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家族のありがたみ

家族って、親っているとあれこれうるさく感じたり、あれこれやることが多くなって大変だとおもってしまうこともあるけど、一番支えになってくれるのはやっぱり家族だな~と感じる。そう感じることができるのもまたわたしと関わってくれた人、関わってくれる人のおかげだなあと思う。ありがとう。

私が20歳のとき、母が去る

私の母は、私が中学生の時に乳がんになった。当時は、胸に腫瘍ができたから入院すると言われていました。私も深く考えなかった。

19歳の時に母が、体調を崩した。腰が痛いということから整骨院に通っていた。そのあとだんだん悪化していき起きてるのも辛い日々に変わっていった。即大学病院に行くことになり一緒に行った。母一筋の父が、先生の話を聞いて出てきたときの顔は今でも忘れられない。顔色が悪く呆然としていた。診断は、肺がん。もうすでに骨にまで転移していて、手の施しようがない状態。その診断が9月。年内もつかどうかという診断だった。わたしは、信じることができず、自宅療養になったがいつもと変りない、変わったと言えば母がほとんど寝たまんまの状態だった。
一か月ぐらいは自宅で過ごしたが、もう限界がきて入院することになった。その時の私は、最低にもまだ信じてない状況。主人と付き合ってた時だったのですが、一日おきに泊まり込みで父と交代で看病をした。
その時自分の時間を奪われている感覚でしかなかった。

成人式までは持たないとなり、着物を着て病院に行くことになった。
母は涙を見せる人ではなかったけど、涙を流して「きれいだよ。ほんとうにきれいだわ~」とやっとの思いで声を出しているか細い声で・・・
はじめて、母がいなくなるんだと実感した・・・

そのあと母は身体の痛みがひどくなりやせこけて、「さすって~」というようになった。骨しかない身体をさすっていたら、「お母さん死ぬんでしょ?」「死にたくない」とはじめて自分の気持ちを伝えてきてくれた。
本人には、本当のことを伝えていなかったのです。

元看護士の母に嘘をついてもばれることぐらい、わたしもわかりましたが、何もできなかったわたしが唯一父と約束を交わしたことは守ろうと必死でした。私がすごいなと思ったのは、主人のことを見抜いていたこと。具合悪い中数回しかあったことない彼を母は「真面目過ぎるような気がするけど大丈夫?」と聞いてきたのです。その時は、「大丈夫。大丈夫」と答えましたが、結婚してからその言葉の重みがわかったような感じがします。
母は、12月に息を引き取りました。最後の最後息を引き取る前に会えなかったのは、後悔です。

15年後主人の両親・私の父親が去っていく

朝目覚めると、携帯に異常なほどの着信。田舎の市外局番だが主人の実家の番号ではなかった。夜中は着信の音を切っていたため気づかなかった。

私は、こんなに入ってるのは要件があるなと思い、主人が寝ていたのだけど声をかけてその番号にかけた。番号の相手は・・警察署・・・

なんと、主人の両親が住んでいた家から出火。全焼したとのこと・・・
お正月に帰ったばかり、わずか2か月後のことだった。信じられず、主人に電話を一度変わってもらったが、結局私が対応して田舎にすぐ向かうことになった。普段は私が運転しているのだけど、動揺していたので、主人の運転で向かった。見る影もないくらいの現状。警察署で待機していた。
出火原因は、わからなかったが死因は解明。一酸化炭素中毒。解剖が終わり、葬儀は、葬儀には町会の人やらお世話になった人たちがお寺に足を運んでくれた。状況が状況なだけに最後のお別れはできなかった(遺体が炭化してるので見ない方が良いと警察の人に言われたのです)子供たちもまだ小学生と幼稚園。さすがにかわいそうだったが見せるわけにもいかなかった。

田舎と実家の往復を繰り返し全部終わって家のことを片付けるまでの段取りとかが落ち着いて自宅に戻った全部終わるまでに、二週間ぐらいかかった。

ほっとして帰った日の夜、一本の電話が・・・嫌な予感しかなかった・・・

私の父が倒れる


電話に出ると私の実家の近くにある救急病院からの着信だった。
「~さんは、お父様で間違えないですか」
「はい。」
「今救急で運ばれまして、呼吸が困難な状態になってるので、呼吸器をつけるのですが、急いでこれますか?」
「すぐ行きます」
わたしは、急いで救急病院に向かいました。自転車で15分。飛ばしていきました。でも、もう救急治療室に運ばれたあとでした。
それまでも父は、心臓弁膜症で手術を受け、仕事を定年前に退職するはめになり、そのあとアルコール性痴ほうになり、それでも私に
「ひとりで大丈夫だから・・・」
「お前は、負担をおうことはない」
と言い続けた人です。毎日実家にはいくようにしてましたが、主人の両親の件があり、しばらくヘルパーさんに任せっきりでした。

集中治療室のまで何度も心の中で謝っていました。それと同時にきっと大丈夫。いつもみたいに大丈夫と言ってくれると信じてました。

お医者さんからの話では、呼吸器を着けてる間は麻酔をかけちゃうから意識はないと言われました。

そのあと毎日集中治療室にお見舞いに行きました。途中肺炎を起こしたりしましたが、頑張っていました。

毎日通っていたのですが、ある日雪が前日の夜降って明日はいけないかなあと思っていました。一日行かないぐらいだったら平気かなと行けば行ける状況だったのに行かなかったんです。その次の日に行ったときに先生から、
「昨日調子が良かったから、呼吸器外したんだけど夕方から苦しくなってきちゃって、また呼吸器を着けたんだ」
「え?じゃ、昨日は意識あったんですか?」
「うん。きのうはこれなかったのかな?」
私は、後悔してもしきれないほどの心がはち切れそうな思いでした。
主人の両親が亡くなった約一か月後私の父も去りました。

誰もいなくなった孤独感


私は一人っ子です。父親が違う義理の兄弟、姉と、兄がいますが一緒に暮らしたこともなければ、戸籍が一緒になったこともありません。
でもそのとき兄はかけつけてくれました。あと片付けやら全部手伝ってくれました。
でも、母を20歳で亡くして、母代わりだった主人のお母さんもいなくなり、いつもぶっきらぼうだけどやさしかった主人の父もいなくなり、そして友達関係みたいにずっと接してくれていた父もいなくなり孤独感を感じずにはいられませんでした。
葬儀の準備、親戚などへの知らせ、やることはたくさんありました。そんなときさりげなく寄り添ってくれていたのが家族でした。

家族への感謝


ここまで読んでくださった方は、1人でなんでもやってくる羽目になってるとおもうかもしれませんね。
確かに葬儀の手続き、警察への対応、親戚やお世話になった方への対応すべてやってました。
役割分担ですね。そのときに子供たちはまだ幼い時期だったために関わらせられないことがたくさんありました。しかもおじいちゃん、おばあちゃんをいっぺんに亡くすことになったので・・・
そこをホローしてくれていたのが主人でした。
子供たちの傷が広がらないように・・・そっちのほうがよっぽど大変だったろうなあと思います。
助けくれた兄弟、介護ができたのも家族のおかげ。こどもたちの笑顔でもどんなにか支えてきてもらっただろうと深く考えます。
心からありがとうと伝えたい。あと主人の両親、自分の両親にもありがとうと伝えたいです。

最後までよんでくださりありがとうございました。


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