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もっとも不快なものってなんだろう

今日もごきげんよう♪MAIです^^

いつも快・不快・快・不快をとなえて久しいですが・・・今日は、私の中にあったもっとも不快なものって何だったかな~

について書こうと思います。

【参考記事】

結論からのべますね。

認められない(愛されてない)」ことを感じちゃうことが不快レベルまっくすだったかな、と思っています。

しかも自分自身にさえも(´⊙◞⊱◟⊙`)

モノから感じる不快(違和感/不潔/不自然/騒然など)や、

人から与えられた不快(嫌悪感/羞恥/怒りなど)や、

仕事上での不快(疲労/嫉妬/焦燥などなど)、

いろんな不快がありましたが

いっちばん苦しかった不快は、

「認められていない」「自分で自分を愛していない」ことを感じてしまうことだったかなぁと、今となっては思うわけです。

たとえば、

・この仕事をきっちりしないと、私は認められないかもしれない

・人の役に立たないと、私は認められないかもしれない

・明るくふるまわないと、私は愛されないかもしれない

・この人に嫌われたら、私は愛されない人間なのかもしれない

だから認められるために、愛されるために「がんばろう」。

でも

がんばったのに、いつまでも”快”で満たされないのは何故だろう、

という。

これが一番、自尊心にダメージを与えていた不快だったように思っています。

なぜなら「〇〇したら」「〇〇なら」という条件が成立しないと”私”が成立しないんです。

そんなのしんどすぎるんです。不快なんです。

もう、そんなの、や!(›´ω`‹ )なんです。

この不快を、私はモノを通じても感じていました。

着飾れば綺麗でいれば私は愛されるだろう

だから「モノ」を買う。
(これは自分の気分がいいから綺麗になる、とは別のところからきている気持ちです)

しかし

「〇〇しないと」「〇〇すれば」「〇〇たら」

愛される・認められる、

という条件付きの行動は、そもそも自分で自分を無条件に認められていなかったからなんだな、ということに気づきました。

買い込んでいった「モノ」は、自分で自分を認められていない証が具現化したものだったので、不快だったのです。

否定の中でも究極の否定が、自己否定だと思っています。

その自己否定に気づきたくないがゆえに、他人や他のモノに対し、自分が満たされていない部分を転嫁をして、条件をつけ、その条件を達成すれば、私は認められる・愛される、と脳内変換してしまっていました。

自分で自分を愛し、認めてあげることができていれば、「この仕事をきっちりしないと」とか「この人に嫌われたらダメかも」という条件や発想がそもそもでてこなかったと思うのです。

でも社会で生活してるとね、、、

なんか行動できてる人、成果を出している人、愛されている人を見ると、私も、そうしなくちゃいけないのかなって、比較してしまって、それに近づくことが正義だとおもっちゃうんですよ。

だからがんばっちゃうんですが、

でもその前に、

「〇〇しなくても」、「〇〇できなくても」、私はそれでいいんだ、私は私が愛しいのだ、と無条件で思えたとき、

最終的に自己否定を手放し、

他者や他のモノが介在する条件付きの行動ではなく、心からそうしたいという行動だけをとっていけるようになりました。

私は私のやり方で幸せになったらいいのね♡と。

自分で自分を認められたら、人に認められなくても、気にならなくなりましたとさ(#^^#)

なんか・・・

具体的なお片付け・断捨離のこと、書く日ってやってくるんですかね。

そのうち書きたいとは思っているんですが、その前に書きたいことがあふれてきてたどり着かないのです(´⊙◞⊱◟⊙`)つかないのですよ。

今日も読んでくれてありがとう。

♪人生で一番若い今日を機嫌よく♪



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