今までの足跡


仏道を習うとは自己を習うことなり 自己を習うとは自己を忘るることなり
自己を忘るるとは万法に処することなり
道元禅師

本来は、ミャンマー史学者根本敬先生のように社会実績が出た頃にYoutubeやブログに書くべきものを先取って伝えている。モン族の問題に出会うまで人生は紆余曲折であった。私はオウム真理教の地下鉄サリン事件の2年前に敬虔な仏教徒の家庭に生まれた。小菅刑務所の近くの駅前にバンコクの日本人街そっくりな小路のアパートで乳児期を過ごし家の前にはタイ料理屋があった。家の扉を開ければタイ語が聞こえタイ料理の香りがした。そこのアパートの近くにある武道館前にはバックパッカーだった祖父母の家があり、タイの漆器やピカソの版画など「博物館資料」ともいうべき品々が保管されていた。
私は重度の身体障害があった。地下鉄サリン事件が起きる直前の5月ごろ託児所の庭のど真ん中で砂で滑って転んで身体障害もあって脚を骨折してしまった。祖母と帰宅したかったのに妹を祖母がお向かいに行った姿に癇癪をして立ったまま脚をばたつかせたら倒れて折れてしまった。同時にこの時の託児所では昼寝の時に「児童虐待」が普通に行われていた。私は脳の発達の関係で入眠時に平衡感覚がなくなり揺れを感じ「ブーランコブーランコ」と歌えば暗くて狭い暑い押し入れにぶち込められた。毎度この昼寝前にがんもどきのような顔した同級生に私の右腕を出せば噛まれていた。かつアンパンマンなどのヒーローの「暴力」を正当化してクラスメイトが暴力を振っていたことを今も覚えている。
 アウシュビッツのような託児所から私は骨折を契機に大きな人生を変える転機へ向かった。毎晩、夜中の水道管工事の騒音に悩まされ涙を流し、家に帰りたいと訴え、散歩の時父母を誘導して家に帰ろうとするが失敗し、毎晩のように夜中の病室で親子喧嘩していた。けれども病院には明治生まれの高齢者の患者が多くいて、当時の教育として伝統芸能に嗜み2歳だった私を可愛がってくれた。その中には井上眼科の院長(個人、御茶ノ水駅前の井上眼科の銅像)が入院していた。院長夫妻は与謝野晶子といった大正デモクラシーに基づく児童教育活動家のパトロン一家の出であった。後に学童期に仏画の教科書をあげるなど私を支援してくれた。散歩の時、高齢者患者の影響もあり神田古書店街で世界の伝統芸能の仮面の本と日本の仏像の写真集に興味を持ち父が買ってくれた。同時に、神尾耳鼻科病院の裏にある旅館の女将さんだった高齢女性の患者さんが東京大空襲の時、旅館前の祠の観音菩薩像を守り抜いたことを聞き、お参りするようになり、周囲が「宗教関連の文化財」がいくつもあり、「文化財」に興味を持つようになった。同時に夜のロードショー番組で放送されていた〈平成狸合戦ぽんぽこ〉(高畑勲 ジブリ)や日本昔ばなしの仏教説話に興味を持つようになり、研究テーマである近代以前の生命倫理と生物多様性につながっていく。

引きこもりを経験し、「浄土往生」を請願する

その後、平日だけ祖父母の家に引き取られた。相変わらず同じ託児所へ連れて行かれ、私はとうとう通園拒否をするようになり引きこもりになった。昼寝の時の虐待に加え、オウム事件の影響によってムスリムの同級生を除いて仏教徒の私に対する保育士の虐待がはじまった。少しでも仏像の造形の解剖学的なおかしさなどを語ればバカにされたり、昼寝できなかったことのこじつけにされた。かつ昼寝の時昼食が遅い同級生を早食いさせようと囃し立て虐待し、虐待の脇で同級生の悪口を保育士同士が話し合い親の連絡帳に記載、私たち園児が配給されるおやつを食べるのに園児が寝静まるこのときにアイスクリームを食べるなど、託児所の為政者の不正を経験してきた。虐待が常日頃あった。通園拒否をした時、頓珍漢な両親はスイミングスクールの乳幼児コースに通わせ水泳方法の教育ではなく親が子供を水責めにすることが正しいと教えるものだった。
家に帰れば、中学に入るまで障害者だからという理由で医師である両親の仕事仲間の受付である乳母に私個人の自由は常に「監視」されていた。
社会を見渡せば体罰の合法化された中学・高校で若者が荒み、渋谷で屯し、公共の場で迷惑行為をするガングロやカラーギャングとなり、大豪邸だった祖父母の家と家の外の貧富の格差そして教育の腐敗といった、社会や私個人の未来に不安を感じていた。中学生になるまで地域の子供たちの人間関係も作ることができなかった。私は戦隊モノの影響でカラテが強くなれば幸せと考えるようになってきたが、実際には私の人生はゴミだとおもった。いまだに私は子供時代の虐待による精神障害に苦しんでいる。母が私の研究の失敗について言えばPTSDによって母の胸ぐらをつかんだりしてしまう。
 毎週水曜日、祖父の鳩子が勤行しに祖父母の家へ来てくれた。彼女は幼い時、病弱で学校に行けず曽祖母の影響で二十歳前に「心」いうなれば日本仏教倫理を学べば幸福になると立正佼成会に入信するようになった。私は彼女に諭され仏教を学ぶようになった。このとき、インディジョーンズの影響やインド仏教史跡、シルクロードのドキュメンタリー番組で史学に興味を持つようになった。学校教育のおかしさを感じるようになり私の「生涯学習」が始まった。
 5歳になったばかりの翌月の年末に私はNHK「ブッダおいなる旅路」を両親に録画してもらい、擦り切れるまで鑑賞していた。このテレビドキュメンタリーには釈尊誕生のインドから中国・東南アジアに伝播する経緯とその思想史になぞって現代アジアの仏教徒が人生の危機に釈尊の生き方にすがり人生を乗り越える姿が描かれていた。このアジアの人々には中国の孤児やミャンマー人乳児の「死」と死体、アフガニスタンの地雷原にあるバーミヤン大仏を死守しようとする「少年兵」、乳児と死別したインド人母親の葬式と母の亡骸そしてタイの非行少年一家、HIVホスピス入居者同志の結婚が紹介され仏教の人生観である「生死」が描かれていた。私はこの時、人生捨てたものではない、彼らとともに「往生」を遂げようと誓願してきた。
週末には、歴史を学ぶために博物館に行くか自社仏閣か成田山新勝寺の阿羅漢に会おうと成田へ行ってきた。毎週末に放送されていた世界中の生地巡礼を紹介したドキュメンタリーも必ず見ていた。レンタルビデオ屋でアニメと共に東映の平安・鎌倉仏教高僧シリーズを借りるようになり、私は戦隊ヒーロより大阿羅漢になりたいと思うようになった。私の発達心理と悟りのプロセスとの泥試合、精神科医である両親の私に対する宗教妄想・宗教=狂気の懸念との戦いが始まった。
 5歳の初夏、過度な教育及び教育虐待が行われている長野県出身の母は毎朝、高僧に合わせると嘘ついて託児所に私をぶちこむようになった。「ニンテンドー64」の所持と公文の通所で私をこき下ろす同級生に怒りを感じ、引き続き「世界不思議発見」やNHK教育番組、博物館で自学自習するようになった。この時、大正自由教育に影響を受けた平成の生き仏である西村公朝の教育番組を手本に仏像や仏画を描くようになった。

文化人類学に出会った学童期

両親は私が望まない北千住の公立小学校に入学させ教育虐待をしてきた。二年生まで相変わらず教師による宗教弾圧や宗教教育を禁止する公立のため私を同級生がバカにしてきた。ペットが死んだ時、私が読経すればバカにし、近代以前の仏教の世界観に基づく動物分類に基づいて妖怪を彫塑すれば教師が吊し上げてきた。「慎吾ママ」という「オカマ」の踊りを強要され、体育祭でらされ、嫌がっている同級生も私も吊し上げられた。中学入学まで障害者ということもあって母が付き添っていた。けどこのような虐待に母は無関心でサイコパスであった。「信教、言論の自由」「学習権」がなかった。そこに争うかのように父と沖縄サミットや石垣出身の保健室の先生の影響で琉球語と琉球民謡を覚えるようになった。というのも父は琉球処分直後生まれの高齢者を沖縄の精神科病院でケアしていた。現地語を覚えようと「りんけんばんど」のCDを持っており私に聞かせてくれた。その時から和人による琉球の支配に心を痛め「植民地」と植民地に抵抗する文化活動と教育、そして旅費がなかったので少数民族の児童文学に興味を持つようになった。

3年生になって暴君たる担任から別の先生になり、この2年間だけ担任の虐待がなかった。この時期、世界四大文明が世界6大文明へと変更となり、上野でメソアメリカの企画展があった。この展示で文明が崩壊しても当時の習俗、地域社会システムが根強く生きていることにおどろき、「近代」「植民地」「文化人類学」に興味を持つようになった。父はマヤ族の国グアテマラに住む父の鳩子にあわしてくれた。彼は高校まで引きこもりを経験しバックパッカーとして世界を回り現在、マヤ文明考古学者の通訳や観光会社「イツモトラベル」https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://istmotravel.com/%3Fpage_id%3D12&ved=2ahUKEwjG07WeqcuFAxUJr1YBHQQdDSgQFnoECBYQAQ&usg=AOvVaw3E8jZ2o3YeJJbNbMKA9OWYを運営している。偶然にも彼のようなキャリアを描くドキュメンタリー番組「世界ウルルン滞在記」や「鉄腕DASH」が放送されており、毎週欠かさず視聴するかテレビの電波対応の浴室用ラジオで欠かさず視聴していた。そのときの親友の1人は私が当時通院していた医科歯科大学のタイ人歯科技工士のチサヌさんだった。
その時一番好きだった科目は図画工作であった。なぜなら、そこの教師が曹洞宗の寺族で倫理、哲学に造形が深く、かつ土器を作ることができた。現在この教師はバリ島で隠遁生活を行なっており、ときおり電話がかかってくる。またすきな映画は「アボリジニの教育虐待」の史実を描いた《裸足の1500マイル》であった。骨折をしてしまい入院の間、父がキャンプ雑誌ビーパルを渡してくれて、手工芸や先住民の連載に興味を持つようになった。小学5年生になって担任が変わり学級崩壊を経験した。けれども夏休み前の公立図書館司書の読み聞かせで「文化人類学」と関野良治先生が紹介された。いつか父の鳩子のように海外で活躍するようになりたいと思うようになった。関野先生のドキュメンタリーでチリの先住民族言語ヤーガン語話者は植民地支配で撮影当時たった2人しかいないということを知り危機感を感じた。小学6年になり、思想言論の自由を保証してくれる新しい担任に変わり、朝のスピーチでヤーガン語の危機を話し同級生から拍手喝采をもらった。

中学・高校で仏教学を本格的に学ぶ

この当時、まだアイヌ教育科専門の中学、高校はなかった。そこで大和民族の文化教育をうけると考え違いをして世田谷区にある日本学園(現在、明治大学付属高校)という右翼の色が強い学校へ行った。今となれば滑稽である。というのも私の従兄弟が当時としては非常に裕福な生活をしていた。ケーブルテレビやインターネットが通った家にすみ輸入食品に親しみビーグル犬を飼っていた。そして世田谷区の二子玉川に住む「ニコタママダム」一家である。私がいた当時の小菅周辺は交通の近代化によって被差別部落との距離が縮まり、相対性貧困のスラム街化し被差別部落から逃げたいと考えていた。かつ小学校の時の放送大学講義(TV)で「プレーパーク」という屋外児童館・児童向けデイキャンプ場が紹介されいつかそこに越したいと考えていた。

幸いにも私が引っ越した場所は羽根木プレーパークや町人学者・市民学会である下北沢のダーウィンルームの隣だった。そこで和光大学の関根ひでき先生というアイアム冒険少年の裏方、ビーパルのライターに出会い、後に和光大学に入学するきっかけの一つになった。そこで地域の同世代の友達や近隣住民との関係が増えてきた。鍛冶屋だった母の家族の影響でナイフをよく作っていた。
学校では宮沢賢治の思想研究の課題や京都修学旅行前の準備として仏教学概論の輪読や修学旅行の坐禅が提供された。そこで建仁寺の堂守である植松老師に出会い「理性の限界」とは何かという考案を授かった。コロナ流行までまで座禅によく打ち込んでいた。この考案は私の仏教文化における自然環境を含めた文化財保護の意義とは何かという研究テーマに繋がった。部活では美術部に入り文化人類学における諏訪神道の自然観と近代の環境破壊をテーマに油絵を描きコンクールで入賞した。同時に私は校内では性的マイノリティ学生への虐待・傷害沙汰、相対性貧困による学生の非行などを経験した。私は非常に心を痛めた。忘れ物の回数の頻発、吐き気、抑うつ、乖離に悩まされていた。高校2年に時に立正佼成会の親戚にひさしぶりにであい幼いときの私のことを語って忘れていた浄土往生の想いを思い出させてくれた。思い出した日の前日、コンビニの雑誌を立ち読みし渋谷区の上座部仏教寺院が紹介されていた。小学四年生の時、TOKIOの禅心理実験番組で紹介されていた某外国人僧侶の寺院であった。私は望みをかけて入信し座禅に打ち込み、原始仏典を学んだ。

最初の大学生活で曹洞宗の生き仏と在日タイ人コミュニティに出会う

私は関野良治先生に教わりたいと武蔵美をAO入試で受けたがその当時、まだ関野先生が正規の教授でなかったために入学できなかった。新宿の美術予備校の先生の機転をきかせて、アジアの文化に強い和光大学に入学した。
そこで在日チベット人の非常勤講師や仏教学講義の非常勤講師と交流するようになり、私が入信していた某上座部寺院の歪な近代思想に基づく「大乗否仏説」、密教への偏見に違和感を感じ、そこの僧侶と揉めた挙句に脱会した。また陶芸部に入部したがOBの校内不法占拠を背景に運営されOBによる新入生へのいじめの被害にあった。さらに近代化を伴う美術の学術教育の腐敗として強姦を描いた作品や牛のホルマリン漬けが美しいという教授が就任し、ハラスメントが横行されていた。クラスメイトは30人中2、3人が発達障害の傾向があり、教授らが障害の理解がなくほっとかれていた。
今まで経験した人心の荒廃の経験の辛さゆえに、仏教学講義の教科書の著者に仏門を叩き仏弟子となった。この師匠とは駒澤大学名誉学長・曹洞宗永平寺西堂奈良康明先生(大雲和尚)であった。最初にであったあの日のことは奈良老師の書籍「説戒」に書かれている。私はひどく「よく鬱状態」であった。その時、老師は学生時代にインドへ留学し釈尊に坐禅の型を教えたヨーガ集団の系譜にある1人のインド人仙人に出会い彼らの習慣や修行方法を学び、仙人から教わった床に座って黙って観音菩薩像の前で合唱するという行法を教えてくれた。型を習って内面を鍛えるという禅の基本を教えてくれた。
 私は原始仏典を教える寺院を新しく探す必要があり奈良老師の寺とそこの近所にある新興タイ上座部宗派タンマガーイ寺へ入信した。毎週末、奈良老師のインド仏教、正法眼蔵の講義、大学教育問題、倫理学を学び、毎週日曜日には自転車に乗り駒澤大学の留学生だったタンマガーイ寺のタイ人住職に異文化交流活動、タイの公立学校におけるメンタルケアとしての仏教教育、タイ語、グローバル社会の宗教を学んだ。私はGDHの《セブンサムシング》を用いてタイ人の生き方としての仏教や青年発達心理と涅槃のプロセスを卒論で明らかにした。このころタイ人住職から賢者:Nalavitというタイ語名を授かり私の誇りとなった。

初めての海外旅行

卒業のころ私がアルバイトしていたセブンイレブンで深刻な問題が起きた。それは地方にある他の視点で労基を無視したセブンイレブン独自の労基で過労死として組織的な殺人が起き退職した。同時に私が所属した芸術学部の教育の腐敗もありキャリア形成が困難になった。ましてや障害があるため就労が困難であった。

論文を書いたものの次のステップへ繋がらないと感じ、高祖父が内蒙古の仏教文化財を守った日本兵だったことや和光のモンゴル人非常勤講師の影響でモンゴルへ行き高祖父の教え子だったモンゴル人高齢男性を探しにタンマガーイ寺ウランバートル別院の宣教師の協力のもとで行ってきた。その時共産主義から資本・民主主義社会の移行へ取り残された遊牧民のスラム街や文化財である仏教寺院、社会主義のラマを守ろうとした農林水産大臣の邸宅の破壊、ウランバートル郊外の遊牧民を展示する人間動物園を体験してきた。私は文化財保護は地球環境を守れるのではという問いを立てた。また宣教師が紹介したホストファミリーの女の子はJICAの低所得者向け日本語講座を学んでいたが、JICA上層部及びモンゴル政府のせいでこの教室が廃止となり社会的弱者の「学習権」が踏みいじられているのを知った。
 私はウランバートル郊外の遊牧民のゲルにて仏教及びシャーマニズムの世界観とその日常における仏教的生活規範を表した装飾を撮影した。帰国後に奈良老師に会い、この写真を見せた。「世界には近代化により搾取される人々がいる。記録を取りなさい」と語った。この日は仏教の幸福論がテーマで仏教の自然観と生物多様性、悟りのプロセスであり、奈良老師の人生最後の講義であった。
「及ばずながら然りやれ」奈良老師
目の前のなすべきことを黙々となすことは悟りのプロセスであり、涅槃とはプロセスをふむ自己に対して忘我となり、時折プロセスの契機をリマインドし続けることを死ぬまでやりとげることである。自らの慮りを知る心はチッター:「精神」と呼ばれこの精神を育てることは慈悲でありこの慈悲を全ての生命に与えることは全ての教師となり仏教の幸福追求権である。その幸福追は生物多様性である。

初めてのタイ

翌年、そして仏教という生き方としての生涯教育と生物多様を社会に訴えてきた奈良老師の思いを引き継ぎ、タイへ行った。田中忠治『新タイ事情』上にある冷戦期の王室による農民の搾取の背景となった近代以前のタイの世界観・環境思想と近代化の軋轢を手がかりに、大量絶滅がある現代の地球におけるタイの現状を知るために行った。そこでノンタブリー県クレット島のモンにであった。そこで驚いたのはモンの陶磁器産業が緑地保全につながり野生のフクロウがいるほど生物多様性な環境が守られてきたことである。初めてのタイでの様々な体験は次回以降話す。

2度目のタイ JICAの開発プロジェクトが絡む近代植民地構造が反映された都市開発 

帰国後に彼らの言語の危機やお土産の陶器の質が悪い問題を知りもう一度タイへ行った。和光のモンゴル人非常勤講師の遊牧民に対する政府の搾取の研究手法を手がかりに、行政の都市開発をキーワードに調査してきた。私はその時、タイ語が上手ではないため景観に着目して実地調査をしてきた。
まずBTSといった鉄道は日本のODA=JICAが開発を進めており、土地の利便性が発展することによってモンではない人々が増えてモンの文化が追いやられる危機を見てきた。そしてこの郊外には「火力発電プラント」があり「地球温暖化」と「光化学スモッグ」の原因となっている。このような問題はタイに限らずJICAのモザンビーク共和国の農業開発でも先住民が追い立てられてきた。そもそもJICAの系譜を辿ると旧日本軍とくに中野陸軍学校=スパイ学校の関係者が創設した団体である。日本政府の都合のいい近代化の開発のために他国を懐柔し生物を含むマイノリティの搾取が行われいないだろうか。なお私はジャイカ上層部をイカサマJICAと呼びJICA関係者から干されている。
次にモンはかつて古代の終わりのカンボジアとの戦争で一旦ミャンマーへ逃げてミャンマーに王国を建国し、この王国が崩壊したあと近世に元々いたタイへ戻ってきた。このためバンコク郊外の彼らが元々タイにいた先住民であることを否定する「ビルマ人」や「山岳民族」「都会に先住民・少数民族はいない」という差別的な言説がタイ人(シャム人)のなかで日常で言われている。カオサンやナコパトムには先住民のアイデンティティとなるモンの古代史跡があり市民活動年として彼らの史跡活用と史跡教育が求められている。日本の極右が韓国人に朝鮮人と罵るのとにている。
1970年代に社会主義だったタイの周辺国と隣接する地方のタイの少数民族だけが先住民として認められ手厚い国際ボランティアが行われ、都市部の少数民族だけが取り残され歪な植民地の構造が形成されてきた。バンコクの都市開発に着目すれば常にバンコクの防災政策は近代化を求める都心民を守るためであり、毎年10月の浮には軍政によってダムが崩壊するという口実でダム放水されクレットのモン族は常に苦しめられている。文化を守るために観光開発したもののタイ政府の利益誘導でモン主体の文化教育は形骸化されかつある日本人留学生がこの島の観光開発は災害復興として島民であるタイ人=シャム人によって行われたと朝日新聞で印象操作を行なった疑いがある。クレット島のモンは問題を観光地開発で無かったことにされてきた。都市=理性・近代VS地方=未開・野蛮という植民地構造の狭間におり板挟みされており、そしてこのような植民地思想がバンコクの都市開発デザインには反映されている。

今後の歩み


コロナ感染が起きる一年前にこの惨劇を両親は理解できず両親によって強制的に帰国となりしばらく狂ってしまった。そのとき私は家庭に追い立てられかつ反社会的な芸術活動をする美大生にたかられてしまいしばらく精神科病棟で生活することになってしまい、医者のいじめのせいで狂ってしまい現地の資料を無くしてしまった。このとき発達障害と診断された。しかし精神科の人種差別ではないだろかと疑っている

しかしながら日本の先行研究論文を読むとクレット島の少数民族モン族を守るならば教師としての博物館学芸員や地元民であるモンの人々が経営する私営博物館の再経営が必要だと指摘されている。あながち先住民の国連宣言といった国際的な先住民人権保護の規約には先住民の地位向上には教育が必要でありその第一歩として社会教育のために先住民・少数民族主体の博物館経営そしてゆくゆくは先住民立大学・公立学校の設立が記載されている。かつこの文化活動を介して環境保全が期待されている。
幸いにも私は先住民の博物館教育を学芸員資格として提供する放送大学に再入学しており、再来年までには日本の学芸員資格が取れる予定である。この資格を取得したらタイ語留学を足掛かりにタイの大学に転学し現地の学芸員に資格をとる予定である


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