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『ぼっちな食卓』を読んで雑感など

岩村暢子さんの『ぼっちな食卓』という本を読ませてもらいながらぼんやり考えるんですが、

やっぱり、「家族」という制度は限界にきてるんじゃないかと。

われわれ現代人が、資本主義や市場経済の文脈で、世の中を豊かにしよう、便利にしよう、あるいは困っている人を助けようとすればするほど、市場の世界が強くなって、生活と共同体の世界はぼろぼろになる。

ぼろぼろになればなるほど、資本主義的善意(企業のサービス)への需要も高まる。そういう呪いが現代社会にはあるわけです。

生きていくためには家族が必要ってことと、生きていくためにはどっかに就職して稼ぐのが必要ってこととが、背反を起こしているんですね。

なので、基本的には、家族的・家庭的でなくても生きていける生活世界の姿というのが、目指されることになる。良い悪いは別として、世の中はそっちの方へ引っ張られ、あるいは邁進していく。「近くて便利」なコンビニが自炊を不要にしていったのはまさに象徴的でしょう。

その線で考えると、家庭という制度、枠自体が「人権侵害です」と Z 世代の次あたりにまとめて告発されるディストピアン?な景色も想像できる。介護とかもロボットが当たり前になるかもしれない。そっちのほうがラクで人間の尊厳も守られると感じる身体性がメジャーになってくると。

そうすると、社会パパ、社会ママという考え方がいっそう支配的になっていく。生殖・出産・子育て・教育・介護などは、リソースの差配を Uber のような AI のアルゴリズムにやらせ、個々のインターフェースでは、「資格保有者」による人力が活用されていく。投資も、AI や半導体の次はこういう「エッセンシャルワークの全面的社会事業化とその効率的運用」の方に向けられていくんじゃないか。

男女も性愛として一応くっつきはするけど、共同生活は耐えられないので、平安時代みたく通い婚、夜這いがスタンダードになっていく可能性もある。週末婚ともいうんですかね。

今の世の中を見ているかぎり、なんとなく、こんな方向に向かっていると考えるのが合理的な気がします。個人的に必ずしも良いとは思いませんが、次の世代が「社会をどういう感触で展望するか」は今の世代には想像不可能なところもあるので、大事な価値や資産を一方では伝えつつも、「まあでも好きにやっていいよ」と涼しく見守る胆力が必要になってくるんでしょうかね。うーむ、いやはや。

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