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山極寿一『共感革命』を読む

山極壽一著『共感革命』を読んだ。

山極氏は霊長類学者でとくにゴリラ研究の世界的権威とされる人物だ。2014年から2021年まで京大総長を務めた。

僕自身も、山極先生が総長に選ばれる直前、一般教養の授業をいちどだけ受けたことがある。教科書を説明するだけの講義だったので、先生自身もつまらなさそうに授業されていた記憶がある。自分の仕事場はこんな狭苦しい教室じゃなくてゴリラのいるフィールドなんだと言わんばかりの何かが伝わってきて、逆になんか京大らしくていいなと好感を抱いたのを覚えている。

今回は、この書籍を読みながらあれこれ考えたことを、批判的に少しまとめておきたいと思う。


人類の間違いのもとは、 言語と定住にある?

現在、地球上で最も繁栄している生き物と言っていい人類だが、山極氏は、人類がなぜここまで進化したかについて、共感というキーワードを挙げる。人類の特異さをその言語能力に求める声も根強い一方で、山極氏は、言語獲得よりも先に、「共感革命」とでも呼ぶべき画期があったのだと主張する。「『共感革命』こそが、人類史上最大の革命だったのではないか」(p.3)。氏によれば、初期の人類は、森を出て直立二足歩行になったことで、咽頭が下がって発声能力が向上し、音楽やダンスを通じて共鳴的・感応的身体が出来上がった。そうして人類は共感力を発達させていったのだと。

「共感」こそが人類進化の推進力だった。しかし、共感力を高めた人類は、進化の過程である間違いを犯したと山極氏はいう。言語獲得と定住農耕の開始である。

人類の間違いのもとは、 言葉の獲得と、農耕牧畜による食糧生産と定住にある。

『共感革命』p.41

言語獲得と定住農耕の開始によって、人類の共感力は「暴走」するようになった。言葉によって世界を分断し、農耕や牧畜を生業にしながら定住が進むと、支配被支配、持てるもの持たざるものの格差が発生し、国家権力が正当化されるようになっていった。人類にもともと備わっていた共感力が、言語と定住という舞台装置の上で次第に変調をきたし、暴走するようになってしまった。その壮大な末路が、現代のウクライナ戦争であり、地球環境破壊であり、資本主義による地域社会の崩壊だと山極氏はいう。

元来、土地は誰のものでもなかった。どうやら、山極氏は定住という出来事を、人間の幼稚で醜いエゴイズムの表れと見ている節がある。土地への執着や固執がよくないと随所で述べている。

しかし一方で、定住すなわち土地の所有という出来事を、別の角度から見つめる必要もありそうに思う。山極氏はアフリカ辺境奥地の狩猟採集民を例に挙げて、彼らがいかに平等で争いのない社会を構築できているかを強調するのだが、そういうのを読みながら、「でも彼らがたとえば東京やニューヨークのような大都会に放り出されたら、『これは俺のもんだ!』と必死で資源を守りにかかるんじゃないのかなあ」などと考える。

なんというか、彼ら現代の狩猟採集民が比較的平和にうまくやれている(ように見える)のは、彼らが、都市に定住する「道を誤った」現代人と比べて、人類として正しい生き方をしているからというよりも、エゴイズムや暴力性がたまたま顕在化しづらい環境に幸運にも居られているからではないだろうか。

土地の所有は、人間のエゴイズムや社会の格差が表れる局面ではあるが、より根源的なレベルでは、「それ以上動くなよ、そこで満足してくれよ」という倫理的命題であったようにも思う。定住による土地の所有は、特権というよりは、全世界を所有するわけにはいかないという「去勢現象」として理解すべきではないか。

そもそも、現代世界には人類が80億とかいるわけだ。何百万年も前、我々の祖先が地球上を自由に遊動生活していた頃、人口は1億どころか1000万、いや100万もいなかっただろう。狩猟採集生活というのは、それくらいのスケール感でのみ持続可能だったのかもしれない。

人口が増えると、というか定住農耕が人口増加を促すと、最低限でいいから俺の取り分を保証してくれという声が高まる。遊動的に狩猟採集したくても、どこに行っても「先客がいる」ような状況では、みな守りに入りがちになる。遊動生活が楽しくて充実するのはあくまで「スカスカ」だからであって、逆に「ギュウギュウ」だったら、とりあえず自分の取り分を確保しようとする(定住化)。定住とか所有という現象も、だから、そういう資源背景を念頭に考察し直すべきではなかろうか。

「狩猟採集=平和/定住農耕=戦争」という単純な図式をあたかも引っ提げつつ、山極氏は別の箇所で、人間の集団サイズは上限150人みたいな話もしているが、今の80億の地球人口が、150人スケールで無数の集団を形成して遊動生活スタイルを始めたら、ウクライナやハマスどころじゃなく戦争が多発するのではないか。言語を用い、定住生活をしているからこそ、戦争は「この程度」で済んでいると考える余地を残しておかないといけない。

氏が随所でエビデンスを挙げるように、太古の狩猟採集時代に我々の祖先があまり戦争をしなかったのが事実だとしても、それは、戦争や暴力に訴えるまでもないほど、地球上に人口が少なかった(衝突しそうになったら、空いてそうなエリアに逃げることができた)からではないだろうか。だんだん人口が増えて、遊動生活をしていて色々不都合が出てきたから、だんだん争いごとが発生するようになったし、争いごとが増えたからこそ、「君はそこ、あなたはそこ」と居住範囲を限定していった・・・という話の方がしっくりくる。


社会的現実を本性で説明することの限界

山極氏の思考では、元来、人類は共感力によって平和な社会を築いていたが、言語と定住という様式を手にしてから共感力が暴走するようになり、戦争や暴力の絶えない世の中になった(そして今に至る)という話になる。山極氏はしきりに「暴力や戦争は人間の本性ではない」と主張する。人類の本性はむしろ共感力にあるのだと。

しかし、人類の本性に暴力性が認められないとしても、現実に、戦争や暴力は存在する。本性とか本能に関わらず、あるものはあるのである。(百歩譲って)暴力が本性じゃなかったところで、すべてが解決するわけではない。逆に、本性でないにもかかわらず、なぜ戦争はなくならないのか。それは、戦争の有無という点に関して、本性というファクターが関与する度合いがそれほど高くないということではないか。むしろそう考える必要がある。

本性とか原理を明らかにすればすべてが解決するほど単純じゃないし、その単純じゃないところで頭を使わないといけない。だが、山極氏はその段になるとあまり解像度の高い話はしてくれない。

私は、長い狩猟採集生活を通じて人間の生存確率を高めるために必要だった共感力が、言葉の登場と定住化によって方向性を変えて力を増し、文明の発達とともに所有権を争う暴力となって噴出し始めたのではないかと考えている。つまり、人間の身体と同じく、自然との接点を失い、人工的な環境がコンフリクトを起こして、不協和音を発し始めているのが暴力だというわけである。

同上 p.169

本書の要約とでもいうべき一節だが、引っかかる表現がある。
「言葉の登場と定住化によって」や「文明の発達とともに」と簡単に書いているが、これらは原因ではなく結果なんじゃないかと想定する必要があると思うからだ。

つまり、そもそもなんで言語と定住を開始しないといけなかったか。その原因や背景を考えることこそ重要ではないか。

ある種の相関性として、文明の発達と戦争の増加にはパラレルなものがあるとする。しかし、もっと深く可能性を考えてみる必要があると思う。つまり、もし言語と定住というかたちで文明の発達が起きていなかったら、戦争と暴力はもっと酷いものになっていたんじゃないかという発想である。文明が発達したから、戦争や暴力はこの程度で済んでいるのかもしれないという想像力を働かせるべきなのではなかろうか。

言語と定住によって戦争や暴力が加速したのではなく、むしろそれらをちょっとでも緩和するために、言語と定住という様式が発明された。人類が狩猟採集生活をやめたのは、単純に人口が増えすぎて、狩猟採集生活を営むには、この地球がフレンドリーな場所じゃなくなったからだ。人間本性が暴力ではなく共感力にあったところで、そもそも山極氏が理想視するような遊動生活を全地球規模で営むことは不可能だろう。


新興宗教の説教師?

言語と定住がすべての悪であるかのような山極氏の議論だが、とはいえ希望がないわけではない。「人類の間違いのもとは、 言葉の獲得と、農耕牧畜による食糧生産と定住にある」としても、その末裔である現代人が、その暴力性を緩和しながら環境と調和して平和に暮らしていく手立てがどこかにあるのではないか。

山極氏が注目するのは日本人の自然観である。

気候変動や国際紛争が「激化」する今日、その根本的な要因は「個人の欲望の拡大を目指してきた資本主義優先の思考」(p.179)だと喝破する。そのうえで、「資本主義の基になっている還元主義的な考えを改めるべき」とし、西田幾多郎や今西錦司の思想を援用しながら、「自然も人も部分に切り分けられるものではなく、すべてがつながり合って影響を与え合っていると考えるべきなのである」(p.181)と山極氏は主張する。

山極氏が考える自然、そして西田や今西が抱いていた自然観が、世界的に妥当する普遍性を帯びているかはともかく、このあたりを読みながら、「全部がつながっているというなら、地球の『崩壊』とともに人類も一緒に滅びるのが筋なんじゃないか」などと捻くれたことを(どうしても)考えてしまう。少なくとも、西田や今西の自然観を援用するなら、「人類、滅びるときは滅びるしかない」という透徹した諦観に至ってもよかったのではないか。

一方、山極氏は、新興宗教の説教師か何かの如く「このままだと我々は滅びる!生き方を悔い改めよ!」とファッショナブルな気候変動終末論を説く。私は、そこが誠実じゃないと思う。

地球に対して人類が破壊的で迷惑な存在なのだとしたら、長い目で見れば、人類は滅亡というかたちで報いを受けて然るべきなのだろうし、受けるのが「すべてがつながり合って影響を与え合っている」という意味ではごく自然な成り行きではなかろうか。そういう方向で諦観めいた語りを洗練させていってもよかったし、私はそっちの方が、知的に誠実なんじゃないかなと思う。

山極氏の「地球崩壊論」に乗っかったとしても、問題は、世界が滅びるということではないだろう。滅びるとしたところで、今この瞬間を全力で生きないといけないことに変わりはないのだし、どうせ滅びるんだからと好き勝手して身近な人を疎かにするわけにはいかないのだ。諦観は絶望ではなく、むしろその諦観の先で、「私たちはどう生きるか」を峻厳に哲学していくことだ。本書は、その点であまりに不誠実で杜撰だった。一貫性のない雑な良いとこ取りでなんとなく体裁を整えた感じが終始支配的だった。残念だ。

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