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はじめて京都に来たかのように

速水健朗さんのラジオを聴いていたら、オーバーツーリズム関連の話で、「実はぼく外国人がいっぱい来てるとこに入っていって歩いたりするの好きなんですよね」ということを喋っていて、共感するものがあった。

僕もなんだかんだ10年くらい京都に住んでいて、最近は毎日あちこち散歩をしているのだが、外国人が密集してひしめきあう有名な錦市場とか、けっこう好きでよく歩いたりする。

自分には見慣れた景色でも、外国人にとっては新鮮で真新しい景色だ。

自分がもし生まれて初めて京都に来たとしたら、これらの建物や風景はいったいどんなふうに映るのか。

そんな仮の視点で歩いてみると、街の見方も更新される。そして、実際にそれっぽい外国人の体温を近くで感じながら一緒に歩くとシンクロ感があってたのしいのだ。

京都という街の歴史的重層性に感動する外国人も多いと思う。

アフリカや中国の沿岸部のように、急激に近代化して、日本でいえば明治からいきなり平成・令和に飛んだみたいな発展を経験した国の観光客は、昭和があり、大正があり、かと思うと平安や室町まである京都の街並みを肌で体感して、やはり何か胸に来るものがあるのではないか・・と想像したりする。

(ちなみに錦市場に関しては、店のシャッターが降りて昼間の賑わいが嘘だったかのように閑散とした夜の時間帯なんか、酔い覚ましに歩くとなかなか風情があって好きである。自転車もスイスイ走っている)

あるいは鴨川を歩いていても、五条あたりですれ違うバックパックの外国人の精悍な風貌から、いろんなことを想像する。

ふつう、見知らぬ外国では多少緊張するものだと思うが、こと日本に関しては、自国で過ごしているときの方が緊張していることに気づく・・みたいなこともありえそうに思う。彼らは自国で、ああやって深呼吸してマインドフルな感じで街を出歩けていないのではないか。うっかりすると強盗や暴行に遭いかねない。そういうリスクを1%でも心の片隅に感じていれば、自然と身体に力が入り、呼吸も浅くなる。

すれ違う日本人も(僕みたいな)ヒョロい奴ばかりだし、治安も安心できる。遠い異国の地で「心の武装解除」をして陶然と歩く外国人は、うっかりするとみな哲学者か僧侶のように見えてしまう。でも、僕が外国人として日本に来たと想像したら、なるほどたしかにああやって自分と向き合うかのように集中して黙々と地を踏みしめ歩いているのではなかろうか。その可能性はリアルだ。

あと、これはとくに欧米の人に感じることだが、日本人以上に日本人らしく「アリガトウゴザイマス!」と行儀良くなんだか楽しげに挨拶しているのが印象的である。日本人が無意識に体現しているホスピタリティや愛嬌ある仕草を、せっかく来たんだから自分もやってみたい、ということか。感じのいい人間を演じること自体からくる癒やし。彼らは「日本人になりきる権利」を行使している。ちょうど日本人が海外に行くとはっちゃけて逸脱してしまうように。

散歩しながら、そんなことをあれこれ考える。


グローバル化の時代、観光客とまじって暮らすことは、感染症対策としても有効なのだと半ば真剣に考えてもいる。

よく、グローバル化の時代、ヒトとモノの移動が過剰になったせいで、新型コロナのようなパンデミックが発生してしまうみたいな話がなされるが、それは半分正しくて、半分間違いだと思う。

グローバル化の時代だからこそパンデミックが生じたが、同時に、まさにグローバル化の時代だからこそ、あの程度のパンデミックで済んだと考えるべきではないか。

グローバル化のせいで、ひとたび強毒なウイルスが発生すれば、それが瞬く間に世界中に広がって地獄絵図になってしまうという煽りはおそらくことを単純化しすぎで、もう少し解像度を上げると、多くの人体に広がれるほど弱いウイルスしか流行れないというのが実態に近い。

次のパンデミックはもっと弱い株で生じるだろう。弱ければ弱いほど騒ぎがいがある。「マジでヤバいやつ」が来たときは、騒ぐことすらできないのだ。

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