話してみたいこと(2)

ことばを行動として見る。

ことばの意味は必ず二者以上の相互関係で決まる。「決まる」といっても何か決まった形(実体)があるわけではない。つまり、”本当の意味”なんてものがあるとするなら、いつまででも探し続けることができる。

そう考えることで、言いっ放し、やりっ放し、読む人にお任せ、ことばの”言質利用化”を抑制する。

つまり、多分そんなものは無いんだけれども、”本当の意味”というのは、それを探そうと思わせること?分からんなー。まだ分からん。。でもなんか気になって注意を引かれる。。。というような。

面白いのは別にそんなこと考えていないのに探す気にさせるようなケース。

どういう時にそういうケースが発生しやすいか?

これが解れば、特段の目的なんかがほぼない(と少なくとも発している本人は振り返って見た時に思うような)ことば。そういうことばの方が断然数量的には多いはずだけども、そういった特段何も目的としないでことばを発することの自由さが増す、というか、安心して喋りまくれるようにならないか?と。

やっぱり思いもよらない反応が来る可能性があると思うとちょっと躊躇させられるじゃない?(まあそうはいっても人間喋るんだけどね。)

で。この”安心感”というのが、実はマナーを守ろうとする雰囲気作りには重要なのではないか?と。

言い換えるなら、「理想の人間関係:好き嫌い、思想信条や生来の器質、その他文化的社会的背景などの違いに関わらず、ともかくまずは相手を尊重する」という方向へより近づきやすくならないか?と。

『北風と太陽』でいうなら、太陽の方ですね。


そもそも発言者本人には他人の注意を引きつけよう、意味を理解してもらおうという明確な意識はないのだから、これといって決まった型やコンテンツがあるわけではない。

そうはいっても、発せられてしまったことばは、何か意味しているものとして聞かれる(読まれる)。

つまり、その程度の”意味”はあるということ。

ことばというのは独特の形態(文字という記号の連なり)があるので、文法などのルールとか語彙とか、いくら自由奔放に、といっても限度がある。人はそういったルールのようなものに沿ってことばを紡ぐし、他人のことばも理解しようとする。

なんだけれども、ことばが伝える情報というのは、文字に乗っかった情報だけではないのではないか?と。

そんなのどうやって実感したり証明したりできるのか?

読むんです。あると思って。

何のために、そのような「でまかせを!」と言われるに違いないような読み方をする必要があるのか?

それは、どうしても引いてしまう”個人”という境界線を揺らがせるため(実際は揺らいでいるのでそれに気付くため)。

”個人”という境界線。実はそんなにきっかりくっきりはしていない。はっきりしていないからこそ私たちは不安にもなるし、「これって使えるんちゃう?」というような、どっかで聞き覚えのあるようなことばやその使い方、作法などなどを取り込むことができる。まあ単純に言えば想像力です。

ことばの使い方や作法などは、それほど意識的に真似しようとは思っていないんだけれども、自分と他人とをまあまあコミュニケーション可能なものとしておく、というこれまた無意識にとられる生存戦略が存在するので、ことばにまつわるルールや語彙などはとある方向に固まりやすい。勿論”固定の度合い”というのは様々で、確実に言えることは、万人が全く同じルールで同じ語彙を使い続けるということは起こらない、ということ。

目指す方向性は、ことばにまつわるルールを第一とする(「こうなってんねやから守れよ!」という)のではなくて、ルールは自分らの必要により形成・改変される、ということが理解されるようになること。つまり、基となるルールはあくまでも各自が自然と(無意識に)とってしまう行動。誰かのことばに触れて、感じること(直観)。

現在、おそらく多くの人々は、ことばや誰かの行動や目に見えるモノなどなどについて、客観的事実に則して理解しようとしている。これはここ200年ぐらいで積み重ねられた合理的科学的実証主義的考え方とその成果による。考え方は自由なはずなんだけれども、どんなに「そんなの意識してないしもっと神秘的な人間観や世界観や自然観を尊重するね!」「いやほんとにそんなの何も考えてまへんねん」って人だって、完全には無視はできていない。何でかというと、私たちは肌で色々と感じているから。また、独自性を確保しておきたいという欲求も勿論あるけれども、そうした独自性を確認するためにも、その独自性とやらの外側で起こっていることにも注意は向けざるを得ない。それよりも何よりも、既に述べた通り、生きている中で、私たちは誰一人として「独りでいい」とは言っていない。”生存戦略”とは言ったけれど、それはあくまでも生物学的な次元のお話、つまり、わりと好きな人がいるであろう”利己的な遺伝子”界隈のお話で、もっと広い宇宙観(コスモロジー)から見れば、”生存”だとかそれへ向かう”欲求”なんてものは存在しない。世に溢れかえっている情報というものは、無数に存在する様々な要素がとある方向性を持たされて運動する様子を指示しているもの。だから人間が考えている”有益な(或は無益な)情報”のようなものは、そうした広い宇宙で起こっている情報の”超変形”と考えた方がいい。

何が言いたいのかというと、私たちの日々使っていることば。これが伝える文字情報以外の情報。私たちは事実感じ取っているので、ことばを手掛かりにそれって一体何なのか?を探ることぐらいは可能だ、ということ。

なんでそんな見えてもいないし、感じているかどうかも分からないようなものに注意を向ける必要があるのか?

私たちが日常の人間関係とか社会関係の中で生きていく上で、まず、ことばというものは、事実を正確に描写するためだけにあるのではない、と知ることが喫緊の課題だと信じているから。ことばを正確な描写の道具と前提することは、様々に異なる人間の間で紛争が起こる確率を上昇させる(お互いが正しさを主張し合うことになるので)。そして、「正確に描写できる者」「正確に描写できていると信じ込ませるパワーを持っている人」たちから順々に”生き残りの網”に掬われていって、もれちゃえばサヨウナラ、って世界が継続されることになる。別にそれも仕方のないところではあるんだけれど、そんな程度の仕分けで生き死にが決められていいのか?と強く疑問に感じている。

なんで「正確に描写」が「その程度」と言えるのか?だって誰も結局正確かどうか?なんて分からないから。さらに、そうやって「正確に描写出来る者」「そういう人たちをフル活用して生き残りを図る者」が支配する世界って、モノトーンでつまらなくなる。お墨付きがすっかり商業化されてしまっている現代のように。

道徳とか倫理的な生き方って大事だと思うのです。

それが果たせているなと実感できるだけでかなり安心感とか達成感が違うと思うのです。

モノトーンな世界って真逆で、どんなに「立派に社会的責務を果たしているではないか!」って主張して、実際みんなを屈服させることができているとして、やっていることは要するに道徳的責任とか面倒くさい倫理を巡る人間関係を「権威」にお任せして放棄しているんです。オートメーションなんです。

そんな世の中も「仕方ない」と言ったのは、オートメーションって私たち人間の夢であるし、さらに、道徳的な気楽さだけではなくて、大量生産をバックにした物質的な安心感ももたらしてくれるから。まあ放っておけば待っているのはオートメーションなんです。

それに真っ向から対抗しようとは思っていないのです。私。

ただ、オートメーションでバッサバッサと切られていく中でも、「ああそうですか。そんなら自分もバッサバッサといかせてもらいますわ。」ってみんなで諦めるってのは抵抗感がある。よりハッキリ言えば、そんなことするような人間だけが「ああ。人生ってツライ。」とか言いながら生き延びるのには怒りを感じてしまう。

私が「まだまだできることはある」と強く思うのはそのへんのところです。

『話してみたいこと(3)』へ続く。Antenarrativeという見えにくいものが見える、見えているんじゃないの?って主張してみるための概念ツールとか、ネットワークの経時分岐(平面的に見える接続・分岐に対して)を観察してみる方法とかについて書きたいと思っています。



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