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第4章 さよなら

気が付いたら朝になっていた。カーテンから差し込む朝日は僕を優しく起こした。どうやら眠っていたらしい。夢を見なかった日は久々な気がする。ベッドから降りると机の上に置かれた様々な酒の空き缶が目に付く。僕は昨日これだけの酒を飲んで死んだように眠っていたのか。携帯で時刻を確認すると1限の時刻をとっくに過ぎてしまっていた。大崎からもメッセージがきていた。 
“1限休んでいるけど平気?” 
僕はそれに寝坊してしまった、と返信すると 
“なんだ~無駄に心配した。今日学校来るよね、食堂のカフェで待ってるから” 
笑った猫のスタンプとともに返信が来た。軋むような頭の痛みの中でも、大崎は僕に安心感を与えてくれる。いやな汗と涙とで濡れたTシャツを脱いで僕は冷たいシャワーを浴びた。前髪から垂れていく冷たい水を眺めながら僕は誰を想うのだろう。 

 昼前に食堂棟のカフェに着くと大崎はすぐに僕を見つけて手を振る。僕はそれに小さく返して大崎の前に座る。 
「おまたせ」 
そういう僕に大崎は 
「ううん、あたしも今来たところ」 
 二人で昼食をとって様々な話をした。僕はホットドッグを、大崎はミートソーススパゲッティを食べていた。今日のホットドッグはやけに味が濃かった。きっと、上にかかっているチリソースが濃いのだと思う。それに対しておいしそうに食べる大崎を僕はうらやましく思えた。明るめの茶髪を耳にかけてから食べる彼女はまるで僕にピアスを見せつけるように、しかしどこか上品に麺を啜っていた。僕はそれを眺めながら、一緒に注文したアイスコーヒーを一口飲む。大崎は口に入れたものを飲み込んでから僕に色々な話をしてくれた。同じ学部の女の子に最近彼氏ができたこと、友達と今度テーマパークに行くこと、家の近くの神社の桜がきれいだったこと。僕にとってはどれもたわいも無い話だったが、夢の女を忘れられる貴重な時間だった。時計を確認するともう次の講義が始まろうとしていた。片付けを進める僕に大崎は 
「今日一緒に帰ろうよ、正門前で待ってる」 
僕はわかった、と次の学部棟に向かった。 

 大崎と過ごす時間が長くなるにつれて夢の女のことを考える時間は短くなっていった。大崎は僕に現実を与えてくれた。講義の最中も僕は今までとは違い、ちゃんとノートをとれるようになったし、定期的に出されるレポートの点数も着実に上がっていった。いつも隣にいるはずの大崎がいない長机は普段よりも大きく感じるようにもなった。 

 ポールスミスのトートバッグに荷物をまとめて僕は飲みかけの缶コーヒーを携えて正門に向かう。途中、喫煙所に寄ってマルボロに火をつけた。苔の生えかかる柱を背にして噴水を見ると、そこに大崎の姿が見えた。暖かい陽気の中で、正門まで続く木々を背景にして噴水の淵に座る大崎は僕が思っているよりもずっと細く、風になびく彼女のTシャツはそれを主張していた。それでいて元陸上部とは想像がつかないほど色は白く、携帯を眺める彼女の表情は瞳は細かい水飛沫の中でもしっかりと輝きを孕んでいた。それを隠すように垂れる髪の、その間から露になった耳は昨日とは違うピアスがあることに僕は気付く。吸いかけの煙草を消して、少しだけ残った缶コーヒーを飲み切る。噴水へと向かう足取りは軽かった。 
 僕を見つけた大崎はすぐに笑顔になってイヤフォンを外しながら 
「もう、また煙草吸ったでしょ」 
僕はうん、と答えてそれに不満そうな彼女の顔をみて笑った。 

 僕と大崎のいつもの帰り道はたわいもない話をして過ぎ去っていく。今はほとんど散ってしまった桜も、几帳面に並べられた歩道のタイルも、段々と夏の暑さを増していく陽気も、何でもないような日々が大崎と過ごしていくとすべてが生き生きとしているように見えた。天文サークルの先輩が面白いという。今年は海と、水族館と、プラネタリウムに行きたいという。 
「僕でよければ」 
大崎は笑ってくれた。 

公園前の十字路に差し掛かった時に 
「今日はあたしが送ってあげるよ」 
遠慮するが大崎は引かないので僕は素直に甘えることにした。僕はそれと 
「その前に煙草吸ってもいい?」 
不満そうな大崎は渋々首を縦に振った。 

 いつものベンチでいつもの煙草を吸う。吐き出す煙は孤独に立っている街灯を隠すように、あの日の夢をかき消していくように消えていく。隣には大崎が座っていて、通り過ぎる電車にあの女はいない。僕たちは現実に生きていて、僕は今まで夢を見ていた。そんな当たり前なことが、僕にとっては特別に思えた。今でもこのベンチに座って、レールを軋ませる音がすると動悸がする。あの女がいるんじゃないかと思う。どこからか僕のことをじっと見ていて、いつもその右手には包丁を握っているように思える。それを想像するたびに大崎のことを心配し、その度に馬鹿馬鹿しくなった。しかし、そう思うたびに悲しくなるのも僕だった。 
「そろそろ帰ろうか」 
吸い終わったタバコを携帯灰皿に入れて僕はそう言った。大崎はうん、と短く頷いて僕たちは公園を後にした。 
「夕飯作ってあげようか?」 
彼女はいつも不意だった。そして、どこかいたずらを企む子供のようでもあった。

 僕と大崎は駅前のスーパーに立ち寄った。色とりどりの野菜や、ピンク色に輝く肉を横目に大崎は携帯と睨めっこをしていた。
「ニンジンと、ジャガイモと…」
大崎は左手に携帯を持ったまま呟いた野菜を僕が持つカゴにぽいぽいと入れていった。クリームシチューを作ってくれるらしい。 
「牛乳はうちにあるよ」
牛乳パックを取りかけている彼女を制止するように僕は言った。

 会計を済ませて二人帰路に就く。僕は野菜や飲み物が入っている袋。大崎はお菓子を入れた袋を持っていた。食べ終わったらお酒を飲む気らしい。僕が特に止めることもしなかったので、飲み物やお菓子がクリームシチューの材料よりも多くなった。空を見上げると星が綺麗に輝いていた。
「東京でもこんなに星が見えるだなんて知らなかったなあ」
遠くに見えるオリオン座を眺めながら彼女は言った。
「最近だとベテルギウスが減光しているらしいよ。近いうちに無くなっちゃうかもね」
そういうと大崎はひどく驚いた。しばらく彼女なりに考えて、「でも」と続けた。
「今まさにベテルギウスが無くなっていても、地球がにいる私たちに確認できるのはそれのずっと後ってことだよね。なんだか不思議」
僕は宇宙のスケールの大きい話は苦手だった。
「今、本当はないけれど、私たちにはその光が確かに見えているんだもの。本当は存在しないのに、私たちには見えている。見えているだけでそれを信じてしまうんだから人間って面白いよ」
静かにくっくっと大崎は笑った。決まった……。と達成感に浸っている彼女は、あまり深く考えてこれを言ったわけではないだろうが、僕には応えた。実際には存在してさえいないのに、信じてしまう人間の”面白さ”によって苦しめられているのは紛れもなく僕だった。ただ
「僕もそう思うよ」
こう言うことが精一杯だった。

 駅前のスーパーから5分ほど歩くと僕のアパートが見える。木造で、築年数も経ってはいるが、入居する前にリノベーションされていて、周りの一軒家と比べるのと見た目から小綺麗になっていた。階段を上がって自室の206号室にトートバックから出した鍵を挿し込む。大崎は物珍しそうに辺りをキョロキョロとしていた。鍵を回すと解錠された音がした。ドアを開くと最初に1口コンロのキッチンが左手にあり、正対してユニットバスへと続く扉がある。しかし今は明かりも点いておらず、そのどれもが確認できないでいた。

 僕と大崎はお互いの手に提げたレジ袋を玄関に着くと同時に落とすように置いた。中には酒や、菓子といったものが多く入っていたが、置いた拍子に割れてしまう心配よりももっと近くでもっと大事なものにお互いの意識は向かっていた。大崎の黒目がちの大きな目とまだあどけなさの残る少しのソバカス、そして薄くも色のついた唇。そのどれもが今までどの瞬間よりも近くにあることに気がついたからだ。僕はほとんど意識しないで大崎と唇を重ねた。軽く、そして長く。吐息が僕の頬にかかる。そしてそれと同時に僕の中で渦巻いていた、吐き出してしまいたい感情が喉のすぐそこにまであることを確かめた。ゴクリ、それを押し込むように唾を飲んだ。音が大崎に届いたかどうかはわからない。そして空っぽになった口内は自然と大崎で埋まった。唇の柔らかさと歯の硬さとぬめった舌と、大崎の味と香り。僕たちは静かに目を瞑る。呼吸が、体温が、大崎の全てを感じて自然と昂ぶる自分に抗えずにいると。
「ねえ」
そう弱々しく呟く大崎の目はいつも以上に潤んでいた。大崎は履いていた靴を足を振って脱いだ。ぱたんとスニーカーの落ちる音が聞こえた。大崎は僕の首へとその白く細い腕を回し、僕はそれに応えるように二の腕に軽くキスをする。そのまま僕は大崎を抱えるように腰へ腕を回す。大崎の腰は洋服の上からでも十分に分かるくらいに簡単に壊れてしまいそうなほど薄かった。僕はそのまま部屋のドアを開け、月光に照らされたベッドに倒れ込む。今朝起きてそのままのベッドだったが、僕は冷静でいられなかった。僕は仰向けになっている彼女に馬乗りになり、もう一度唇を重ねる。白いシャツのボタンを一つずつ外していると
「するの?」
彼女から出た何かに怯えているようにも聞こえた。でも、僕はその質問に答えることはなかった。

 すっかりぬるくなった酒缶をベッドに並んで座りながら二人で飲んだ。大崎は下戸らしく、一缶の半分も飲まないうちに随分と顔と首元が赤くなった。するとタオルケットに包まった彼女は僕の肩にもたれてくる。
「なんか、ここ安心する」
暗闇の中、深夜の通販番組に照らされながら大崎は言う。
「僕のでよかったらどうぞ」
「やっぱり優しいんだね」
僕は酒缶をガラステーブルの上に置いてベッドにゆっくり倒れる。
「なに? 照れてんの?」
大崎も持っていた缶をテーブルに置いてにやにやしながら僕に馬乗りになる。するとちょうど乗られている僕の臍の下あたりがなんだか湿っている気がした。
「まだ濡れてんだ?」
僕がそう聞くと恥ずかしそうに
「うるさいな」
「なに? 照れてんの?」
その時の僕は多分いたずらを企む子供のような表情をしていたと思う。

 大崎は僕の全てを受け入れてくれたし、僕も大崎の全てを受け入れようと思えた。それは自然なことで、お互いにそれを求めて、お互いにそれの与え方を知っていた。僕が求めることで、線の細い大崎を傷つけてしまうんじゃないかと思うのは彼女が僕の腕の中で寝息を立ててからだった。僕は眠る大崎にキスをする。すると大崎は鼻を掻く。それを見て僕は笑ってしまい、大崎は何事かと起きてしまう。そんな夜。この時間が永遠に続くと僕は本気でそう思っていた。

 朝、目が覚めると大崎が下着を探していた。
「ねえ、どこやったの」
あった、と次にはそう呟いて白い下着に腕を通した。カーテンから漏れる陽光が大崎の茶髪を透かして、一本一本がキラキラして見えた。彼女は背中のホックをはめながら
「なに見てんの」
少し不機嫌そうにそう言った。僕はまだ夢から覚めていないように思えたし、この夢だったら毎日見てもいいかなと思えた。少なくとも今までの夢よりはこの景色の方が僕にとっては美しく思える。

 大崎は身支度を整えると今日は午後から予定があるらしく帰ると言う。僕は送るよ、と声をかけたのだけれど家が割とすぐそこだからと言って断られた。玄関でスニーカーの紐を結ぶ彼女を僕は上から見下ろしていると
「ん」
大崎は目を瞑って唇を尖らせた。僕はそれに大崎の輪郭と首とを両手でなぞりながらキスをした。長いことしたと思う。幾度もしたこのキスも、一回一回が特別に思えた。離れたのは大崎からだった。満足そうな表情で
「バイバイ」
と短く言って出て行ってしまった。部屋に戻り、ベッドを見ると枕元に細い茶髪が落ちている。僕はそれを眺めながら昨日のことを思い出す。僕は昨日ここで大崎美穂とセックスをした。汗と体液で湿っているシーツも、机の下に落ちている昨日着ていたシャツも、その事実を裏付けるかのように存在を主張していた。僕はそのままシャワーを浴びる。今までの夢とあの女を洗い流すようにゆっくりと時間をかけてシャワーを浴びた。日差しはすでに真上ほどに上がっていた。

 その日は自分のために1日を使った。今まで読もうとして積んであっただけの本を片っ端から読む。濡れたままの髪で窓辺に座りながらページをめくる。シュードマンの「lips」だ。日差しの色が変わったことで僕は時間が経ったことを知る。あれから3時間も経っていた。昨日大崎と買った食材を使ってサンドウィッチを作って僕は窓辺に座りながらそれを齧る。渇く口内を熱いコーヒーで流し込む。僕の窓から見えるのは駐車場しかなかったけれど、その先の道路を行き交う人々を眺めているのは僕は一人でないことを示してくれていた。僕は一人ではない。それをもう一度強く感じた。
 
「ねえ、あの女は誰なの?」
僕は真っ黒の長い髪をした女に頰を撫でられながらそう問われた。
「大崎美穂、というんだ。同じ大学の友達なんだ」
「へえ」
僕は女の声を初めて聞いたかもしれない。僕の頬を撫でるその人はゆっくりと手を離して、遠くの真白の霞の中のどこかに消えて行く。僕はそれを見送る。もう、追わない。僕が望むのはそれだけだったし、それ以上もし願ってしまうのは僕はまた孤独になってしまうとふとその時感じたからだった。

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