両面見れるだけではダメなんですね

1984読んで言っておきたいことの一つ。

Doublethinkとかいって煙に巻こうとする人は結構いる。Critical thinking?

結局真実か虚偽かは偉い人が決めるから、下々の者共は黙ってハッピーだけ追い求めておれってのはまさに神をも恐れぬ考え。小説の全体主義政党はまあ神なんて怖れちゃいないわけだけど。。。

「神をも恐れない」って言うとなんか厳かな感じだけど、まあ簡単に言えば、何が一番「こりゃどーしよーもない」いや「何とかした方がいい」と思うのかは、「心」の見方。

いじくれるとか入っていけるとか操作できるとか。。。

そりゃこの小説のようにありとあらゆる拷問を駆使すりゃ、記憶だけでなくてシンプルなはずの視覚だって「指が何本かもー判らん」みたいなことにもなるだろう。

でもそれって別に他人の心の中に入ったとか操作できるようになったとかいうこととは違うと思うんですよね。

Dobulethinkの浅はかさは、両面同時に考慮に入れてそれでいて合理的な判断が下せるだけでそれがエライって思い込んでいるところかな。

面なんてさ。。。二つだけじゃないし。。。

もっといえば、一面だって深さがある。どのへんまで突っ込み続けるべきか?上っ面でまあ今はOKとかね。

勝手に「この二つ」って決めて、「ほれ。どーや?」ってことができるのって置かれた立場の違いに過ぎない。別に知能が高いとか優秀だとか、ましてや、人間出来ているとかいう話ではない。

やはり人間、いざ先のことを考えてみましょうとか、すんごい多数の人間がどうやったら調和を保って生きていけるか?とか考えだすと、どーしてもシンプルにシンプルになっちゃうのよね。世界観。

そりゃ仕方ないさ。

でも見方をちょっと変えるとさ、なら必ずしも最後まで考えがきれいにまとまらなくたって、その方が健全だともいえる。

だって結局「ほれ。こーいうことなんだよね。」ってのって、、、ほぼ100%単純化された世界で、それでもってOKって思い込める方がある意味狂ってるもの。

まあことが国家だとか世界の統治だとかだと”狂い加減”が顕著になるけど、単純化して「ほれ。見てみ。」っていう傾向って日常茶飯事だと思うのよね。私たちの現に生きている今の世界でも。でね。ものによっちゃあそのおかげで便利なものが沢山作られて、より多くの人々に行き渡らせることができるようになっていると思う。とはいえ。やっぱり”ヤバさ”加減って同じだと思うんですよ。結局のところ。

なので「算数やるな」とかじゃなくてね。やりつつそれこそDobulethink、TriplethinkいやいやMultiplethinkでどうしても単純化されてしまう「部分」ってものに注意は払うべきではないか?と。

どんなアホに見えても侮っちゃいかんよね。ロマンチシズムだけじゃダメだけど。人間って人間自身が思うよりもっともっといろんなもん持ってる。そういう畏れってのは失ってはいけないと感じたのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?