分の中では、自分の不出来について何か消化しきれない所もあり、半分は素直に先輩達の言葉を受け止める事が出来ないでいました。
しかし、2年目・3年目となる毎に少しずつ見えなかった物が見えるようになり、仕事も指摘を受ける事が少なくなっていきました。
上司からも誉められたりする事が増えて来て自信にも繋がり、福祉の仕事にやりがいを感じる事が出来ました。4年目に初めて、就労継続支援B型・就労移行支援型の通所型事業所へ異動となり、支援学校の生徒さんの実習指導や利用者さんの職業指導員として、就労支援の仕事に携わりました。
様々なイベントがあり、各施設への訪問販売等に関わる機会も沢山あり、イベント後の売り上げも経験しました。
一番苦労したのは、各売り上げを出す際の計算です。数字に弱く、よく間違ったりもしました。
就労支援事業所も3年の勤務で、やはり慣れてくると業務もスムーズで、自分としては毎日同じ作業だった事もあり、すぐに覚えられました。職員の方、利用者さんとも毎日楽しく過ごす事が出来ました。
入社6年目の頃から、やりがいもありましたがもう少しで三十路手前だったので、転職を考えるようになりました。大学時代から児童福祉分野に興味があったので、冒険してみたくなったのです。

2.苦労の始まり

月日が流れ、入社7年目の事。就労支援事業所から、入所型の授産施設へ異動した私は‥新しい刺激を求めるようになり、児童福祉分野への興味が以前より強くなっていました。
当時、新しく開設される放課後児童デイサービスの管理者になる方からのお話があり、一緒に働いてみないかと紹介され、内定まで頂いていました。次の職場が決まった為、当時の直属の上司へ退職する旨を伝え、何とか無事に退職する事が決まりました。
そして、内定した次の職場から連絡が来てもう一度面談したいとの事で、その時は何の疑いもせずにそのまま面談に向かう事にしました。面談の内容は、自分にとって‥あり得ない位、ショックなものでした。
オープンするまでは、隣接する保育施設で補助として働いて欲しい‥と。
オープンしたら、約束通りに放課後児童デイサービスの児童指導員・保育士として働けると、その時は素直に思っていたので、新たに保育士合格に向けて、勉強しながら保育士補助として目標に向けて頑張っていました。
しかし、施設がオープンしても一向に声がかからず、気づいたら数ヶ月が経っていました。保育士は残念ながら合格は出来ませんでした。慣れない環境、疲労やストレスで、原因不明の咳が出てずっと止まらず、とうとう声がしばらく出なくなったりと‥不調を感じる事が多くなっていて、早退したり休みがちになったり、とにかく体も心も悲鳴をあげ始めていました。その時、通院先の先生から“ドクターストップ”の話が出ました。
約6ヶ月でしたが、働く環境を変える為、次の転職先も決めていました。
次こそは、という思いで決めた職場は小さな家族経営の放課後児童デイサービスで念願の児童指導員として働ける職場でした。
そこは、自分で考えたレクリエーション等を子ども達に共有したり、とにかく自分で考えて仕事を作っていく場所で、最初から元々自分で創造性を活かした仕事等は苦手だった事もあり‥不安でしたが、当時の同僚からアドバイスを得たりもしながら、なんとかこなして来ました。
しかし、時間が経ってくると‥自分の不出来や不器用さが目立ち始め、新しい職員も入ってくると同時に‥上司からも指摘される事が増え、個人面談を何度か行いました。
ある日の個人面談の時に、管理者より今までと少し違った深刻な顔をされ‥次の事を通達されたのです。
“貴方の今の仕事ぶりだと、周りの人達の仕事のパフォーマンスが落ちてしまうので、このままだと会社の生産性が悪くなる為、パートで働くか‥退職するかどちらかにして欲しい”

正直ショックでした。その時初めて、私は会社の評価基準があったんだと知る事になりました。あまりにもショックな思いが強く、以前働いていた信頼出来る元上司に相談する事にしました。
その頃から、自分に自信を失いかけ苦しい人生に転落する事になります。元上司は、辛い気持ちも受け止めてくれて、何度も私を気にかけてくれたりしてくれました。
その放課後児童デイサービスを退職後、しばらく離職し、失業保険を受給しながら過ごしていました。休んでいるうちに、現在習っているハーモニカと出会います!
ハーモニカは、自分の生き甲斐となってます。
離職後も、介護施設に2件転職する事になりますが、どちらの施設も同じような事で人間関係に躓き、離転職を繰り返していました。

3.言葉の傷

私はよく、強い口調で指摘を受け続けたりすると‥頭の中が混乱し、パニックになってしまうような傾向があったり、見て覚えられず何度もミスをしたりする事が多いうえ、不出来さを責められるかもしれないというような思考によく陥ってしまうので、なかなか相手に分からない事も聞けなかったり、どのように聞けば良いのか分からず‥そういう事が沢山あり、コミュニケーションも上手く出来ませんでした。
最後に健常者として働いた介護施設で、自分の性格と向き合うようになっていました。
その頃には、“何でこんなに苦しいんだろう”
“何でこんなに生きずらいんだろう”
と思うようになり、自分で自分が苦しくなりました。身体中に原因不明な発疹が出たり、急なシフト変更や自分の不出来が目立つ事。誰に相談すれば良いかわからない‥自分と同じような感覚の人が周りにいない‥
このような環境にい続けると思うと、急に怖くなってしまいました。
「適応障がい(うつ状態)」の診断で、休職から退職する旨を伝える為、会社へ。
最後の上司の言葉が、私にとって残酷なものでした。
確かに私も悪いところがあったかと思いますが、最後の言葉が “貴方みたいな人は一生どこに行っても通用しない”
でした。
言葉をそのまま受けとってしまう私は、当時凄く残酷な言葉でした。
と‥ここまで、私の辿ってきた運命の道のりでしたが、とっても重い内容になってしまいました。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます。次回は障がいと診断された時の気持ち等、今の心境を書いていこうと思います!



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