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中高年かーさんの徒然日記 叔母の危篤に立会う

電車で一時間半。
海辺の街に住む叔母は、3年前に脳溢血で倒れた。

以来、寝たきりでホスピスに入っている。

その叔母が危篤だというので、とるものもとりあえず電車に飛び乗った。

入院中は、コロナを理由に一度も面会を許されなかったので、会えるということは危篤なのだ。移動の車中はドキドキが止まらなかった。

受付で手続きを済ませ、検温をして3年ぶりの叔母に会う。

ずっと会いたかった。
ほんとにずーっと会いたかった、、、。

やっとやっと会えた叔母は、完全な老婆になっていた。

白髪が枕に放射状に広がり、口には酸素マスクをつけていた。
肌艶だけが妙に良いが、眼光は弱々しく、かろうじて呼吸をしているようだ。

それでも会えたのがうれしくて、
「やっと会えた、、、」と、随分やつれた頬を撫でた。血液が回りきっていないのか、若干冷たい。
あぁ、確かに終わりが近のかもしれない。

最後にあったのは5年前。

次男がまだ6ヶ月くらいのときだった。
80歳を目前に、つけまつげに真紅のネイル、とおしゃれに決め込んだ叔母は次男を抱き上げたり離乳食を与えたりしてくれていた。

私が小さいときは、会うと決まって我々きょうだいのズボンを思いっきり引き揚げ て、下着上着もろともズボンにしまってくれた。
故に、叔母=ズボンを引き揚げる人。

それから何十年も経ち母になった5年前のわたしは、「子どもたちのズボンをあげに、またきてね!」と冗談交じりに別れた。

今で言う「オシ」、かつてで言うところの「おっかけ」の話を意気揚々としてくれたのもこのときだった。

今は短い面会を済ませ、我が子のお迎えに行くための電車に乗っている。
ポイント通過の振動を感じながら目を閉じる。

とてつもなく、悲しい。
叔母に、自分の子供達のズボンを揚げてもらうことは、きっともうない、、、。

この数年で、私は3人の子供を産んだ。

その間9年、増していくばかりのエネルギーの塊と対峙する日々だった。
消えゆく命と向き合う今日のような出来事は、私の日常とあまりにもギャップがありすぎて現実世界と思えないままでいる。

人は生まれて必ず死ぬ。

育児中はそんなことには気が回らない。
目の前の困りごとばかりに気がいってしまうから、「幸せ3割、辛いが7割」といったところかもしれない。

長い生命の循環においては、我が子であっても、ほんのひとときをともにしている伴走者にすぎないのだ。
ならば、できる限り摩擦なく楽しくなめらかに過ごしたい。

そしてできることなら、孫の顔を見るくらいまでは健康で長生きし、最期は「ありがとう」と言って見送られたい。

そのために今日の私は、あしたの私は何をすべきか。

身近な人に近づく終りのときは、そういうことを教えてくれる。

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