電動石臼製粉機を陶芸用として使う

メルカリで臼を買ったものの、使い方も分からなかった。ましてや臼を使った江戸期の鉱物資源、陶土の粉砕方は1970年代ごろには途絶えてしまい、手近な文献で探すことも困難である。今では愛知県瀬戸の窯屋のにはには当時の臼が壁材や庭石としてゴロゴロと存在するだけである。

一袋25キロもある木節粘土、16袋およそ1トンのうち残りの8袋をギックリ腰、疲労による嘔吐しないように作業をすすめる必要がある。指先度の乾いた粘土粒を石臼に入れたが、途中から目詰まりしてしまう。袋の半分を製粉にするのに6時間以上かかってしまう。本当に困ったものである。
 そこで目立て(臼の刃研ぎ)をし魔改造が、失敗し端っこがかけてしまった。色々と粘土粒の詰めかたを模索していくうちに、前回ギックリ腰の原因となった鉱物用金属製手回し臼と電動石臼の併用を使おうと考えた。一番荒い粒になるようにこの臼のネジを回して調節し少し大きい蕎麦の種ほどの粘土粒に砕き添えろえた。この粒を石臼に入れたところボツボツ!真空管ラジオのチューニングの音がした。石臼のかけたところから毎5秒ごとに大さじ半分ほどの粉がでた。朝9時から初めて午後5時ごろ25キロの製粉が終わった。昨日から製粉していたので、2袋を製粉した。

今回は両親が叔父の葬儀に出ていたため、1人でやった。私は過去の苦労を思い出し自分1人で体を壊さずできたこと、製造方法の答えを自分で足したことに喜びを覚えた。

①鉄分が少ない白い陶土の礫と粉と粒を篩で分ける
②礫を粒になるよう金槌で砕く。
③もともとの粒と金槌で拵えた粒を鉱物粉砕用金臼で5ミリ程度の粒に揃え陶土の粉を作る
④粒を石臼で磨る
⑤籾殻と砂とシャモトを陶土の粉に入れる。できれば水酸化アルミニウムを添加
⑥ タライの中にシーツをしき⑤の粉を包み、布の「ベクトル」で土をひっくり返しながら足で練る
⑦木型で整形
⑧1ヶ月かけて日干しし、700度で焼成

次回から①〜③と⑥を手伝ってもらうようにお願いすれば、、もっと簡単にできる。

いろはうた

 そのとき実話であるインド映画《パッドマン》の主人公であるラクシュミカント・チャウハン - アクシャイ・クマールを思い出した。彼はカースト制度、インド哲学特有の(歪な)不浄観、性差別を背景に低所得者むけ低価格生理用品を発明した。彼も周囲から罵倒されたり、変人扱いされ周囲にいじめられたり、製造方法で10年以上悩んでいた。サンプルを入手して製綿工場で生理ナプキンの成分を分析したり、板金屋の経験を生かして数百万もする製造機を買わないで自分自身で作ってしまった。大学教授や企業の成分分析研究所の手伝いがあったものの自分1人で方法を発明したけども、驚くのは大卒出なくとも真面目に悩み悩みまくり諦めず「プロセス」をしっかりと歩むことで世界を救えると証明した。生理と女性差別で苦しむ女性を自ら救ってきた。
私は簡単に粘土を粉砕できた時、クレット島やミャンマーのモンの文化や彼らの文化が生成してきた自然環境を守れると確信した。同時に精神科医である母が指導していた医僧である川野秦周禅師とキャリア相談で喧嘩したこと、福島釉薬で働いていた先輩、多くの学芸員、陶工に「不可能」だと言われたこと、美大生を介して人工(にんく)を雇ったら知的障害の傾向がある美大生に作業をめちゃくちゃにされたこと、さまざまな苦悩、罪悪感、後悔そしてこの苦悩と罪悪感と後悔を乗り越えたことを実感してきた。

「あたためていきなさい」川野秦周禅師


これを投げかけれれたのは、公立学校での宗教弾圧の経験やタイと比べてひどい宗教倫理教育を禁止した公立義務教育を背景に大学院入試とタイ料理屋のアルバイト面接での排他的な言動などの末に自死未遂した直後だった。「先住民教育」にむけた「学芸員資格」さえ早くしっていれば、川野禅師と喧嘩せずに済んだ。喧嘩の直前後に言われた「あたためていきなさい」は今となれば私の考案であった。ただし臨済では決まった形式の禅問答がある。しかし曹洞宗では人生で感じた「矛盾」や「苦悩」の出来事が仏教哲学の命題つまり禅問答と考え僧侶の養成をする。つまり禅僧の教育方法が違うけど、僧侶に限らず誰でも自らの命が生きているこの瞬間瞬間に「禅問答」があり、自ら(の人生)が禅問答である。

ー「なぜ生きる どう生きる?」ー


「あたためる」とは困難に苦しみ悩めば悩むほど、自己の首を垂れれば垂れるほど目的に向かって挑戦することである。「仏道」であり、菩薩や仏にさせていただく。慈悲であり、「菩薩の倫理」である。喜びにこだわれば自滅の道へ行ってしまう。常にニュートラルであるべきである。つまり世界の仏教に精通する生き方の方針、いわゆる日本仏教でいう「いろは歌」の内容である。

 また製粉ができたとき、母の実家の近くにあった陶芸教室の恩師の死別を思い出した。というのも山奥で1人で陶芸教室を経営し、過労で心臓を悪くし山奥であるがゆえに自宅の風呂場の浴槽でヒートショックで他界してしまった。和光大学の陶芸部長のいじめと「協調性障害」で苦しんでいた私を助け、タイ帰国後に一緒にモンの窯を研究していた。なぜそんなことを思い出したのだろうかとおもった。それは頑張りすぎて死ぬのではなく、ほどほど「その場に合わせた中道」に生きていくつまり、全ての生活行為が自他の命を大事にし自他の命を「習う」ためにある。休むことも「命を習う」ことである。先に逝ってしまった恩師ができなかったことと業績を自分なりに引き継いで生きていきたい。

しかし疲労で嘔吐してしまった。疲れて過去の辛い記憶が鮮明に浮かんでしまう。仕舞いには学友の言動に「過覚醒」となり、タイ語学校やインカレサークルの人間関係がこじれそうで不安になる。他者の言動や周囲の刺激に水晶のように心身を凛としなければと感じる。しばらく他人と付き合うこともなかった故に、自らの暗い過去の記憶と向き合う。児童虐待を経験した大方の成人は「どう生きるか」「なぜ生きる」で悩む。自らの暗い過去に向き合うとは「自己を習う」ことでもある。私は今のPTSDによる苦しみで止まるのではなく、この経験を自他の存在の苦を抜き楽を与えることに活かそうと考える。同時に、坐禅を続けるありがたさを感じる。世の中が因果関係で成りたつならば、苦しさがあるから自らの考案を答えようとし、座禅しようとするのだろう。あるいは今、ヒトはこの瞬間を生きる今の境遇に感謝するのだろう。今夜はしっかり休もう。

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