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サードプレイス再考

新聞を読んでいると、サードプレイスの話が出てきた。

家でも職場でもなく、自由に交流を楽しみ、自分自身を取り戻す第三の場所、サードプレイス。具体的にイメージしやすいのは、街の居酒屋、バー、スナック、喫茶店あたりだろうか。スタバなんかも、この概念に刺激を受けて誕生したとも聞く。

ところで、「サードプレイス」って、非常に訴求力があって惹かれる言葉なんですが、一方で、それが肯定的に言及されるにつけ、折に触れて違和感を抱いてきたのも事実なんですよね。会話、交流、居場所、帰属意識、街・地域の活性化・・ざっとこんなフレーズとともに、いつもポジティブな雰囲気で言及される文脈がありますが、これについて、いちど批判的にまとめておかないといけないのではないか。

まあ、大した話ではないんですが、現代人は、よくいわれる街のカフェや酒場にではなく、スマホ・SNSにサードプレイスを見出しているんじゃないか。サードプレイシングな場の力学という観点で、これらに勝るものは現状ないんじゃないか、と。

サードプレイスという概念は、アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグが提案したもので、ざっくり、「会話が中心で、遊び心があって、とびきり居心地のいい場所」だと理解していいと思うんですが、

現代世界でこれに相当するものとして真っ先に思い浮かぶのは、たとえば、仕事から帰宅し、エアコンの効いた部屋でYouTubeのライブ配信に参加して、ビール飲みながら時々コメントやリプライを飛ばして楽しんでいる・・みたいな風景なんですよね。会話ができて、自由な遊び感覚があって、なにより「とびきり居心地がいい」という点でいえば、素直に、YouTubeをはじめとするネット・SNSのことを取り上げないでどうするんだと。

記事では、「息抜きの場」とか「趣味などで自由に交流できる場が求められている」などと書かれていますが、そういう場が現代社会にはあたかもすっぽり欠落しているかのような体でサードプレイスを殊更に推すのは、フェアじゃないのではないか。


あと、これも単純なことですが、街の酒場やカフェにたむろしている客は、そこがまさに(お墨付きの)サードプレイスだと思って通っているわけじゃないということですよね。

オルデンバーグも1980年代に、文字通り『サードプレイス』("The Great Good Place")という著書でこう書いてます。「大型テレビが、混雑した映画館に取って代わり、酒屋から買ってくる瓶ビールがパブ通いに、テレビの前での討論が酒場談義に取って代わる」(p.336)。ここからも推察できるように、そもそも彼のいうサードプレイス自体、「すでにもう失われつつある」という時代文脈の中で、懐古的に言及するしかない文化現象だったと思うんですよね。

懐古的、あるいは回顧的な言及になると、当然、「美化」の誘惑からは逃れがたくなりますが、でも実際、当時隆盛を極めていたとされるカフェや酒場って、そんなにいいものだったのかと。

たばこの煙はモクモク、酒の強要、悪ノリ、セクハラ、声のデカイやつが場を仕切る、政治談義が白熱しすぎて殴り合いに・・。

サードプレイスという「現象」が、人々の社会生活で不可欠な結節点として輝いていた時期があったにしても、実際にリアルタイムで、「だからサードプレイスは素晴らしい、君もそう思うだろう? わっはっは」なんていう人たちはいなかったし、いたとしたら地獄以外の何物でもない。

むしろ、「酒飲みながらYouTube」みたいな時空が現代の「サードプレイス」であるとしたら、それが現にリアルタイムではそこまで称揚されてない、なんなら自虐的に、多少後ろめたく言及されがちっていう状況は、それがまさに真正のサードプレイスとして機能している証拠かもしれません。


どうも、サードプレイスという概念は、生身の人間関係が希薄化し、共同体が廃れ、すべてが市場経済に組み込まれていくのが気に入らない一部のインテリ界隈が都合よく利用している感じがありますが、その現代版がどこでリニューアル・アップデートされてるかに注意を払うのも大事だと思うんですよね。人間的実存においてサードプレイスなるものがそんなに重要なら、たかが消費社会、情報社会の進展ごときで、人々がそれをみすみす諦めるなんてことはないはず。

思うんですが、その機能は今日、SNSが代替しているのではないか。サードプレイスという概念を、街・共同体・地域といった文脈から解放する。あるいは、そういう文脈に限定されないダイナミズムをもつ現象として、新たに解釈し直す。

サードプレイスを取り巻く政治的文脈をいったんカッコに入れて、「もしかすると現代は、老いも若きも、SNSを通じて歴史上最もサードプレイスに恵まれた時代かもしれない」という見立てを仮に持ってみてはどうか。


ひとが、街のスタイリッシュなカフェを、癒しと休息が得られるサードプレイスとして称揚するとき、一方ではSNSで、家や職場では許容されづらそうなぶっちゃけたノリで、政権に対する不平不満を垂れたり、芸能人のゴシップで盛り上がっていたり、パートナーへの怒りをぶつけていたりするのであれば、果たして、真正にサードプレイスとしてよく機能しているのはどっちなのか、と、思わずツッコミたくなってしまうのだ。

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