深い浅いではなく(4)

安全か?そうでないか?

何となくでも分ったことにしているということは、判断力を行使しているということ。

判断しているなら、材料があって安全/危険を仕訳ける基準があるはず。

「基準」というのは、しかし、やや誤解を生みやすい。

”材料”は勿論一人一人が様々な感覚器官などを通して受け取る刺激。目で見るもの。耳で聴くもの。鼻で嗅ぐもの。舌で味わうもの。肌で感じるもの。体がいろんな風に動いて、平衡感覚を様々に刺激もするだろう。心臓などの臓器が動いたり、血液やリンパの流れが発する信号だって脳みそで受け取られている。

ここまで刺激が多様だと、「基準」に照らして、、、というのはかなり困難に思える。

「基準」に照らそうとすることが誤解を生みやすい、というのは、どうしても「基準に照らしやすいように様々な”材料”を解釈してしまう」から。

当然「基準」の方が、”材料”よりはシンプルなわけで、「解釈」というのはどうしても細かい部分をそぎ落とす方向に働く。

でも、私たちが身の安全を確認するというのは、常に「複雑→単純化」というプロセスを踏んでいるだろうか?

もっと直観的なんじゃないんだろうか?

「このヤバい」は「あの時のあのヤバい」に似ているから避けられるように準備しよう、、、とか。

実はもっと肯定的で、安心できる感覚をひたすら追いながら安全確認しているのかもしれない。

私はこの”肯定説”をとりあえず検証してみたい。

「何かと何かとをセットにしてみて、とある条件をクリアしているから特に問題なし(特に動く必要性が認められず、よって実際何も”意識的には”やらない。やろうとしない。)」とか?

「何か」というのは「セットにできる」程度にカタチが似ていたり、構成しているものの相当数が同じか少なくとも比較可能なもの。

特に”カタチ”。

「何か」を構成しているものどもの関連付けられ方。例えば、主語-述語-修飾語、とか、悲・喜劇、英雄譚などのプロットのような。。。

判断の”材料”に、こうした相互に関連付けられそうな”カタチ”があって、比喩的類推が時々刻々駆動している。

比喩的類推は常に新しい意味を創造しているかもしれないけれど、「安心」ならスル―。

でも意味の変化は常に起きているので、気付かれれば(多分理性が駆動して)目に見える行動にも変化が及ぶ可能性がいつでもある。

とはいえ、この「気付き」が発生するということは、少なくとも、「スル―(気付き無し)でルーチン継続」よりも目に見える行動が現れるまでのタイミングは遅れる。

この”遅れ”というのは、「個々人の判断に多少なりとも時間を要することからくる遅れ」だけを表しているのではなく、二人以上の人間の間で、「行動→これを観察した上でのレスポンス→」というように交互に順を追って行動が繋がれていくこと。つまり、同じ因果関係に基づく行動なら理論上、複数人が同時に同じ行動をとっている可能性もあるけれど、それと比較すると”繋いでいく方”は多少なりとも時間がかかる、ということも表す。

ストーリー化された情報の方がアナログで遅いけど、行動まで見据えた理解≒実践の知識醸成に有効。

ということで、昨今マーケティングなどでもストーリーストーリー、、、と言われている。多分ストーリーも”数打ちゃ当たる”的に数量的に多いだけでも役に立つかもしれない。

とはいえ、ストーリー作りとなると万人平等に才能が備わっているわけもないし、ストーリーの力とは数じゃないはず。最近じゃあいろんなアルゴリズムやらマシン・ラーニングやらで、データからストーリーを自動生成、とかもやられているけど。。。少なくとも、個人個人がいくつ作るか?ということではない。

形もしっかりして多くの人が読めるストーリーは限られている。

ストーリーとはいえないけれども、ある程度意味のわかるもの。雑談で話される言葉とか。

構成要素(つまり言葉)同士の関連付けられ方。カタチ。これって案外バリエーション少ないのかもしれない。

ほぼ無限の可能性が考えられるのは、「著者-読者間の共同作業」と「個人レベルでいろいろと想定問答したり、感じたり、考えたりするプロセス」とがあって、これらが同時並行で回っているから。つまり、共同作業:行動が順々に繋がれていきつつ、その中で個々人の想像の中でも様々な思考、仮説検証などが行われていて、相互に影響しあっている。

言葉というツールを使っているので、文法やその他語法などの制約は受ける。でも、案外多くの人々が似たような考え方を示したりするのは、そういった制約のせいだけではないように思われる。

効率性の観点からは、似たような考え方で似たような言葉を話すというのは、どんどん話がまとまって、実際物事も速く進みそうなので、望ましいことなのかもしれない。

他方、昨今SNSなどのお陰で発言の数は増えているわけで、似たようなことを言っているのかもしれないけれど、やっぱり話がまとまりやすい感じというよりも、論争紛争が起きやすいイメージの方が強い。つまり、沢山の意見表明が沢山の人々によってなされるということは、デモクラシー的観点からはよさそうだけれど、あんまりまとまんないのもどうか?という懐疑の目も。

後者のまとまる方への圧力って、実はSNSとかインターネット時代より以前から続く少数支配者による中央集権的コントロールとそれほど変わらない。いくらビッグデータだのアルゴリズムだの新しい技術や用語を使ってはいても。。。

普段から私たちが意識しないでも気にしているであろう身の安全の感覚。これはみんなでワイワイ議論よりも、できれば信用できる誰かにまとまるような秘技・秘策でもって身の振り方を決めてもらいたいっていう戦略(?)の方が好まれているのでは?とちょっと疑っている。

そうであるならば、私たち人間ってともかく障害が少なくて速く動ける方がいいと思ってしまうということ?のんびりゆっくりいろんな人のいろんなストーリーを「ふむふむ。それも面白い。」とかってのは夢?

「障害無く」というのは「紛争が起こらない」という意味ならいいんだけど、「速さ」だけだとさ。。。結局どこへ行きたいの?というのも疑問だし、手法としてもさくさく無駄を削いで、計算でバリバリ進めるということで。。。なかなか”肯定説”にならない。問題をめっけて潰しまくっていく感じ。。。人々の「いや。実は。。。もちょっと違ったやり方の方が安心感っていう点で優れているんだけど。。。」という感覚はなかなか顧みられない。

諍いなく平和・穏便に、、、という決して間違いともいえない自然な感覚。この意味での”効率性”が実際集団になった場合にも、あまり個々人の描く”正しいカタチ”を抑圧し過ぎないやり方が大切なのではないか?

そのためにも、今無駄と思われているような雑談みたいなものも、ビッグデータみたいな「使える要素抽出」的使われ方ではなくて、「意味を読み込む」みたいな感じで、ともかく何がしかの関連性を”新たに見出す”方向で活用される方法って編み出す必要があるのではないか?と考えている。

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