見出し画像

理解者が多いことでだいぶ変わる世界


理解者って結構大事で、そういう人と出かけるのと理解がない人と出かけるのは大きく違う。生活の質もだいぶ変化する。

私は大学生になった後の方が生活の質がだいぶ変わったと認識している。
先生も、友人も理解がある。
一方高校の時は誰にも言わず、先生も知っているんだろうけどまったくもって逆の方向性のお節介をしてきたり(それは合理的配慮という名目で行われたお節介であった。当事者の意見を反映しない支援だったから)、ちょっとでも外れてしまえば干されるかもしれないピリピリした環境だった。
考えてみると高校は保健室の先生以外はまったくもって理解がなかったのに対し、大学では理解がかなりあったという点である(学科の性質も関係してるかもだけど)。

私は都心部の激混みな駅に行くともうどこに向かえばいいのか、どうすればいいのかわからなくなる。それゆえにまったくもって逆の方向に行ってしまったりする。友人に「そっちじゃない~」と言われつつ緊張しつつ呼吸が浅くなりつつ、じんわりと怖いと思いつつ、エスコートされていく。友人はなんとなく「こいつは人ごみでどこかに行ってしまう」という理解があるからこのようになる。
一人だったら1時間が限界だが、何時間でもいられる。楽しさという生活の質を得られている。

一方、疲労感がわかりにくいゆえに、「あ、これはやばいぞ」と思うと他から見たらもう事案だったり、いつも大してない注意力がさらに低下して一つの課題に1時間かけるところが3時間かかっていたり、前日の夜に洗濯物を部屋に運んだけど翌日の朝には忘れていて「え!ない!ない!なんで?!」となったり、鞄に学生証入れ忘れて忘れたり、忘れたと思ったら実は持っていたカバンに入っていたりといったことがいつも以上に頻発し、日常生活がかなりめんどいものとなる。

このような状況で家では家族に期待している自分もいるが家訓は「自分で何とかしろ。互いに期待するな」といったようなTHE昭和の家庭といったようなものである。

家族からはあまり理解されていないため期待しても怒られるかイライラさせるかの二択でしかない
私はあいまいな「昨日の行動のなぞり返し」をしつつ不確かすぎる情報の中で探し物をすることになる。そして遅刻をする。

家族に理解があればこのようなことはしなくてもいいのかもしれない。と思う。
理解が少ないことで質の低下を起こしている例だと私は思う。

出かけるときはだいたい事情を知っている人と出かけることの方が多い(一方で家族とはそんなに出かけない)。
エスコートしてくれるのも非常にありがたい。理解があるというだけで世界は大きく広がる。

しかし、現状はそんなに甘くはない。

私たちが傷病名を伝えて理解や手助けを求めるとき多くの人に「それは甘えだ」と思われる可能性がある。
このような思いを抱かせないためにある程度の努力(演技でもいい)をするしかない。努力をしてもできないことがあるのにも関わらずである。本末転倒である。手助けを求めるために努力をするという状況。この状況自体が由々しい。
故に、私はただ処世術として息をするように演技をしていることの方が多い。そうでもしないと駄目な状況だからである。
バイト先には伝えずに勤務をしているが努力してそれでもできないことがあるということをわかってもらうためにある程度の努力(とそう見える演技)はして、それでようやく理解を得ながら勤務をさせてもらっている。
でもこれはかなりの負担を伴うのでやはり多少の理解が広まればいいのにと思う。

カミングアウトは紙一重な部分が少なからずある。嫌われるかもしれない、偏見にさらされるかも、クビになるかもといった様々な不安が付きまとう。

カミングアウトしなくてもなんとなく「このような傾向がありそうだな」ということを理解してもらえれば、世界は大きく変わっていくような気がしている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?