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レイアウト:第一話【恋愛小説部門応募/連作短編】

【あらすじ】
 小説家を目指す美織は、"元カレ"瀬川が受賞した絵画を、"今カレ"である陸人と観に来ていた。瀬川と付き合っていた頃、まだ殆ど白かったそのキャンバスには、当時の予定とは全く違う作品が完成している。
 美織と瀬川はお互いを自身の"片割れ"だと感じていた。何もかも、寸分違わず自分と同じ存在。唯一無二で、だから二人で居れば大丈夫。当時はそう信じて疑わなかった。    
 そんな二人が別れ、瀬川とは真逆の雰囲気の陸人と付き合いだした美織だったが、瀬川の作品に触れ、過去の失恋に向き合うことになる……
 美織と陸人のPrequel『ガトーショコラ』との連作短編。(全篇計:約2万2千字)

【レイアウト】第一話
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 もう何時間もその画面上の文字数は増えていない。

 白井美織しらいみおりは、その明るくて白い画面を見限ると、ため息交じりに画面上のバツ印を押した。
 昨日までは調子良く描けていた様な気がする。でも今日になってみたら、美織の頭の中で色鮮やかに上映されていたはずの物語が、急に展開しなくなった。すると途端にそもそもこの物語の全てが、最初からどうも ありきたりでつまらないものに思えてしまった。

「何も、今日じゃなくても」

 一人きりの部屋で呟く声は、ごく小さくても何故か響く。
 吸い込まれた白紙の画面に変わって現れた、平面で奥行きのない満天の星空を眺め、美織はもう一度溜息を吐き出した。

「本当にどこまでも、私たちは合わなかったんだろうな」

 そう自分に言い聞かせることで美織はやっと、立ち上がって約束の場所へと向かうことができる。

 目の前には吸い込まれそうな空が広がっていた。自分の背丈よりも少し大きいキャンバスの前で、美織は思わず息をのむ。

 朝陽が差し込み僅かに白け始めた街並みの上には、淡いフラミンゴ色の朝焼け。その先にひろがる濃紺はその光に追いやられ、夜の痕を残しつつも その色はもう薄らいでいる。その絵に込められた感情がどんなものなのか、美織には手に取るようにわかっていた。

 あの頃 夢にまで見ていた賞を彼が受賞した。というニュースの中で、美織は初めてその絵が完成したことを知った。
 画面越しにその受賞作を見た時には、今よりも穏やかにその受賞を喜ぶことが出来ていたはず。それなのにいざ実物を目の前にすると、彼の作業場で嗅いだ油絵の具の匂いが鼻の奥に呼び起こされ、何だか居た堪れなくなってしまう。
 あの部屋にあった頃のそれは、まだ殆ど白いままのキャンバスだった。そこに少ずつ夜の色が描かれ始めた頃、美織は瀬川現せがわげんと別れた。あの時の色は幾重にも重なりあう絵の具の奥底に沈み、もう今は全く別の色に見える。
 思わず美織が視線を落とすと、その先の左の隅には小さくサインが入っていた。それは辛うじてその絵に溶け込むような色を使ってはいるものの、この作品には少々似つかわしくない。そのサインまでもがあの頃とは全くの別物で、それは“漢字”で記されていた。

「そっか……良かったね」

 懐古に潜り始めた美織の指先が伸び、そのサインに触れる寸前で止まる。
 “元カレ”が、成功を手にした。この事実に嫉妬を覚える。それが、元カレである瀬川の現在に対してのものなのか、それとも夢を叶えた他人に向ける羨望と同じものなのか。美織がただの女の子であったなら、元カレの成功を自身の成功の様に自慢できたのかもしれない。いや、でもその場合には、成功した時に自分が隣に居ないということに腹を立て、また別の感情が湧き上がってしまうのかもしれない。芸術に気圧された美織の中で、そんな予測が嫉妬に混じる。
 ふと我に返った美織は思わずその手を握り締め、手の平に爪の先が食い込んでゆく感触をひとりで味わっていた。

「……大丈夫?」

 気が付くと美織の隣にはいつの間にか温かい気配が立っている。美織はその顔色を確認するために少し顎を上げた。

陸人りくと、ごめん。大丈夫だよ」
「やっぱり……まだ早かったか?」
「それ、いったい何回目の確認?そもそも私がここに来たいって言ったんだし」
「そうだけどさ、美織が今にも泣きそうな顔してたから……」
「まあ、こんなの実物で見たら、結構みんな感動するでしょ?」
「確かに。ちょっと悔しいけど、圧巻だよな」
「悔しい?……なんで陸人が悔しいのよ?絵なんか描いたこともないくせに」
「ははっ、俺の絵はある意味芸術だしね?」
「ホント、ある意味ね」
「だからかな、悔しくなる。絵心のない俺には、美織と同じ様にこの絵を感じられない気がして」
「私だって、絵は別に得意じゃないよ?」
「でも美織は小説が書けるでしょ?あれだって、頭の中の世界を描き出してるじゃん。美織もそうやって、ゼロからイチを生み出せる人なんだよ。この人と一緒……」

 陸人はそう言いながら目の前の絵から視線を逸らした。

「まあ、簡単に言えば、美織の元カレに嫉妬してるだけなんで」

 気を取り直したような声色とは反対に、陸人の表情は陰っている気がする。

「嫉妬って……私は、ゲンのこと何とも思ってないよ。別れてから全く連絡も取ってないし、そもそも、あれからもう、二年も経ってる」
「……そういう嫉妬じゃないんだな。大丈夫、美織が俺のことを好きでいてくれてる自信もあるしね?」
「じゃあ……」
「なんか、俺じゃ永遠にわからない部分で、美織とこの人は通じ合うんだろうなあって思っただけ。なんか、湿っぽい。この話はもうやめにしない?」
「ごめん」
「んや、俺こそごめん。あっ、あっちにさ、美織が好きそうなオブジェが展示してあったよ。ほらっ、行こう?」
「そうだね」

 陸人が「ほいっ」と言いながら手を差し出すと、美織はその手を迷うことなく取る。直ぐに二人の指先は絡まって、その温度によって美織の心は少しだけ解れていくのだった。

*******

 瀬川の身長と同じ高さのキャンバスは、中々の広さを有するそのアトリエの中にあってもかなりの存在感を放っていた。しかしそれはまだ殆ど白いままで、思い出したような青が所々に塗られているだけ。その残りの白の中には、まだ何にも触れられていない場所さえあるように思えた。

「ねぇ、みお?これ……どう?」
「こっちの青に対してさ、その青の黄色味が強すぎる気がする」
「やっぱり?だよね……俺もそんな気がしてた」
「じゃあ、訊かなくてよかったじゃん」
「一応確認。だって、みおは俺のもう一つの視点だから」
「何それ?」
「俺とみおには全く同じ景色が見えてる。ってこと。みおもそう思うでしょ?」

 そう言った瀬川が美織をそっと抱きしめると、油絵の具の匂いが溢れる。昼も夜もないその部屋で過ごしていた三年のあいだ、美織と瀬川は何度もその境目を失くし、殆ど一つのものになっていた。
 人間社会の歯車の一部として生きていくには、説明書もないのに必要な事柄や、暗黙の了解が必要な事情が多すぎる。そして美織には、そんな人間社会で生き残るための何かが足りなかった。読まなければいけない空気や、その響き通りに捉えてはいけない言葉。そんなものが羅列するこの世界は生き難い。それは瀬川も一緒だった。

 そんな二人の目に映るこの世界の全ては、殆ど同じに違いなかった。

 時折、美織が感じる言い知れない虚しさ、それすらも瀬川は同じ様に感じている。身体はどんなに寄り添っていても、互いの足りなさが決して満たされることはない。それでも、二人で一緒に居れば、やっと一人分くらいにはなれる様な気がした。

 美織と瀬川の意見が合わずに、二人とも声を荒げて喧嘩をしたのは、瀬川が仕上げた絵に入れる自分のサインを「漢字で書く」と言い出した時。後にも先にもその一回だけだった。
 それまで瀬川はどんな作品にも白い文字で『gen.segawa』と記していた。彼にはまだ、その名を聞いた人がすぐに思い浮かべられるような作品も無かったし、代表作と呼べるものだって世に残せていない。未だその程度の画家である彼が、自身を証明するための印を変えるという行為を、どうしても美織は許したくなかった。
 結局、この仲違いは美織の説得によって収束し、この時瀬川のサインは変わらなかった。
 今になって思い返してみれば、これが二人のあいだに起こった歪みの一番端っこだったのかもしれない。でもその時は、そんな仲違いによって 二人のあいだの僅かなズレは整えられ、風さえ通り抜けられない程完璧で、完全に一緒になるのだと、それが二人にとっての最良であると 美織も瀬川も信じて疑うことをしなかった。

 ただ、否応なく流れて行く時の中で漂うあいだに、二人はあまりにも似すぎてしまった。それはオセロの駒の表と裏が白と黒であるのと同じ様な、表と裏。別れてしまえば役に立たず、かといって混ざり合えば灰色になって、その存在の意味すら成さない。同じものであるはずなのに、背中合わせでいるせいで、互いがみえなくなっていた。
 二人でやっと一人分のような彼等はすれ違うことさえ難しく、一人分では満たされない部分を自分達以外に求めてしまうのは必然だった。瀬川の吐く小さな嘘も、それに至るまでの感情でさえも、美織には容易に理解することが出来たし、それを咎めるつもりもなかった、はずだった。

* 

「また、描き直せだってさ」
「え?だって……でもまあ、手を加えれば加えただけ良くなることもあるとは思うけど……どんな風に直せって?」
「……これ」
「なにこれ?ここを赤になんかしたら、この絵の主題はどうなるの?ゲンだって、そこは直す必要はないって思うんでしょ?」
「これは依頼されたものだから……直すよ」
「それじゃあ、これはゲンの絵じゃなくなっちゃう。そこまでして応える必要なんてない。もう、この依頼は断っちゃえばいいじゃん」
「そういうわけにはいかないよ。いいんだ、大丈夫」

 瀬川の絵は徐々に売れ始めていたが、画家だけで食べていく為には、依頼に沿った絵を描かなければならなかった。依頼主に加え、間に入った会社からの“いちゃもん”まで受け入れてから、その作品はようやく仕上がりを迎える。    
 そうして出来上がった『gen.segawa』の絵は、美織にしてみれば彼の作品どころか、彼の絵ですらなかったし、瀬川にとっても、自分の作品という認識は薄かった。

「大丈夫じゃない。ゲンだっていつも言ってたじゃん。人間なんて、手の平を返す生き物だって。そうでしょ?だから世に出られるまで自分を信じて続けてれば、いま描いてる作品だって評価してもらえる時が来るんだよ。なのにゲンは、どうして自分らしくないものを創るの?そんなの、違うじゃん」
「大丈夫、わかってるって。だから……大丈夫」

 美織のそんな主張が、瀬川にとっての救いだった。何があっても美織だけは自分の全てを同じ様に理解してくれる。写し鏡が映す“うわべ”だけではなく、自分では見ることが出来ないほどの深層に沈んだ感情でさえも美織には気付いてもらえるのだ。

 だから「大丈夫」なのだと。

 瀬川はそう自分に言い聞かせると、何時ものように美織を抱き寄せる。肩で息をする美織が徐々に穏やかな呼吸に戻る。二人の鼓動は殆ど同じようなリズムを奏で、やがて ひとつ のものになった。

「ゲン……ぜったい無理は……しないで」
「わかってる。ごめんね、みお……大丈夫だから」

 その頃、あのキャンバスには深い夜が落ちはじめ、そこには満天に星空が広がってゆく予定だった。
 しかし、瀬川が「大丈夫」と言いながら美織を抱きしめたその時から、キャンバスには星どころか油絵の具の一粒さえ落ちずに、その夜はもう、それ以上増えてゆくことはなかった。

 瀬川が古見凜華ふるみりんかに出逢ったのは、それから間もなくのことだった。
 二人の出逢いは決してドラマティックなんかじゃなかった。瀬川の請けた数ある仕事の中のひとつに凜華が少し関係していた。ただそれだけ。

 始まりはそんな、ありきたりでつまらないものだった。

 美織とは対照的に、凜華は瀬川の気持ちなどを推し量ることもなければ、もちろんその感情の裏までを読み解くなんてこともしない。彼女は自分が感じたことのそのまま全てを口に出してしまう様な、そんな女性だった。

「瀬川さん、大丈夫ですって。この作品って今が最高なんですよ。だから手が止まるんです。もういいですよ。これで完成にしましょ?」
「そうですよね、あと三日で納期だというのに……申し訳ない」
「だからぁ……確かに、うちの要望とは違った雰囲気のままですけど、これはこれで ありですし。というか、むしろこの方が良いと思います!ってことですよ?」
「……いや、そう言われても。テーマだけを重視してしまった僕が悪いですし、そちらの要望に沿えていないのは明白なわけで……ああ、でも納期が……うーん、お待たせしてしまうかもしれませんが、やはりクライアントの意向を反映させないものを完成した作品とするわけには……」
「いや、待つのは構わないんですよ?スケジュールに関しては 最初にお伝えした通り、ちゃんと余裕を持たせてますから。でも……そうですね、うちとしても そうやってご対応頂ける事は本当に有難いんですけど……ぶっちゃけ、瀬川さん的にはどう思ってます?」
「えっ?……どう、とは?」
「センスですよ、センス。所属してる身としても恥ずかしいんですけど、ぶっちゃけ、センス悪くないですか?うちの会社」
「っは?」
「だから、なんかいつも偉そうに修正をお願いしてますけど、わたし的には逆に直さないで欲しかったりするんですよね……っあ、勿論、イマイチな作家さんにはきちんと要望に従っていただきますよ?でも、瀬川さんは違うんです」
「……?」
「ちょっといい機会なんで語らせてもらっても良いですか?」
「は、はい……どうぞ」
「ありがとうございます。じゃあ、遠慮なく言わせてもらいますけど、瀬川さんって、画家っぽくないんですよ。クライアントの意向と作家さんの間を取り持つのがうちの会社の仕事なのにあれですけど、瀬川さんはうちの会社通す必要ないんじゃないかな?って思っちゃいます。だって叩き台の時点では瀬川さんらしい作品なのに、うちが入った途端に急になんか、こう……悪い方に変わっちゃうっていうか。こっちの要望をなんもかんも取り入れてくれちゃうからですかね?受け身になってしまわれるので、瀬川さんらしさが損なわれちゃうんですよ。それ、以前からもったいないと思ってたんです。もっと自分の作品に自信持ったら良いんじゃないんですか?」
「でも、特に大きな賞も何も受賞してないですし。アマチュアに毛が生えた程度の僕が……こんな風にご依頼頂けるだけで有難いんで」
「もうっ!そういうところですって。クライアントもうちも『gen.segawa』の作品だから依頼してるんです。だからむしろ、瀬川さんはおっきな顔して自分の要望を言ってくれないと困るんですよね。瀬川さんがそうやっていつもホイホイ言いなりになるから、センスの欠片も無いうちの会社の意見が反映されちゃうんじゃないですか。直の上司なんて特に、センスも何も皆無のくせに偉そうに毎回……っほんと、ムカつく……あっ!」
「ふふふ……」
「ごめんなさい。最後はただの愚痴になっちゃいました」
「いえ、なんか ありがとうございます」
「そうですか?私の気持ちちゃんと伝わってます?」
「はい。ちょっと自信がつきました」
「あー、ダメだ。これ、きっと私の気持ちの1パーセントも伝わってないやつですね」
「くくっ……そうなんですか?」
「そうですよ。これは、もっともっと語らせて頂く必要がありそうです」
「これ以上ですか?」
「もちろん。覚悟しておいてください?」

 凜華は悪戯を企む子供の様な笑みを浮かべ、それにつられるように瀬川の表情も緩む。
 瀬川は、凜華のように自分の意見をはっきりと主張してくる人間が苦手なはずだった。それなのに凜華と話していると、不思議と心地よく 何かから解放されていくような気分になる。

 でも彼女のことをそうやって好ましく感じるのは、その主張が美織のそれとよく似ていたからで、彼女自身の明け透けな物言いに心が動いたわけではない。 
 何よりも、美織は自分のことを自分以上に理解してくれているし、そんな存在はきっと唯一無二で、貴重で、だから、互いに支え合っていないと、自分達は上手く生きていくことができないんだ。

 誰に聞かれたわけでもないのに、瀬川は何故だか自分自身にそんなことを言い聞かせていた。

*******
《続く…》

#創作大賞2023 #恋愛小説部門

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