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第6章 別れ

あの晩のことは忘れない。嵐の前の夜だった。立て付けの悪い窓がガタガタと鳴り、遠くでは雷が轟く。そんな夜だった。僕はウイスキーを舐めながらレーズンチョコレートを食べていた。大崎と連絡がつかなくなって1ヶ月が経とうとしていた。僕はあれからというもの、ただ大学へ行き、いつの日か大崎が長机の隣に舞い降りてくれるんじゃないかと思っていたけれど現れることはなかった。鼻腔を抜けるウイスキーの香りに支配されながら、鳴らない携帯を眺める。なぜか感じる喪失感からか涙が溢れそうになる。自分から手放したはずなのに、なぜが誰かに取り上げられてしまったような気がする。一体どうしたらいいのだろうか。この感情が苛立ちなのか悲しみなのか僕にはわからないままで時間はただただ過ぎていった。

 嵐が近くなる。窓を叩く雨粒が段々と大きくなるのを耳で感じる。すっかり氷が溶けて薄くなってしまったウイスキーと、触れれば手についてしまうくらい柔くなったレーズンチョコレートと、僕。瞬間、閉めたカーテンの隙間から閃光が走る。思わず目を瞑ってしまいそうなくらいだった。そう感じた次には部屋は闇に包まれた。停電。真っ暗な部屋で確かにあるのは握ったままの結露したグラスだった。僕はそれに入っている金色のウイスキーを口に含んでから空に問いた。
「僕はどうしたらいい」
それを聞いたかのように僕は後ろから誰かに抱きしめられた。花の匂い。絹のように細く月光のように白い腕が僕を包んだ。
「ねえ」
耳元でそう呟かれた。僕は不意に流れた涙を止めることができずに僕を抱く細い腕を撫でた。手首、肘。僕はその腕をゆっくりと下ろして振り向く。夢に見ていた女はそこにいた。
「会いたかったよ」
その言葉はどちらがいったかは覚えていない。聞いたような気もするし、言ったような気もする。その後には僕はその女とキスをしていた。軽く押すとその女は簡単に倒れ、長い髪がベッドに広がった。
「するの?」
僕を見つめるその黒い目はずっと変わらなかった。僕が憧れていた目だったのかもしれない。ずっと欲しかった目なのかもしれない。心を読んだかのように女は目を細めた。僕はそれを合図に女に覆いかぶさった。

 雷の轟音と、テレビからの話し声で目が覚めた。いつの間にか僕は眠っていたみたいだ。相変わらず窓を叩く雨粒は大きく、レーズンチョコレートは溶けてお互いにくっついてしまっていた。その隣に置いてある携帯を取る。そこには通話中の表示があった。最初こそは酔って誰かに電話をかけてしまったのだと思った。しかし、そこに書いてある通話相手の名前を見て僕は確信した。僕は2時間も前から大崎と通話していた。そしてそれは今も繋がっている。
「……美穂?」
応答はなかった。ただ、少しのノイズが聞こえるだけだった。嫌な予感がした。

 雨に打たれる僕がいた。玄関を飛び出して十字路まで走る。信号は赤、しかしそれを見る暇なんて僕にはなかった。後ろからクラクションを鳴らされた気がしたけれど、振り返らずに何度も通ったこの坂を駆け上がる。サンダルの前緒は弾け飛び、アスファルトを素足で走っていると段々と足裏がぬめってきた。自分の血で足裏が塗れてきたのだ。延々と続くような気さえするこの坂も、雨で重くなった服も髪も全部、僕の罪そのものだった。だとすると今僕が夢中で走るのは償いとでも言うのか。それとも、本当に。

この時、ふととある手紙を思い出した。大崎のことを忘れかけてきた時に届いた手紙だった。封を開けた時にあの時の香水の香りがした。ような気がした。

 
 拝啓、広瀬浩一様
 わたしが最初に広瀬君を見た時、なんて今にも壊れてしまいそうな人なんだろうと思いました。どこか繊細でいつも遠くを見つめる広瀬君がいつも何を感じて何を見ているのか気になって仕方がありませんでした。いつから広瀬くんを目で追うようになってしまっていたのだろう。気がついたら私はいつもぼうっと貴方のことを見ていたのです。実は教室に遅れてきた日はわざとでした。貴方はいつも遠い席に一人で座っているから、隣に座ってみたくなったのです。それで普段よりも少しだけ遅れて行ってみると、そこにはやっぱり外の遠くを見る貴方がいました。すごく緊張しましたが、あの時勇気を出して良かったです。それと、広瀬くんがあんなにも優しいだなんて思いませんでした。なんだか、大人しそうな人だなあとは思っていましたが、私が思っているよりもずっと貴方は優しくて、どんな時でも受け入れてくれました。ありがとう。貴方といる時は本当に安心し切ってしまっていて、人生で初めて本当の自分を出すことができたような気がしていました。でも一つだけ謝らせてください。私、ひとつだけ隠していたことがあります。広瀬くんから夢の女の話をされた時、私のせいだと思ったのです。

 ある日から夢の中でとある女性が出てくるようになりました。長い黒髪が綺麗な人でした。正直女のわたしでもうっとりしてしまうくらい綺麗な人だったので、その日はずっと夢心地だったことを今でも覚えています。また会えるかなあ、なんて思っていました。それから夜眠ると必ずあの綺麗な人が出てくるようになりました。毎日、綺麗な人に会えるのは嬉しいけれど、同じ夢を何度も見るのが次第に怖くなってきたのです。
 ある日、いつもみたく同じ夢を見ました。そして、その女の人と夢の中でセックスをしました。あまりにもリアルで、まるで自分が汚れてしまったみたいで、広瀬くんを無理やり誘いました。広瀬くんで上書きされてその日は少し落ち着きました。けれど、広瀬くんが帰った後、私は決まってあの女の人に汚されるのです。一人で眠ると決まってあの人とセックスをして、汚されてしまうのです。その度に私は上書きしようとしていました。だけれど気付いていたのです。広瀬くんは私に求められるのがあまり好きでないことに。ごめんなさい。本当に自分勝手だとわかっていたけれど、私にはああするしかなかったのです。もう二度と迷惑をかけたくなくて、眠らないようにわざとお腹を空かせたり、コーヒーをよく飲むようにしました。夢の女に会うと、貴方で埋めて欲しくなってしまうから。気が付いた時は病院でした。隣にいる広瀬くんを見て、ああ、また迷惑をかけてしまったな、と申し訳なくなりました。あの日のことは忘れません。最後まで手間のかかる女でごめんね。あの時、謝ろうとしたのだけれど、カーテン越しに夢の女の人が見えてしまった気がして、声も挙げることができずに眠っているふりをしました。弱虫でした。それからというもの夢の人が部屋の中にいるような気がして眠れなくなりました。カーテンの裏から、押入れの隙間から覗いてくる眼がある。そんな気がして。あの人のきれいな黒目がこっちをずっと見ていて。一度眠るとあの女の人とセックスをして、嫌なはずなのに起きたとき濡らしている自分にもっと嫌になって。広瀬くんと最後にセックスをした日から窓にはガムテープで新聞を貼り付けて光が入らないようにしました。もう眠っていても起きていても関係のない暗闇の中だと女の人に怯えなくて済むと思ったから。でもあの人は私の背中を優しく撫でるのです。起きているのか眠っているのかさえわからない今も、なんだか頭を撫でられている気がします。広瀬くん、私っておかしいよね。抱きしめてほしくて電話しました。結局最後まで広瀬くんの声は聞こえなかったけれど、なんだか楽になったよ。ありがとうね。今までありがとう。ごめんね。広瀬くん。


 午前2時、大崎は飛び降り自殺で死んだ。4階の自室の窓から飛んだようだった。救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。通報してくれたらしい中年の男性から聞いた。
「友達?」
僕は
「いえ、違います」
失礼しました、と。雨の音でほとんど彼には聞こえなかったと思う。
 僕はそっと携帯を取り出して通話を切った。
 僕はそれだけだった。

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