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第2章 出会い

ぬめったように輝く黒髪が、僕の指からするすると流れ落ちていく。ぱさり、と抜けきった髪は僕の頬を鞭打つように叩いた。それがくすぐったくて僕は笑ってしまう。それにつられて僕に覆いかぶさっている女も笑う。肩が揺れる度に黒髪が波打って僕をくすぐる。何かの花の香りが辺りを包み、もう一度僕はこの人の髪で遊ぼうとする。下から掻き上げた真黒な髪は僕が伸ばした腕より長く、毛先に向かうにつれてだんだんと緩いカーブを描いて垂れ、美しい艶と瑞々しいハリをありありと僕に見せつけていた。僕は彼女のこの髪が好きだった。僕が彼女と繋がりながら髪を梳かして、笑い合うこの時間が好きだった。この時間が永遠に続けばいいのに。夢なんか覚めなければいいのに。僕は本気でそう思っていた。
 
 朝、僕は昨日と同じように大切な何かを失ったような喪失感を抱えて目が覚める。鼻腔にはまだあの花の香りが残っていた。指にはシルクのようなあの髪の感触が残っていた。まるでついさっきまで隣にいたように思える。僕は夢の女性に恋をしていた。 

トーストも、温めた牛乳も、マーマレードの味も、アナウンサーが読み上げるニュースも、なにもかもわからなかった。 
その日も僕はいつもの公園でいつものマルボロを吸う。煙草の臭いで消えるはずの花の香りはいつまでも残り続けた。それを消そうと僕は何本も煙草に火をつける。消えない香りは僕にいつまでも付きまとい、その度に髪の感触とそれのくすぐったさを思い出させた。忘れたいわけではないけれど、彼女が僕にとって非常に大きな存在になっているのは明らかだった。 

どこからかヒラヒラと舞ってきた桜の花びらに向けて煙を吹きかけ、夏を帯び始めた風に運ばれていくのを眺めていると、視界の端で電車が横切っていくのが見えた。時計に目をやるともう公園を出なくてはならない時刻だった。 
桜も散り始め、ピンク色の絨毯も黒ずんできた日の昼は、日差しを確かに感じられるようになっていた。まだ汗かくほどではないが、重たいコートを着なくなる、そんな季節。 

 大学に着いてF8棟に入ると明るい色の洋服を着ている人が目立つようになってきたことに気が付く。教室に入り、誰からも遠い長机に座る。紙とペンを取り出し、夢が消えないうちに、ーーー消えることなんてないけれどーーー夢の女性をスケッチしようと思った。しかし、ペンは一向に動かなかった。どんな顔も違う。自分が今まで会ってきた誰とも違う。しかし確かに美しいその女性を、僕は髪の一本でさえ書くことができなかった。辺りはどこからか漂う花の香りに支配されていた。

講義もいくらか過ぎた頃、途中で誰かが遅れて入ってきた。その女は唯一空いていた僕の長机の隣に座った。 
「すみません、今やっているところって何ページですか?」 
僕はそれに答える。その女は短く、しかし人当りよくお礼を言って教科書を手繰り始めた。隣の女をよく見ると昨日登校している途中に会った女だ。掻き上げた茶色の髪からは肉厚の耳を飾るシルバーのピアスが見えた。
 
講義が終わり、茶髪の女はそそくさとすぐに教室を出て行ってしまった。僕は昼食を食べに学食へ向かう。学生の往来が多いメイン通りを過ぎて学食に到着した。この大学は学食が一つの棟になっており、寿司からイタリアンまで様々な食事を楽しめる。しかも学生向けとあって料金は500円前後と良心的だ。僕はその中でいつも利用しているカフェに入った。ナポリタンの食券を買って列でお盆を抱えながら待っていると、賑やかなカフェの中で茶髪の女が見えた。友人と楽しそうに昼食をとっていたが、ちょうど同じタイミングで僕に気づいた。お互いに会釈をすると、彼女は周りの友人は僕の顔をジロジロ見た後に色々訊かれているようだった。
 
窓際の席がちょうど空いて、僕はそこでナポリタンを食べる。食べながら窓の向こうの景色を眺める。春はもう消えてしまいそうに太陽は輝いていて、風が木々を揺らすたびに、桜の花びらはどこか遠くに消えていく。一体いつから僕は夢を見始めて、いつから僕はあの女に恋をしたのだろう。いつの間にかあの女は僕の夢に居座るようになって、僕は彼女に毎晩会いに行く。確かに眠っているはずなのに日中は頭はぼうっとしていて、講義の間もペンが止まってしまうこともある。煙草の煙を眺めるたび、頭に浮かぶのは決まってそのことだ。 

僕はナポリタンを半分も残して大学の喫煙所に向かう。メイン通りを通って噴水をそのまま通り過ぎると喫煙所がある。その途中の自販機で、安っぽい味の缶コーヒーを買い、マルボロに火をつけた。僕の他に何人かいたけれど、どいつもこいつもまるで夢を見ているかのような、現実には僕しかいないような、そんな錯覚を覚えた。

午後の最後の講義も面白いくらいに退屈だった。教授が何か喋ってはいるが、まるで日本語を理解できない。気が付けば昼食後の眠気が襲ってきた。抗えない瞼の重さに僕はいつしか眠ってしまった。 
 
 女がいた。彼女の胸まである長い髪は、毛先まで美しい艶を持っていた。僕はその髪にまた触れたいと思う。指で梳かしたいと思う。しかし、僕と女の間には2メートルばかりの距離があり、僕はなぜか足が動かなかった。手を伸ばしても届かない。女は僕を見るだけで何も喋らない、何も動かない。胸を締め上げるような耐え難い痛みが僕を襲った。まるでこれが会うのが最後であるみたいに、まるでこれが永遠の別れであるかのように。なぜだかわからないけれど、そう思えた。今にも泣きだしてしまいそうな僕に彼女は何か話しかける。しかし声が小さすぎて何て言っているかわからない。僕は近付こうと思う。足は動かない。彼女の口元が動き、僕はそれを聞き取れない。焦り、不安、そして恍惚。様々な感情が感情を塗りつぶしあって、あふれ出てくる涙は一体どこから来たのかわからない。僕は—————。 

「広瀬くん」 

そのいかにもな老人は僕の名を呼んだ。いやな汗をぐっしょりとかいていた。僕は返事をして、返却されたレポート受け取った、席に戻るまでの間にふと茶髪の女と目が合った。小さく手を振る彼女に僕は会釈で返事をした。そんな中でも、僕は夢の中のあの人が一体何を伝えたかったのかが気になっていた。 

講義が終了し教室を出る。メイン通りの生協に併設されているコンビニに寄ってアイスコーヒーを買った。ストローを刺したそれを啜りながら正門に向かう。通りは帰りの学生で混み合っており、僕は誰かに当たってコーヒーをこぼしてしまわないように少し距離をとって、大きな流れを乱さないように歩く。普段よりゆっくり歩くことは同時に時間も遅くなった気がした。正門を出ると駅に向かう人たちと、歩いて帰る人たちとで別れた。大学が徒歩圏内にある人は少なくない。僕は目の前を歩いて帰る人たちの流れに身を任せた。歩いているうちにだんだんとお互いの距離が遠くなったり、近くなったりする。そんな中で僕はただぼうっとしていると 
「あ」 
とか聞こえた気がしたので振り返ってみると、今朝遅刻してきた茶髪の女だった。 
「今日はありがとうございました」 
「いえいえ、僕は特に何も…」
そんな教科書のページを教えてここまで律儀にされるとは思わなかった。それに僕は特に理由もないけれど早く帰りたかった。 
「帰り道はこっち?」 
茶髪の女は細い指でちょうど公園の方向を指していた。
「うん、そうだよ」
僕は本当のことを言った。
「私、大崎美穂っていうの。よろしくね」
「僕は広瀬浩一。よろしく」
大崎は随分と喋るのが好きな女だった。新潟県出身で、東京に住んでみたくてこの大学を選んだ。サークルは今は悩み中。もしよかったら広瀬くんも一緒にやらない? そういえばこの間言った駅前のカフェすごく素敵だった。アンティークっていうかヴィンテージっていうか、そういうの好きなんだ。あ、自分の話ばかりしてごめんね、男の子と話すの久しぶりで。高校はほとんど女子校みたいなかんじだったから。

大崎は周りよりも少し身長が高くて、大体僕と同じくらいだった。白いシャツにジーンズ。古着のような、しっかりした生地のオーバーサイズ気味のそれは大崎の華奢さを余計に際立たせているようだった。そんな時
「広瀬くんって普段何して過ごしているの?」 
なんの変哲もない質問のはずなのにドキリとした。夢を見るために寝て現実の世界に起きると絶望する僕の心を見え透いているような質問と、大崎がいつの間にか俯いていた僕の顔を覗き込んでいたからだ。陰になった黒目がちの目は深淵のようにどこまでも深い気がして、僕はそれに溺れてしまいそうだった。 
「寝てるかなあ、いつも」 
「ふうん」 
大崎は前を向き直して、垂れてしまった髪を耳に掛け直した。日差しに当たって輝くピアスも、普段と違って見えた。
大崎は顎に左手を当てて考え込んだ。その時、シャツの袖が重力に引っ張られてするりと落ちた。露わになった腕は今にも折れてしまいそうなほど細く、そして曇りを知らないような白だった。向こうから照らす陽光が彼女の整った輪郭を際立たせる。僕はいつまでも眺めていたいと思えた。 
「どんな夢を見るの?」 
大崎はそう尋ねた。僕は言葉に詰まった。毎晩夢の女に会いにいくなんて、ほぼ初対面の人に言えるわけがなかった。 
「同じ人がいつも出てくるんだ」 
そう答えるのが精いっぱいだった。 
「ああ、そういう人ってなんだか気になっちゃうよね」 
本当に見透かされてる気がしてきた。 
「なんか笑っちゃうけど、私昔ね、夢で会った人のこと好きになっちゃったことあって」 
小学生の頃なんだけど、毎日その人と海辺でデートをする夢見てて、すっごく素敵で顔立ちも整っている人なんだけれど、今になっては全然思い出せないなあ。あ、夢であった人に恋するなんてバカみたいだよね。自分でも笑っちゃうなあ。

多分、君が思っているほどきれいなものじゃない、僕は喉まで上がってきたそれを飲み込む。 
それからたわいの無い会話をしながらしばらく一緒に歩いていると、いつもの煙草を吸う公園の前の十字路まで来た。横断歩道を渡った先が公園で、大崎はここを右に曲がった先の坂を上がって角を入った所にあるアパートで一人暮らしをしているらしい。僕たちはお互いに連絡先を交換して別れた。その時大崎は今度教科書を見せてもらったお礼をさせてほしいと言った。僕は大したことなんてしてないと断ったのだが、どうしてもと言って引かない少し頑固な人だった。 

 横断歩道を渡って、階段を上がる途中でいつものマルボロを取り出す。その時、向かいの坂道を振り返ると、ちょうど彼女もこちらに振り向いて手を振っていた。それは大学の時とは違い、大きく、こっちが恥ずかしくなるような無邪気さを僕に思わせた。咥えかけの煙草を外して僕も手を振る。彼女はそのあと角を曲がって見えなくなった。僕は上着のポケットからライターを探す。煙草を咥え直しながら夢の女があの時なんて言おうとしていたのか思い、大崎の言ったことを考える。頭は昨日の安いウイスキーのせいで鉛を詰められたみたいに重く、首は軋んで痛かった。煙草に火をつけて揺らめく煙をぼんやりと眺めていると、マルボロの香りの中に花の匂いがした気がした。だけれど、それもまだ春を捨てきれない冷たい風が排気ガスの臭いと運んでいく。ぱさり、とほとんど吸っていない煙草が灰になって落ちた。僕はただ気づけず、腿の上に落ちたそれをそのままに、しばらくベンチに座ったままでいた。向こうのフェンスを越えた先で電車が走る。僕を照らすと思った時、とっくに夕日は落ちていた。

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