分厚いもの

能面のように皆似たような顔で生きている人々。

それはでも切ないほどの安心への渇望とそれに基づく戦略。

「目立たない方がいい。」「出る杭は打たれる。」とは言われるけれど、それらとはちょっとニュアンスが異なる。

もっとアクティヴに微調整が頻繁に行われている感じ。

もはやアートとでも言えるような。

なもんで、やっている本人たちは至って真面目

そう。それこそ周囲の状況が目に入っていないかのよう。

でもへんだ。周りが見えないでなんでみんなと揃えられるのか?

いや。

見えていないのは「周囲の状況」。

「状況」ではなくて、もっと無機的というか安定的なカタチのあるもの。例えば、人であるなら容姿、服装や持ち物。こういうものは見えている。というか、そういうはっきりと定義付け可能なものに集中するよう訓練されているのだろう。「曖昧なことは言えない、言わない」。そんなことは不可能なんだけどね。。。

「状況」というのは、同じ構成物・人物でも、それらの関係の違いによって異なる情報を私たちに発信してくる。「空気」とか言われるように、非常に曖昧なもの。感じていないわけではない。寧ろコンテキストによっては(日本の社会とか)「感じられて当然。感じられないのは未熟者とかはみ出し者。」のように重要スキルの一つとして評価される。数値化はほぼ無理だけどなんとなく良い悪いは分かる、みたいな。

定義付けしやすいはっきりとしたものというのは、何故それらに集中するよう訓練されているのか?というと、なるべく円滑に物事が運ぶよう整えるため。「空気読めているかどうか?」の証拠提示のためでもあろう。別に、いろんなものを定義付けして、整合性のある定義全集のようなものを作り上げようとしているわけではない。例えば古代ギリシャ以来の西洋文明がやってきているような。

はっきりと定義付けしやすいものというのは便利だ。沢山知っていると、いろんなことが話せる。話せないまでも、様々組み合わせることによって、思考や曖昧な気持ちなどに、よりはっきりとした形を与えることができる。

はっきりと定義付けしやすいものってどうやって増やしているのか?というと基本的には言葉。私たちの周りには言葉が溢れている。初見ではあまりよく理解できなくても、頻繁に出くわせば、「ああ。どうやらこれは理解しといた方が何かと便利なんだろう。」ぐらいのことは分かってくる。

でも、定義全集を整えようなんてことは思ってないわけだから、すぐに「知っているような顔」をする。それでもって、「ね。ね。間違えてないでしょ?」って確認しようとする。問題集をやっていて、一問ごとに解答集を参照してしまうような感じ。何も学んでいないというわけではない。

定義っていうものは言葉の意味(語義)も含めて、なるべく多くの人が(理想的には全員が)間違えないように、と決めるのは相当骨が折れる。でも、世の中に流通している定義に従おうとすることはそんなに難しいことではない。つまり、使っていながらその価値というか背後にある苦労ってものは振り返られない傾向にある。

定義っていうものは使われれば使われるだけ変化する。その方が頻繁に見直される可能性が高まるという意味で健全なんだけど、大多数の専ら使う方の人々は、逆に「あんまり変わって欲しくない」って思っている。

実用性という観点から言えば、なるべく大きくは見直されないものを”あらかじめ”用意してくれていて、あとは「はい。どんどん使ってくださいねー」って言って欲しい。専門家が必要とされる所以。ついでにそういった専門家に権威が付加されていく仕組み。。。

一人一人があーでもないこーでもないって言い合っているうちは本当は実用性が低いということ。でも、実際的にはいろんな段階の定義があって、確定途中なんだけども緊急性とかなんとかで、「しばし検討中」ってのを注意しながら使ってねってことになっていたり、そんな心配はほぼなく使えるけど実際は「まだ検討中」とか、、、。言葉あるところ論争が絶えない所以。ともかく使えちゃう定義ってのはほんとにどこにでも転がっているのだ。「注意してね」って言われて分かっていたって、いちいち一つ一つの語義を気にしてなんていられない。(この文章だってそうやって書かれちゃっている。。。)

定義付けしやすいものに集中するって、それだけでもなかなか大変だし、コミュニケーションを円滑にとっていくためにも有効だし、あえて定義付けし難いものを取り上げている暇ってないんだろうなー。

みんななんとなく急いでいる感じ。

それでどこへ行こうっての???ってのは甚だ疑問なわけだが。。。

まあともかくみんな同じような顔してズンズン行進は続いていく。。。どこへ至るとも知れず。。。

しかし。行進のメタファーってのはちょっと違う。

だって行進っていうのは全員が同じ方向向いているでしょ?

私の感覚だと、みんな同じような顔してどっかに急いでいるんだけど、その流れの中で、いろんな方向見ているイメージなんよね。エッヘンって背中見せてたり、ちょっと振り返って「どうどう?付いて来てる?」って心配していたり、もろ後ろ向いて「おーい。こっちやー。付いて来いよー。」ってでかい声出してたり、、、勿論黙々と付いていく人々も。。。でもみんな同じ顔なの。ほんで結局は同じ方向に向かって進んでるの。

不思議でしょ?

違うんなら違うで顔も違ってきそうなもんだし、別に同じ方向に進まなくたって。。。君が行きたいならそっちへ行けば??って感じの人もいるのに、、、。

つまりやっぱり周りが見えていない。というか流れの外は敢えて見ないようにしている。多分それが能面っぽさの原因。何かを抑制している/させられているような感じ。ちょっと過度なひたむきさのような感じも。

催眠術かな?

一生懸命「多分これで大丈夫」「これしか取り得る方法はないはず」って言い聞かせているうちにマジで信じ込むようになってしまった、という感じ。

やっぱりさ。なるべく安定的に過ごしたいじゃない?

それには流れは察知した方がいい。自分はどう流されていくべきか?

勿論自分自身でおっきな流れを作り出せればそれが理想だけれど、まさかゼロから「こうすればみんなを巻き込むようなおっきな流れが作り出せる」なんてそうそう分からないだろう。

ムーヴメントを起こすような人も、やっぱりまずは流れの中で様子は見るはず。流されながら。

対策としては、まずはリードしている感じの人たちが別の流れの可能性も探ってみる。特に仕方なく付いてきているだけの人たちを見つけて、ヒントをもらうような感じで。というのも、付いてきているだけってことは、内心なんか別のものを秘めている可能性が高いでしょ?何もない場合もあるだろうけれど。ともかく探ってみる。リードするぐらいの余裕はあるわけだから。

同時に、これは実際は難しいんだけれども、付いてきているだけの人々自身に、直接色々と喋ってもらうよう仕向ける。何がどう違うのか?その流れに乗るだけなのと、自分なりにもっと納得できるであろう行き方(生き方)と。


さてどうするか?

やはり関係性の理解(見直し)だろうな。

自分なりの感覚は捨てている、というか、どうせ分かってもらえないんだから、表明しようとするだけムダ。いや、拘り過ぎるとかえって不利になる。「こいつおかしいんじゃないの?」みたいな。よって、あくまでも「これが正しい」と世の中で言われているものだけを追う。常時変遷するものだから兎に角追う。

もしも世の中で「これが正しい」と言われるものがバラバラとは言わずとも数パターンでもあるなら、いちいち追うのは非効率なので、自分なりの感覚とミックスさせて、追える範囲で追うようにはなる。でも、今の日本はそうではない。皆が追っているものとは、喩えるなら痛くないもの。

痛いことするのはバカ。

もしくは痛くても痛がるのはバカ。だから無理してでも笑う。

そんな頑張ってどーすんねん?って感じだけど、実際、みんな自分自身の甘やかし方が分かっていないようだ。

痛いのをとことん避けてたらさ、自分の体がどこにあるのか?さえ分からなくなるんよ。そうしたら、実際は痛んでても、そうとは気付かない。だから、甘やかしてあげようにも、やりようがない。

リラックスさせるにせよ、痛みから解放してあげるにせよ、そもそも体がどのへんにあるのか?どの辺が痛がっているのか?分からなければ無理でしょ?

自分のことだからってことで自分だけで処理しようとし過ぎなんだね。

痛みっていうのは感覚の一つである以上、まず体のどこかで感じるものなんだけれど、意識が絡む。気付く前は平気だったのに気付いて以降めっちゃ痛くなるってことが頻繁に起こる通り。当然何らかの刺激を受けて始まることなんだけれども、経験や予測も重要で、それらがために、想像できちゃったりもするし、現に受け取った刺激以上に増幅されたりもする。

じゃあ、なるべく気にしなければ大して痛まないんじゃないか?ってことにもなる。

痛いのはともかく基本は自分自身なんだから、自分の意識のもっていき方でなるべく痛まないように、と工夫するのは至極自然な営みだろう。

ただ。。。「意識」が絡むと、実は自分自身”だけ”のことではなくなってしまうのよね。。。


そもそも「意識」って何ですかね?

そんなもんどっかにあるんだろうか?

私は、意識だの心だの魂だのというものは、全部曖昧さの総称だと考えている。

単に何か名前が無いと話しづらいから開発された名前たち。

意識だの心だの魂だのいうものが何故定義しづらいのか?というと、個人の属性として考えるといろんな矛盾が出てきてしまうから。つまり、これらは個人のもんじゃないんです。

人間だけじゃなくて生き物って個体毎に明確な境界線がある。人間や多くの生物では皮膚が覆っている内側と外側。内側が個体で外側は環境。でもご存知の通りで、皮膚ってのはいろんなものを遮りもするけど通過させもする。さらには神経を駆使して間接的に刺激として外側についての様子を感知もする。そういう意味では真空状態にぽつんと個体だけが存在しているわけではない。いろんなものと繋がっている。

曖昧さというのは、特に神経を通して感知されるような外側の様子が、様々な経路を経てとある”情報”として認識されるまでの時間差であるともいえる。

だから神経が複雑なもの、脳みそなんて器官を備えたものほど、曖昧さは増える。故に、人間以外の生き物にも意識はあるのか?というと、多分ある。ただ決定的な違いはある。”情報”として認識するもののバラエティ。人間はあまりにも多様な”情報”を扱えるので、類推ができる。つまり、”情報”から新たに”情報”を創り出せる。

”情報”というのは、誤解を恐れず定義するなら、とある方向性をもって変化するエネルギーの流れが残す、時系列に沿って解読可能な痕跡

繰り返し繰り返し同じ動きを続けるもの(A)は、その繰り返す動きについて、その他のものに”情報”を与える。そういった「その他のもの」(B)が、果たして”情報”を受け取ったと認識しているかどうか?は分からない。でも、”情報”もらっているな、というのは、その「その他のもの」(B)の動き方で証明される。そして、さらに別のもの(C)の動き方によっては、(C)は(B)から”情報”を受け取っているな、と見做すことができる。

”情報”というのは、このように、いくつかの異なるものたちを巻き込んで起こった出来事を見た時、どうやらそれを引き起こしているらしい、と推定されるもののこと。別に世の中にあるこれこれという物質が”情報”です、というようにはじめから決まっているようなものではない。実際、とある物質が”物質”と認識されるに至っているということは、”私は物質でございます”と言うに至る、様々な方向性をもったエネルギーの流れが、とある関係性をもって繰り返されている、ということ。

人間の意識と呼ばれるものが厄介なのは、今書いたように、「これって”情報”ってことでいいんでしょ?」というのが分かること。繰り返しますが、本来”情報”ってのは実際に何かが起こらないと判断できない。というか、いろんなことが起こった様子でもって、主だった登場人物とそれらの行動を促したり、抑制したりしているように見えるものが仕分けられる。その内の後者が”情報”として扱われるようになる。

でも、人間の場合、何かが実際に起こる前にいろんなことが予測できる。類推で進める勇敢さ!

曖昧だからといってはっきりするまで待ち続けるだけではない

むしろ、今となっては、黙ってじっと待ってたら「うすのろ?」とさえ思われてしまう。つまり、競って”良い”予測を立てようとする。正確で、どんな場面でも通用して、役に立って、見た目も美しいような。。。

急ぐ気持ちは分からないではないんだけれど、より良い結果を出すためにも、ちょっと初心に帰ったほうがいいんじゃないか?


私たちは意識があるし理性もある。

でもそれらはあくまでも曖昧さの周りをぐるぐる回っているようなもの。

つまり、個々人が理性的判断能力を発揮したところで、曖昧さは消えてないし数量的に減ってもいない。

常に繋がりの中でいろんなリソースを絶えず受け取る、しかも自分の体が動いたりして、その動く体とその外側にあるものどもとの関係性の変化なんかも活用して、なんとかかんとかやっている。「なんとかかんとか」というのは曖昧さを減らすとか消すとかではなく、「曖昧さをいろんな角度から見てみている」という感じの方が近いだろう。

そんな中でとっても貴重なのは人間。人間が発信してくれる”情報”があるから、間違いつつも、そこそこうまくやっていける。

意識って、人間から気付かされるものが圧倒的に多いんです。

痛いのだって、自分が感じるっていうけれど、特に抑えたいと思うなら、自分で何とかできると思うよりも、他人に何とかしてもらおうとした方がお互いのためにいい。

何故かというと、なるべく痛いなら痛いって”情報”を発信した方が、自分もどこが痛いかが分かるし、その情報を受け取った他人もそうした嘘じゃないホントの”情報”でもって反応を返せるから。

別に「痛い痛い」って言って、他人に「痛み」を分かち合ってもらうとかいうことではない。

そんなことは無理。でも多分多くの日本人はできると思っている。だから、そういうのは「迷惑だ」と思う。

そりゃ読みすぎというか、期待しすぎ。テレパシーじゃないんだから。。。

そういう一見オトナな配慮?って単に自分の痛みを見ないようにしているだけ。本当に他人に迷惑をかけたくないというようなご立派な考えがあるなら、なるべく正確に自分の痛みを感じてみることです。そうした上で、痛さを表現してみる。「正確な情報に基づいて表明する」ということは他人への配慮。何故なら、正確に知ろうとすればするほど当然様々な表現方法が可能になり、そういったものの中から相手ごとに適当な伝え方をしようとの配慮がなされうるから。

そうこうしているうちに痛みは和らぐ。しかも痛みをすっかり無いものとするのではなく。

独りぼっちでいるよりも、誰でもいいから人間がいた方が、痛みを感じやすかったりするかもしれないけれど、コントロールしやすくもなるのはそういう訳。専ら「誰か傍にいるから我慢!」というような方法だけだとしんどい。そうでなくて、「めっちゃ痛いんやけども、どう伝えたらいいかな?」「どんな感じだと伝わっちゃっても許されるかな?」それを知るために、まずは痛みの正体をきちんと把握する。

迷惑かどうか?なんてのは後でいい。逆に、勝手に自分以外の人々の感じ方を決めつけてしまうって意味で”よいたしなみ”とばかりはいえない。


まあ非常にざっくりとまとめるなら、、、「当たり前」って思い過ぎるのは、物事を知っているようで却って注意深さを欠いてしまう。本来「知る」というのはとても注意深い営みなわけで。。。「私はもう知っている」ってのは、、、実は、自分で自分の知性に「お前はもう死んでいる」って言っているようなもんなんだ。

こんな感じで、何でもかんでもが結局自分に跳ね返ってくる。うっとおしいことこの上ないんだけど、それ(跳ね返り)がなかったら、結局みーんな同じ顔になっちゃう。「それでいい」ってのもありだけど、まずはこの逃れられない仕組みについては、注意してみてもいいのではないだろうか。。。


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