不快の負債/感じきっていなかった未完了の感情を手放す②

今日もごきげんよう♪MAIです^^

前々回/前回の記事で、”自分で自分を認められない感”とともに、過去の「未完了の感情」をもちつづけることについて書きました。

【前々回記事】

【前回記事】

私は、その昔、その不快さゆえに過去に感じ切ることをしなかった未完了の感情に蓋をし溜め込んでいました。

溜めれば”貯める”ほど、経過とともに腐臭を放って、誰かの何気ない一言で感情噴火の起動スイッチを押され、思いがけない場面で噴出したことがありました。

「君がしなくてどうするの?泣くのやめなよ」「ちゃんとしなくちゃいけないでしょ?」「迷惑かけちゃいけないでしょ?」といった、”しっかりしろよ”系の何気ない一言たちに、

起動スイッチON!されるとともに、

ぶっさされたわけです(´⊙◞⊱◟⊙`)その後、これらのことが続き、最終的に人生の一時停止期間に移行することになったのですが。

というよりも、

私が「ぶっさされた」と受け止めたのであって、この言葉を放った人たちに、噴火させてやろう何て言う他意は(多分)ないのです。

(このぶっさされ昔話はいつぞや書くとして)

自分の中にあった、何かがゆさぶられたから、何かに反応したから、地雷が爆発したのです。

昔の認めたくない感情・感じ切っていなかった感情が地雷原として自分の中にまだ残っていたのです。

放出しなかった感情って生きていたんです。

(なので今はどんな感情でもだしきって/感じ切ってあげることが大事だと思ってます。)

その後、一度木っ端みじんになったあと、頭が冷静に働きはじめるようになると

そもそも何で感情って溜まるんだろう、とふと思ったのです。(正確には、我慢する癖によって”溜めて”いたんですがね)

体の中にある余計なモノって自然と排出されるじゃないですか。自然の摂理で。

でも感情って生活のサイクルの中で自然に流れてでていかないように感じます。(なんか不思議なこと言いますけど)

寝たら綺麗さっぱり消えてくれていたらいいんですが、ストレスがでかいと、さっぱり消えないことの方が私は多かったのです。

そこに意味があるのでは、なんてことを思ってしまったわけです。

哲学ちっく(*´▽`*)あは

勝手にでていかないというところに意味があるのではないかと思ってしまったわけです。

哲学ちっく(*´▽`*)あはは

それは、

どうして、あのことにゆれたんだろう?一体自分の中にある何に反応していたんだろう?

ということを感じることを促されているのではないか、その感情に意味があるのではないか、という独自理論に到達したわけです(笑)

そこから私は自分の感情と向き合いはじめるようになり、

過去に感じたもののうち抑圧していた/傷ついたと思っている感情に対し、いつの、誰からの、どういうたぐいのもので、どう感じたのか?

を思い出しました。

そうすると、ある人の言葉/行動により、

本当は自分の何が傷ついていたのか、や

無意識に自分を制約していたこと、や

その無意識の制約がそもそも生まれるきっかけとなった、さらのその過去の経験、

誰かの他意のない一言によって、自分に無意識で「自分はこういう人間だ」とラベルを貼っていたこと、

まで思い出すことができました。

そこには、お父さん/お母さんとの関係が絡んでいることもありました。(これは長くなりそうなので、別の記事にしようと思います)

最終的にそういうものをひも解くことができると、自分の感じ方のメカニズムや、自分の行動/あり方に納得ができ、

仕組みがわかると安心できて、

認められなかった自分自身も許せるようになり、

自分を認められると、周りのことも認められるようになり、

最終的に自己否定を手放せたなぁと思っています。

そうして

見つけていった地雷原の感情/未完了の感情に、私は感謝をし、喜びを表現するときと同じように、体を使って、子どもみたいにふるまって手放していきました。

手放す方法は、体を使ってアウトプットできる方法なら何でもいいと思ってます。

書く/叫ぶ/走る/シャドウボクシングする/じたばたする、などなど。

あっ

体を動かすつながりでいくと筋トレは最適解かもしれない(笑)

いま

筋トレが最強のソリューションである説に妙に納得してしまった。

感情は溜めるもんじゃない、感じるもんだ(*^^*)

長文読んでくれてありがとう♡

♪人生で一番若い今日を機嫌よく♪

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