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始まりは江戸時代!?知られざる奄美黒糖焼酎の歴史とは?

みなさん、こんにちは☺️
黒糖焼酎と奄美の特産品のお土産屋さん「浜千鳥館(はまちどりかん)」のなっつです🍊

前回は、奄美黒糖焼酎の特徴を3つに分けてご紹介しました。

普段から黒糖焼酎を飲まれる方からも、「奄美群島でしか製造できないとは知らなかった!!」など、コメントをいただけて嬉しかったです。

まだ読んでないよ~という方は、ぜひこちら↓も合わせてご覧ください。

さて、今回は、始まりは江戸時代ともいわれている「奄美黒糖焼酎の歴史」についてご紹介します✨

今では、奄美群島の特産品として多くの人に愛飲されている黒糖焼酎です
が、

・薩摩藩への貢納品だった江戸時代
・自家製酒として造られていた明治時代
・黒糖が原料になった太平洋戦争敗戦後
・本格焼酎として認められた日本本土復帰後

という400年以上の歴史と、多くの島民たちの苦労と努力の末に受け継がれてきているものなのです🍶

それぞれ、詳しく解説していきたいと思います。

焼酎の貢納を命じられていた江戸時代

黒糖焼酎の原型は、江戸時代にまで遡るといわれています。16世紀前半、奄美群島が当時の薩摩藩の支配下にあった頃、藩から焼酎の貢納を命じられました。

そこで、島民は沖縄県(当時の琉球王朝)から伝えられた蒸留の技術を用いて、焼酎の製造を行ったそうです。

しかし、当時は黒糖焼酎の原料である黒糖が薩摩藩の専売品であったため、庶民は許可なく利用することができず、椎の実や粟、ソテツなどを原料に使っていたといわれています。

自家製酒として作られていた明治時代

明治時代になると、明治新政府により酒造の免許制が始まり、お酒を製造するにあたって、届け出と免許料が義務付けられました。

しかし、奄美では販売目的ではなかったため、焼酎は各家庭の自家製酒として造り続けられることになりました。

当時は、味噌や醤油などもすべて自家製だったといわれています。

奄美黒糖焼酎が誕生した太平洋戦争敗戦後

1945年(昭和20年)に日本が太平洋戦争に敗れると、奄美群島はアメリカ軍政下に置かれ、日本本土との流通が制限されました。

それにより、米は不足し、また、江戸時代から本土に出荷していた黒糖が大量に余り、島民の生活は貧困化していきました。

見兼ねたアメリカ軍が課税を条件に、自家用の焼酎製造の販売を特例で認めたことにより、島民は余っていた黒糖を使って焼酎を造ることに乗り出しました。

ついに、奄美黒糖焼酎の登場です!

奄美群島でのみ製造が許可された日本本土復帰後

1953年(昭和28年)、奄美群島は晴れて日本領土に復帰。

しかし、当時の日本の酒税法では、焼酎の原料として砂糖は認められておらず、黒糖を使った蒸留酒は、ラム酒と同じスピリッツに分類され、焼酎よりも3割高い酒税が課せられてしまいます。

この課税が大きな負担になると感じた島民たちは、国税庁に陳情します。

その結果、戦後復興支援の一環として、「米麹」を使うことを条件に奄美群島でのみ黒糖焼酎の製造が認められることになったのです。

日本本土復帰から約70年が経った今でも、奄美群島でのみ製造が許可されています。

まとめ

今や、奄美群島内外の多くの人に愛飲されている黒糖焼酎ですが、

・薩摩藩への貢納品だった江戸時代
・自家製酒として造られていた明治時代
・黒糖が原料になった太平洋戦争敗戦後
・本格焼酎として認められた日本本土復帰後

という400年以上の長い歴史と、多くの島民の苦労と努力の末に受け継がれてきている奇跡の焼酎なのです。

今晩は奄美群島の歴史に思いを馳せながら、黒糖焼酎を飲んでみると、いつもより少し味わい深く感じるかもしれません☺

このnoteでは、黒糖焼酎や奄美大島の魅力を知ってもらうために

・まだまだ知られざる黒糖焼酎の魅力や歴史
・黒糖焼酎のおすすめの飲み方、おつまみ
・奄美大島にきたら買いたい!人気のお土産
・奄美大島のおすすめ観光スポット、ご飯屋さん など。

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