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第3章 触れ合い

その日の夢は今でもはっきり覚えている。僕は夢の中でもいつもの公園で煙草を吸っていた。僕はベンチで座りながら吸っていて、目の前には昨日大学で知り合った大崎が立っていて、僕に何か訴えかける。声は届かない。僕はそれに耳を傾けようとすると、彼女の後ろに夢の女が立っていることに気付いた。彼女の右手には包丁が握られていた。 

嫌な汗と動悸で飛び起きた。Tシャツはぐっしょりと濡れていて、それを慌てて脱いでシャワーを浴びた。昨日飲んだウイスキーが頭をガンガンと鳴らす。空の色が変わり始めた午前5時前、タオルで髪を拭きながらこの季節の朝がまだ寒いことを僕は再認識する。カーテンを開けてもまだ暗い部屋で、淹れたてのコーヒーを啜る。天気予報士が今日の東京は一日中曇りだと伝える。僕はそれを聞いて今朝の夢も曇天だったことを思い出す。それとどつかれた思いでキッチンへ行き、シンク下の収納棚に包丁があることを確認する。 
「ばかだよな」 
自分にも聞こえないような声でそう呟いた。 

 大学に行くには早かったが、家にいてしまってはぐるぐると頭の中で今朝の夢が繰り返される。もう一度冷たい水で顔を洗い、ライトな上着を羽織って、昨日から玄関に置きっぱなしになっているトートバッグを肩にかけ、そのままゆっくりと歩いて学校へ向かう。桜はもうどれも散ってしまっていて、桃色の絨毯も皆に踏まれて粉々になって、端に泥に塗れて黒く絡まり固まっていた。僕はイヤホンを差してMarron5のmiseryを聴く。僕がちょうど中学生くらいの時に流行っていた曲だ。それをなるべく大きなボリュームにして、今朝の夢をなるべく思い出さないようにしていると、公園のすぐそばにまで来た。階段を上がり、いつものベンチでいつものマルボロを吸う。木製のベンチは少し冷たかった。ここから見える景色は今朝見た夢と同じだ。足りないのは茶髪の女と夢の女。包丁を持った夢の女は、すべてを飲み込んでしまいそうな黒い髪でその表情を隠していた。笑っていた気がするし、泣いていた気がする。僕はどちらをを望むのか。どちらをを願うのか。 

目の前のフェンスを越えた先で電車が通り過ぎる。まだこの時間は乗客は少ない。僕はCASIOの腕時計に目をやった。午前6時。どれだけゆっくりしていてもまだ開講までに時間があることを確認して、もう一本煙草に火をつけた。それを僕は何度も繰り返した。火を点けて、火が消えて、灰が落ちて、灰が落ちた。しばらくすると公園から見下ろす先に大崎が歩いてくるのが見えた。僕はまだ火の点いているそれをもういっぱいの携帯灰皿に無理やり突っ込んだ。トートバッグを肩にかけなおして、公園を出て何段もない階段を下りる。信号は赤で、まだ渡れない。横断歩道のその先の彼女も僕がいるのに気が付いたようだ。小さく手を振る彼女に僕はそれよりも小さく振り返す。夢の中だけの話であったら、もう彼女は亡くなっていて僕はもう二度と会えないと勝手に悲観的になっていたのを思い出し恥ずかしくなった。信号が青になって小走りに向かう。すぐに上がってしまう息も今は関係なかった。 
「おはよう」 
「おはよう」 
大崎は続けて、 
「メッセージ送れてた、かな」  
僕は携帯を取り出す。そこには「大崎美穂からメッセージが届いています」と今朝通知が届いていた。今朝の夢で何も見ていなかった。 
「今見たでしょ」 
ごめん、と謝ると大崎は笑った。 
「いいよいいよ。ね、早く学校いこ」 
僕と大崎はその日の1限が一緒だった。眠たそうな警備員の横を通り、噴水を過ぎて、メイン通りの食堂と生協を横目にゆっくり歩いた。今日もF8棟で講義が始まる。3階に到着し、教室に入ってカードリーダーで自分の存在を確認する。誰からも遠い席で、今は隣に大崎がいるが、僕は窓側に座る。トートバッグから紙とペンを取り出して教授の到着を待った。しばらくしてワイシャツのボタンが今にも弾け飛びそうな太った男性の教授が入ってくる。こんな涼しい日でも、彼はハンカチを手放さない。窮屈そうなネクタイに締まった首元にぐい、とハンカチを押し込んで何度も汗を拭う。その様子を僕が真似をすると大崎は笑った。

 彼女は僕に様々な話をしてくれた。新潟出身はまだ雪が残っていること、初めての一人暮らしでゴキブリを見たことがないということ、今年の夏は太平洋を見てみたいということ、ラーメンもケーキも好きだということ。僕たちはなんでもない話でクスクスと笑いあった。
「ねえ」 
僕はそれに何?と訊くと
「このあと空いてる?」
「今日はあと3限が残っているからその後なら」  
「じゃあ3限終わり駅前集合ね」 
うん、でもどうしてと僕は訊こうとした時、終礼のチャイムとともに大崎は友人の元へと行ってしまった。

 僕が通う大学の図書室は、都内の大学の中でも屈指の蔵書数を誇っている。しかし、その中でも夢に関する本は少なかった。心理学に関する本の中でチャプターとして夢が取り上げられているものもあったが、夢に現れる異性について書かれた本はなかった。「夢幻十相」という古い小説があったが僕には到底理解できそうにない内容だった。しかし、もしこれが何かしらの手がかりがあるのなら僕はそれにさえすがりたいと思い、小説を借りて次の3限の講義の準備をした。 

 3限の講義の間僕は「夢幻十相」を読んでいた。夢の人間に恋をした人間は朝目が覚める度に絶望し、眠るために起きる生活は次第に精神を蝕み、やがて自殺してしまう。もしくは夢の人間に殺されるのを現実と錯覚して本当に死んでしまう、とか。あまりハッピーエンドにならない話が10編綴られていた。その中でも僕は、「夢の中で出てきた女が現実の女を殺す」という話が非常に印象深かった。夢の女は現実の人間を殺すために出てくる、といった内容だった。僕の今朝の夢が現実になるとしたら……。 

チャイムが鳴って僕はそこで3限が終わったことを知る。「夢幻十相」をトートバッグにしまって、そのまま図書室に返却したあと正門に向かった。途中、喫煙所で一本のマルボロを吸って、自販機で買ったコーヒーの残りを持って僕は駅へ向かう。 
「なんでコーヒー飲んでるのよ、今からカフェ行こうと思っていたのに」 
いかにも不機嫌そうな大崎はそう言った。 
「そこ煙草吸える?」 
「吸わせないし」 
強気な大崎は僕の袖を引っ張った。 

 駅から程なくしてそれはあった。“喫茶アプリコット”。かなり年季の入った店構えと、それに劣らないオーナーのいる所謂純喫茶だった。駅のホームから見えたことはあったけれど、実際に入ったことはなかった。店内は何年も使われてきたようなアンティーク家具に囲まれており、そこに流れるのは80年代や90年代の耳馴染みのあるジャズだ。この空間だけ昭和に切り取られたような錯覚を覚えた。
「随分と洒落ているね、よく来るの?」 
僕は大崎に聞くと 
「大学入りたての時に一人で入ってからお気に入りで週に1回は来るよ」 
確かにこの僕が今座っている革張りのソファは長居してしまいそうなくらい居心地がよかった。ワインレッドの革が貼られた、猫足が特徴的なこのソファは僕をしっかりと包んでくれた。それに飴色になるまで使い込まれたテーブルは角が丸くなるまで磨かれており、奥のキッチンからは炒ったコーヒー豆の香りも漂ってくる。店内の中央にある大黒柱は煙草の煤か何かで黒くなり、所々に見える傷もまるでこの店の歴史を感じさせるような皺に見えた。すべてが長い時間をかけて洗練されていっているかんじがした。うまく言えないけれど、僕よりも長生きで、僕よりも多くのものを見てきた彼らに囲まれているここは、少しの緊張感と、同時に守られているかんじがした。 

ツイード生地で仕立てられたダブルのジャケットを羽織った初老の男性がカップを二つ持ってきてくれた。僕はアイスコーヒーで、大崎はアプリコットブレンドを頼んでいた。早速グラスにガムシロップを入れる僕を、大崎は不思議そうに見つめる。 
「甘党なんだ」 
彼女の瞳はどこまでも深い。 
「なんだか意外」 
そう言って大崎は肩をすくめながら何も入れていないコーヒーを一口啜った。一体どんな風に受け取ればよかったのかわからなかったが、僕はうん、と頷いてストローを刺す。若干の静寂をジャズのベースが叩いた。大崎はカップを静かに置いてこう訊いた。 
「コーヒーはすき?」 
僕はアイスコーヒーに刺さったストローで氷を鳴らしながら答える。 
「うん、好きだよ。小学生の頃から飲んでるから癖みたいなものになっちゃってるけど」 
「癖?」 
からんと一際大きな音で氷が鳴った。僕は結露して濡れているグラスを指で撫でながら 
「癖というよりか、ひょっとしたら寝たくないだけなのかも」 
寝たくない、叶うならばそうしたい。今目の前にいる大崎もあのまま今朝の夢を見続けていたらどうなっていたのだろう。夢の女になにをされたのだろう。あれは夢だ、と自分に言い聞かせようとする度に、トラウマじみた動悸が僕を襲い、あの公園の光景がフラッシュバックする。 
「前は家帰ったら寝てるって答えてたじゃん」 
大崎は笑いながら立て続けにこう訊いた。
「怖い夢でもよく見るの?」
指先で涙を拭う大崎を見ながら僕は答える。 
「うーん、まあ昔からなんだけど、怖い夢はよく見るな」 
最近だと、僕はそう言いかけてから一度氷が解けて薄くなったコーヒーを飲んで
「君が殺される夢とかね」 
と言った。それを訊いた大崎はいたずらに微笑みかけ、 
「さみしかった?」 
と僕を茶化すのだった。 
「寂しくなんかないよ。ただ」 
「ただ?」
「ヒーローがいなくなってしまった日常になるのかって落胆した」
「え! 私が? ヒーロー?」
うん、僕が頷くと大崎は大笑いした。大崎は痙攣するお腹を押さえながら
「なんで私がヒーローなのよ」
「なんでも」
僕はただ目の前にある大黒柱の傷の数を数えていた。

僕がお手洗いから戻るとちょうど大崎が財布をバッグにしまっていた。
お会計、僕が呟くと大崎は
「いいの。この間のお礼。教科書教えてくれたでしょ」
いやそうはいかないとお札を渡しても受け取ってくれなかった。頑固な人だった。
「結構長居したね。行こっか」
僕は渋々お札を財布にしまい、トートバッグを肩にかけ直した。
 
 “喫茶アプリコット”を後にして僕らは帰路に就く。すっかり日も落ちて、街灯が照らす歩道のタイル地を並んで歩く。昨日大崎はラーメンを食べる夢を見たと言う。信じられないくらいおいしくてまた食べたいと言う。僕は夢なら毎日違うのが見たいな、と言った。大崎は幸せな夢なら毎日でもいいなあ、なんて言った。二人で歩きながら僕はふと大崎が隣を歩いてくれることを嬉しく思った。それは本当に不意で、何か思惑があったとか何かきっかけがあってとかではなく、本当に突然そう思った。自然と僕の視線は大前に向いて、それに気付かれた。
「どうかした?」
大崎の揺れるピアスと黒目がちの瞳が僕に向けられていることに僕はうれしく思う。 
「いや、なんでも」 
「なんだ。変な人」 
大崎は特に気にしている風もなくまた前を向く。

いつもの公園の前の十字路の坂を上った先にある最初の角を曲がったところに大崎の住むアパートがある。辺りは既に暗くなっていて、僕はこんな時間まで付き合わせてしまったからおくるよ、と言うと 
「この坂登れるならね」 
と大崎はほくそ笑んだ。 
この坂はいつものベンチから眺めてる分にはどこにでもありそうな坂なのだが、いざ自分が登ると信じられないくらいに急勾配だった。大崎はここを毎日通っているのか、と思うと不思議でしょうがなかった。 
「高校の頃は陸上部だったんだ」 
坂を登った先で待っている大崎は涼しい顔で小ばかにしてくる。喫煙と運動不足とで弱ってしまった肺をぜえぜえ鳴らしながら必死に食らいつこうとするも、大崎との距離は縮まどころか開いてしまっていく。見かねた大崎は僕の手を引いて一緒に坂を登る。大崎の手も、僕の手も、自分でわかってしまうくらい熱くなっていた。 

最初の角まで来る。まさかここに来るまでに情けないくらい自分の肺が悲鳴を上げるほど衰えていたなんて思いもしなかった。早く帰ろう、そう思った時だった。 
「あたしの家この先なんだ」 
そういう大崎はいたずら好きの子供みたいににやりとしていた。角を曲がった先に 
広がるのはなだらかに続く住宅街と緩やかな坂だった。 
大崎の家は4階建ての比較的新しいアパートだった。ここの4階と彼女は言う。僕は額を滴る汗を拭いながら 
「じゃあ」 
短く手を振った。 
「じゃあ、また明日ね」 
「うん、また明日」 
途中振り向くと遠くにいる大崎は嬉しそうに小さく手を振った。僕はそれを確認して歩幅が狭くなった気がした。それも気のせいだと片づけた。 

 必死に登った坂道も帰りは足首が痛みそうなくらい急に感じて、できるだけゆっくり下る。信号も、横断歩道も、赤や青に変わるたびに表情を変化させる。それを浴びながら僕はいつもの公園のいつものベンチに座る。マルボロを取り出して火をつけるルーティンも今日はなんだか特別な気がした。今朝は目の前に大崎がいて、その後ろに立っている夢の女は包丁を持っていて。大崎は殺されてしまうんじゃないかと悩んだっけ。今思えば自分の馬鹿馬鹿しさに笑えてくる。どうしてあんなことに本気になってしまっていたのだろう。公園の真ん中に立つ街灯に蛾が群がり、僕はそれを吐き出す煙で消そうとするけれど、頬を撫でる生温い風がそれをどこかに運んでいく。僕はそれを何回も繰り返すけど、煙草が短くなるだけでそれ以上もそれ以下もなかった。遠くから電車が近づく音が聞こえる。街灯の先にフェンスがあり、そこに線路が敷かれている。このままぼんやりと眺めているここにそれは流れてくるだろう。煙を吸って、吐いて。どんどん近付いてくる電車は、今、僕の視界を遮る。車窓から漏れる光が僕をちかちかと照らし、まばらな乗客は皆なんだか暗そうな顔をしていた。

その中に見えたんだ。夢の女が。 

電車が過ぎ去り、あたりが静寂に包まれた時、自分の呼吸が浅くなっているのを感じた。咥えた煙草もいつの間にか地面に落ちていて、汗と吐き気がどこからか湧き出してくる。気持ち悪い。 
「うう……」 
何かの間違いだと思った。見間違い、幻。僕はそこから逃げるように公園を後にした。帰り道の途中で嘔吐してしまう。まるで後をつけられているような気がする。僕はあまりの恐怖で膝が震え、動悸が止まらなくなる。一体僕は誰の足で歩いているんだろう。混乱している自分に混乱し始める。引きずる足はどこまでも重く、自室のアパートの2階に上がるまでにどれだけの時間がかかったのか。遠くの闇の中から夢の女がこちらを見ている気がした。 
部屋に入り、カギとチェーンをかける。その場で僕は倒れこみ、携帯を取り出して大崎美穂の名前を探す。メッセージが入っていた。 
“今日は楽しかったよ! また行こうね” 
それを見て僕はこみ上げる吐き気と、助けを求める声を同時に飲み込んだ。涙をこらえるには僕はまだ幼すぎた。 

布団にもぐると様々な音が僕に向けられている気がする。電車の走る音、夜に鳴く虫、人の笑い声。それらを気にしないようにする度に公園での出来事が浮かんできて、眠ると帰ってこられない気がした。直感的にあの女が僕に向けるのは愛情から憎悪に変わっているのを肌で感じた。今眠ってしまったら、本当に夢と現実との区別がつかなくなる気がする。どうすればいい。僕は、眠るのが怖い。

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