自由と選択とCoCoと the pillows
先日アップした記事を読み返しながら思ったんですが
CoCoとthe pillowsを並列に語るって何してんじゃわたしwww
自分視点ではなんの違和感もなかったんですけど
ふと、誤字脱字チェックという擬似他者視点で見てみたら
(@_@;)ってなりました。
うん、並んでる。
ハッシュタグで #CoCo と #the pillows
見れば見るほどなんじゃそらw だわ
まあ、わたしの中では両方とも「好きな音楽」なんでいいんですけど
どちらも尊敬したりすげーなと思える言葉達なのでなんの違和感もないのですけど
この「フラットになってるつもりで出てきてしまった切り分け感」
これが、すごく面白く感じてしまったんですよね
わたしが感情的に書いた文章を、無感情なつもりで俯瞰したら
「なんだそら」っていうある種の「固定観念に基づいた苦笑」が出てきたのです
今風の「我が道を行く!」ってかわいい衣装着て戦うプリキュアみたいなアイドル像になる前の世代の「ふわふわして何もできないかわいいお人形」「いいなりに動いている」みたいな昭和から続くアイドル像を体現したアイドル達のまさに末裔とも言えるグループであるCoCo
まわりの色に馴染めない 我が道を行くロックカリスマ山中さわおの率いる the pillows
それがわたしの中では全くのフラットで「すごく好きなもの」という棚に並べられていて、ごくごく自然に同じカテゴリで記事を書いたのに、いざ少し時間を空けて読んでみたら「ぱっと見」というか、自分の中にある「一般的なイメージ」像が違和感を警告した、といったところなのでしょうか。
「自分の感覚」「一般的なイメージとして認識している感覚」
その切り分けが自分の中にがっつり存在し、且つ自然に切り替えをしていたのに自分で驚きました。
昔のアイドルちゃん達と、現代のロックスターでは「音楽」や「ショー」に対する考え方もスタンスも違って当然ですし、反発まではしなくても和にはならないのかもしれません。でも、今は「みんな違って、みんないい」の世界です。
それぞれの個性や楽しみ方、良さが違って、そういう千変万化の広い広いバリエーションを自由に楽しめるいま、どれかを選んでこれがいいからあれはダメとしてしまうようなのは不自由に感じてしまいます。
昔はね、そういう「何かを選んでそれをいいものとしてそこを基準に楽しむ」のが当然で当たり前だった時代があったように思うんだけどね。
昔だったら、音楽を楽しむのにもとてもお金がかかりました
CDアルバム、10曲前後で3000円。
それをコツコツお金を貯めたりしながら地道に買って聴ける曲を増やしていました
個人が「手にできるもの」「選べるもの」が今よりも圧倒的に少なかった。
そんな時に「これがいい、あれはダメ」ってするのって、
自分を守るためにはとても合理的だったのかもしれません。
でも、今は違うもんねー
音楽に関しても気軽に飽食できるんだもんねー
電子機器の進歩素晴らしすぎるだよなー。
こんな時代もあったわね
鉛筆が必須な時代でも無くなったわ
現在のわたしの再生環境は Amazon music unlimited なので余計にそうですね
サブスクがあるおかげですぐそこに膨大なライブラリがあって、手が届く
CD買うのに試聴したり何回も検討に検討を重ねて厳選しなくてもいいんです
そこにあるものなら、全てを取ることができます
一度聞いてみてふーんってする曲だってめちゃめちゃあるし
「失敗した」と嘆くこともなくなりました。
その検討の時間も余裕もなくなっていたし
データを取り込んだりするのも大変だったし
引越しのたびに重いCDを梱包したり運んだりする必要も無くなりました、
それがすごく幸福なこととも思うし
一曲一曲の価値が減ったようにも思えてしまって寂しくなったりもしますが
これれが進歩で、進化で、自由の獲得であることは間違いないように思えます。
自由になった今でも
「これはこうじゃないと認めない」なんて、もったいない
アイドルの枠を飛び越えてなお「アイドルを自称」するフィロソフィーのダンスや
世界に羽ばたきまくってるperfume やベビメタもいますし
パフォーマンスグループなんだかアイドルなんかわからん人たちもたくさんいます
ほんとうに色々なものがあふれている今の世界は
どんな「好き」もちゃんと栄養を供給されて「好き」でいられる世界でもあります
自由に、自分だけの好き、育てていきましょうじゃないですか
まあ、ピロウズとCoCoの違和感はシュールすぎて面白かったからいいけどね!
それもひとつの、楽しみ方なのです
とか言いながらサヤ師みてうっとりしてた。
とても良き!
サポートいただけたらムスメズに美味しいもの食べさせるか、わたしがドトります。 小躍りしながら。