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第5章 再会

目が覚めたのは午後10時を過ぎたあたりだった。もう月が昇り、カーテンの間から部屋を淡く照らす。眠ってしまっていたらしい。家具の輪郭が、シーツの陰影が、そして読みかけのまま閉じてしまった本までもが静かに息を潜めている。ぼくは部屋の明かりを点けて携帯を手繰る。大崎からメッセージが入っていた。
”昨日はありがと! シチュー作れなくてごめんね”
きっとそれは大多数の人にとってはごく当たり前の日常なのかもしれないけれど僕にとってはひどく新鮮でそれだけで世界が光り輝いているように見えた。

 次の日曜日も似たような過ごし方をした。本を読み、サンドイッチを食べ、そしてコーヒーを飲む。昨日よりも天気が良かったので公園まで散歩して煙草を吸う。向こうの角から大崎が出てくるような気がしてチラチラと見るけれど、結局3本吸う間に彼女が現れることはなかった。吸い殻を携帯灰皿に入れて僕は公園を後にする。後ろの方から電車がレールを軋ませる音がするが、僕はもう振り返らない。もう、その車窓を見ることはない。
”明日は遅刻しないように”
大崎からのメッセージを読むのは僕にとっては日課であり義務であり楽しみでもあった。僕はそれに返信するのも楽しみであり義務であり日課だった。僕は何度もそれの返事を考えて、書いては消してを繰り返して、結局満足いく返答が用意できたのは家についてからの話だった。どうして僕の中で大崎の存在というのはここまで大きくなってしまったのか。僕はまだ日の差し込む部屋で一人、ベッドに横たわりながらその携帯を眺めていた。ただぼうっとメッセージを眺めているだけなのに、大崎の香りがしてくる気がした。あのベッドの上で、僕はあの大崎とメッセージのやり取りをしている。日が落ち始めて、部屋が次第に暗くなる。僕はだんだんと孤独を感じ、このベッドに一人でいることを実感する。

 それからというのは特に代わり映えのない、日常という名にも名前負けしてしまいそうなくらい、決まった時間に決まった講義を受けて、合間には大崎と会い、ご飯を食べたり、綺麗なものを眺めたり、時にはお互いの家でセックスをした。時間の浪費、という名前の方が似合いそうなくらいの何も変わらないただの人生の消化試合とも思える時間に、僕は退屈どころか幸せを日毎に増して感じるようになっていった。その幸せは誰かからすれば当たり前そのもののようだが、今までの僕からしてみればとても新鮮だったし、真新しいものの連続だった。しかし、終焉は突然に訪れた。それは不可逆性の本当の終わりだった。

 夏の存在を強く感じるようになった頃、だんだんと太陽がいつまでも居座るようになったある日、大崎が大学にあまり顔を出さなくなった。これだけならいいが、あれから毎日していた連絡も絶え絶えに、挙げ句の果てにはほとんど来なくなった。僕はいよいよ心配になり、様子を見に行くことにした。

 その日の講義は午前中で終了し、帰りにコンビニでスポーツドリンクとみかんのフルーツゼリーを購入して大崎のアパートまでお見舞いに行った。いつぶりかに登ったこの坂も、あの日ほど辛くはなくなっていた。大崎の部屋の匂いや、家具の配置までもを簡単に思い返せるほど僕は何度もこのアパートに通った。4階まで上り、インターホンを押す。
「美穂?」

しばらくしてがちゃりと鍵が開く音が聞こえた。古いドアの隙間から出てきたのは無理して笑って見せる痩せた大崎と、高熱だった。

 大崎が点滴を打っている間、僕は喉の渇きを感じて1階の待合室にある自販機でジュースを買うことにした。眠った大崎を確認して部屋から出て階段を降りる。途中すれ違う看護師からは消毒液の匂いがした。僕は昔から病院が苦手だった。どこまでも清潔で無機質で、無駄なものが全く無い病院は、人々の不安を浮き彫りにしているように思えてならないのだ。フロントまで来ると待合室には何人かの患者がいた。皆何かを抱えている。当たり前のことだけれど、それを目の当たりにするのは少しこころが痛かった。

自販機を前にして僕は少し悩んでいた。きっと大崎はレモネードが好きなのだと思う。がらん、と小さなペットボトルが2つ転がり落ちてきて僕はそれを拾う。すると、休憩室を出たすぐを見覚えのある黒い髪をした女性が通った気がした。見間違いだろう、僕はそう自分に言い聞かせた。そう思う頭とは裏腹に足は自然と前に出ていて、そして目はその女を追っていた。あの公園のベンチで見た光景を思い出す。夢で見た光景を思い出す。電車の車窓から僕を見るあの女の顔を思い出す。初めて夢で会った時の流れ込んでくるような温かさを思い出す。僕の体は枯渇していて、無尽蔵に求めていて、足が早くなるのは自然だった。

 休憩室を出て待合室を見渡しても女はいなかった。誰もが不安そうに、何かを抱えている人たちばかりで、僕を誘ってくる漆黒の髪を持つ女はどこにもいなかった。
「(見間違いか)」
肩を落とした。しかし、まだ諦めきれない自分がいた。もしいるのなら。でも会って僕は何がしたいのだろう。階段にも、廊下にも女はいなかった。これで良かったんだと無理矢理自分を納得させようとした時に、大崎の部屋に続く廊下の曲がり角に黒い髪の先が見えた。気がした。僕はそれを追う。途中看護師にぶつかりそうになりながらも、夢に見ていたあの女がまた消えてしまう前にもう一度だけ会いたかった。後ろから看護師が何か怒鳴っている。それに気付いたのは角に差し掛かってその先に誰もいないことを見た後のことだった。あがる息とぬるくなってしまいそうなくらい握りしめた2つのレモネード。
「院内は走らないでください」
隣にはいつの間にか怪訝そうな目をした看護師がいた。僕はそれに驚いて
「すみません」
ほとんど反射のように謝る。その若い看護師はすぐにどこか行ってしまった。残された僕の生きる世界に、あの女はいないんだ。
 
 大崎の寝ているベッドのカーテンを開ける。彼女は寝息を立てて、全くの安心を存分に堪能していた。カーテンを締め直してレモネードの蓋を開ける。ぱきぱき、とプラスチックの弾ける音が室内に響いた。この音で大崎が起きてしまうんじゃないか、と思うくらいにここは静かだ。ゆっくりと上下する大崎の胸を見ながら僕はレモネードを一口飲む。普段からどこか子供のような、あどけない表情をする大崎も眠っているともっと幼く見えた。夕焼けのオレンジが照らす半開きになった口から見える白い歯も、カールした長い睫毛までもが触れると弾けてしまいそうなガラス細工のように思えた。夢のように消えてしまうような気がした。その時、ふと部屋のドアが開く音がカーテン越しから聞こえる。看護師が様子を見にきたのだと思い、大崎を起こそうかと思った時、その足音はピンヒールのような、高い音を響かせる足だと気づく。それは一番奥にある僕たちのベッドに向かってくる。大崎の知り合いか、と思い顔を上げた瞬間、僕が見たのはカーテン越しから透ける長い髪の女だった。
 
 息が止まる。汗と心臓の鼓動が僕を不安へと突き落とす。猛烈な吐き気と、異常なまでの寒気は嘘がバレた時の子供のように、蜘蛛に捕まった蝶のように、そして感じてはならない罪悪感に一瞬にして支配された。カーテン越しの女はただずっと、僕たちの方を睨み続けている。その目すら見えないが、それは全くの常人には出せない確実な殺意醸し出していた。時間にしてどれくらいたったのか。永遠とも感じられるような睨み合いはもう一度響くドアの開く音で幕を閉じた。

また誰かが大部屋に入ってきた
「大崎さん、点滴終わりましたよ」
長い髪の女の影が次の陰に塗りつぶされ、カーテンを開く、しゃっという音ともにそこには点滴の様子を見にきた看護師だった。
「どうかしました?」
気持ちの悪い粘つく汗をかく僕を見てその人は言った。
「いや、なんでも」
看護師からの視線を感じる。しかし、今の僕にはこの動悸が他の人に悟られないようにすることが精一杯だった。温くなったレモネードを握る手は小さく震えていた。
 看護師が手際よく点滴用の注射を外して、しばらくすると大崎は目を覚ました。
「あ、おはよう」
すっかり日が落ちてしまって薄暗い室内で大崎はそう言った。
「かえろっか」
僕は小さくそう言った。
「ねえ、どうしたの」
大崎は自分の手を握る僕を見て笑いながらそう言った。僕は震えを止めることができない。僕を握る大崎の小さな手は温かかった。
 
 大崎の家に向かうまで彼女は僕の手を握り続けた。まるで何かを願うように絡められた指の間に溜まる汗を不快に思う。けれど僕にはその手を離すことができなかった。何度も繋いだこの手の温もりが初めてのように感じられて、一度離してしまえばもう二度と握ることのできないものだと思えたからだった。僕たちはゆっくりと坂を登る。それはとてもゆっくりと坂を登る。その間僕たちはほとんど口をきかなかった。今日、僕は起こったことをそのまま伝えようと思う。しかし、それと同時に大崎に余計な心配をかけたくもなかった。第一、夢の女が現実に現れるようになったなんて聞いた人間はどんな顔をするのだろう。本当に精神病か何かを患ってしまった気がして、こんな僕を大崎はなんて思うのだろう。離れてしまうのか、それとも寄り添ってくれるのか、どちらにせよ想像できる未来を僕は望まない。そうなると喋らない方がいい気がしてくる。僕の頭の中で堂々巡りしているこれを吐き出す場所は大崎ではないとわかっていても、未だに震える体を止めることはできなかった。
「ありがと」
アパートの前で彼女はそう言った。
「じゃあ、僕は帰るよ」
僕が踵を返そうとした時に
「あ、そういえばこの間友達から紅茶もらったんだ! ダメになる前にちょっと飲んだいきなよ、今日はちょっと冷えてるし」
熱帯夜が騒がれる昨今は、冷えるという表現を使うにはまだ早かった。
「そうだね」

 僕は紅茶を淹れている大崎を眺めながら、日常というのはいとも簡単に壊れてしまうことを実感した。今座っているソファからベッドを挟んで向こうにあるカーテンの隙間や、少しだけ開いているクローゼットの間から。もしくはひょっとするとベッドの下からは手が出てくるかもしれない。実は玄関の向こうには僕が出でくるのを待っている。夢の女。女。黒い髪をした美しい女。恐ろしい。どこまでもついて回り、どこまでも僕の脳を圧迫する女。その女はーーーーーー。

「今日、何かあった?」
かちゃん、花柄のティーカップを僕の前に置く大崎はそう切り出した。膝を抱えた僕はハッとして顔を上げる。そしてゆっくりと全て話した。今までのことと、今日起きたこと。これまでのこと、そしてこれからのこと。
「そっかあ」
僕の今までを聞いて彼女が言ったのはその一言だった。てっきり僕は心配されたり激励されるとばかり思っていただけに呆気に取られてしまった。
「呪われちゃってるのかもね!」
彼女はこういう人間だった。とても解決できそうもない問題を目の当たりにした時に決まってする笑顔。その屈託のない笑顔は自分自身をの一切を殺して、それでもし誰かが1mmでも救われるのならそれでいいと思える人間の笑顔だった。強く、美しい人間の女だった。きっと彼女なりの心配であり、激励であったのだろう。この時にやっと僕は頰に流れる涙に気がついた。
「もう、男の子なんだから泣かないの」
彼女はその白く細い指でそれを拭う。
「……ごめん」
「また泣くのか!」
大崎は静かに僕を抱き締めた。きつく、そして優しく抱き締めた。そして僕は彼女の胸の中で声をあげて泣いた。いつぶりだろう。僕の嗚咽は彼女の胸の中に吸い込まれていって、彼女の背中にすがるように抱き返した。大崎は僕を抱きしめながら頭を撫でて耳元でこう囁く。
「いつでもいいからね、もし辛いことや逃げ出したいことがあったらいつでも抱きしめるから。私がいつでも広瀬くんを抱きしめるから。だから自分の中に閉じ込めないで。閉じ込めたものが自分を殺す前に」
僕はその声を自分の嗚咽でほとんど聞こえてなかった。だけれど、自分の居場所がこんなにも柔らかくて温かいものだと知った時、流れる涙は意味を変えた。

 どこか遠くで鈴虫が鳴いているのが聞こえる。その声は小さくても1つのベッドで寝ている二人に届かせるには十分だった。月明かりがカーテンの間から漏れて部屋の中を群青に染める。僕は闇に飲まれかけている家具を眺めながら大崎に後ろから手を回されていた。
「広瀬くんってなんかいい匂いするよね」
大崎が僕の隣で眠る前にいつもいう台詞だった。それをいった後は大体、
「ねえ」
耳元で小さくそう囁いて、大崎の手は後ろから僕の胸を這って、下着に手をかける。僕はその間もずっとテーブルの上にある飲みかけの紅茶の入ったティーカップを眺め続ける。すっかり慣れてしまったその手つきに僕の下着はあっさりと外されてしまう。なぞる指は冷たくて長くて細かった。その間も僕はずっと点いてもいないテレビを眺める。月明かりが反射している画面を眺める。横たわる僕と後ろから手を回す大崎を見る。

「ねえ」
大崎は僕の肩に手をかけて仰向けになるように転がした。その僕に大崎は跨って彼女の顔は月光による陰影で半分近く見えなかったけれどあの時と同じ目をしていた。そしてその顔は、僕が思い描いたカーテン越しの女の顔と同じだった。その陰影はうつむきがちに、自分の髪を持ってして一層の影に深みを足した。その黒は僕の両頬を手で撫ぜて唇を重ねる。僕は目を瞑る。どうして今日に限って夢の女の顔が浮かぶのだろう。長い時間のキスだった。一度離れれば一枚脱ぎ、二度離れれば、大崎の白い肢体は月光に晒された。どうしても、今日は夢の女が邪魔をする。なぜか大崎に重なる。夢の女が、まるでそのドアの向こうからこちらをじっと見ている気がした。
「ごめん」
僕はそう謝った。今日はできない、そうも続けた。
「少しだけ……」
大崎はそれをかき消すようにそう小さくいった。僕からゆっくりと下りて僕の下腹部に顔を埋めた。遠くで鳴いていた鈴虫の声はいつしか聞こえなくなって、この部屋を支配する音は僕を頬張る大崎の音だけだった。僕はーーーーーーー。

大崎が寝息を立てたのは終わってすぐだった。僕はもうほとんど覚えていないくらいになぜか朦朧としていて、なぜか終始あの夢の女が脳裏にこびりついたままだった。月明かりが作り出す陰影のせいで、大崎とあの女を重ねてしまった。僕はなんて最低な人間なのだろう。そう思うたびに、病院のカーテン越しにいたあの女がまたどこかで見ている気がした。
「……広瀬くん」
大崎がこちらに寝返ってきた。僕の目の前で眠る大崎の顔はどこまでもあどけなくて、汚れを知らない純粋そのもののように見えた。僕はその純粋さに憧れて、少しだけ分けてもらおうと大崎に近付いたんだった。
「好きだよ」
僕は自分に言い聞かせるためにそう呟いた。ふふ、と大崎は笑った。

次の日の朝に僕は大崎が目覚める前に部屋を出た。夢は長いこと見ていない。僕はベッドの下に潜り込んだ下着を引っ張り出して履く。朝の陽光はカーテンの隙間から身を捻り込んでくる。その一筋は大崎の頰と首と胸と臍と足を照らす。照り返す白い肌は僕が触れると黒く染まりそうで、その染まった部分から爛れていってしまいそうで、とにかく今の僕には自分の手がそういう風にしか見えなかった。大崎のことを大切に思っているが故に、今はただ距離が欲しかった。身なりを整えて、玄関のノブに手をかける。
「広瀬くん」
大崎の声が聞こえた気がした。僕は振り返らずドアを開けた。
 
 僕が最後に大崎の声を聞いたのはそれが最後になった。あの日からというもの大崎は大学に顔を見せなくなった。連絡もしなくなった。大崎の友人から大崎と連絡が取れないと相談されたこともあった。大崎と会わなくなってから不安や心配が募り、日を重ねるごとに凝り固まって後戻りできないくらいになった。いつもの十字路を通らないように電車通学にした。いつもの公園でタバコを吸わないように近くのコンビニに行くようになった。僕の望んだようになった。しかし、どこか満たされない自分もいた。僕が一体何を望んでいるのかなんて誰にもわからなかった。僕が一体何を望んで何が欲しいかなんて、実は最初から変わっていないようにも思えた。

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