今を生きることの難しさ

時間ってもう大人にとっては当たり前の概念。

当たり前すぎて「概念」なんかじゃなくてほぼモノみたいなもん。今何時何分か確認したり、あと何日でお正月か?確認したり。

別に厳密にタイマーで計らなくたってそれなりの時間感覚ができている。(忙しいモードに切り替えたり、、とかも含め)

時間は当たり前すぎてそれが一体何なのか?なんてあまり注意を引かれない。

引かれるとしてもせいぜい「ほんと。時間の進む(過ぎていく)ペースって年齢、置かれた状況で全然違うよね。」といった程度。

過去を振り返ったり、未来を見通したり、というのは折々に誰もがやっていることと思うけど、今現在って何なのか?なんて問いは普通に生きていく上ではほとんど意味のない問いだ。

そもそも今現在なんてのは刻々と移り変わって行くものだし、バチッと一点を捕えて描写するなんてカメラにでもやってもらって、何か必要があれば思い出せばいい。

時々刻々過ぎていく現在というのは、では、あまり明確な意識の介入もなく、なんとなく過ぎていくだけのもので、あとで思い出されるようなものなのだろうか?

人間が「思い出すことができる」というのは時間という概念には不可欠で、時間の概念と深く関わっていることだろう。

私たちはおそらくいろんな時間を過ごしている。

過行く現在で、あまり意識が介入せずとも過ぎていく時間、そうしつつ何かを思い出したりしながら、種々心配したり、それを減らそうと工夫を凝らしたりする時間も同時並行的に過ごしている。

私は約6年かけて博士号を取得した研究活動の中で、ありきたりの会話の中に潜む様々なパターン、つまりは異なる人間同士だけど、何となく似通った行動をとる、その結果集団的な行動として多くの人々が認識するような事象(評判がたっている、とか、ムーヴメントが起きている、とか)が生成されていくプロセスを観察してきた。

その中で一番「これはっ!?」とハッとさせられたのが時間。

ポール・リクールの『時間と物語り』(Time and Narrative)で、人間は様々なイベントをバラバラに、ではなく、関連付けて認識していて、特に「物語の筋を追う」ような感じで、出来事が順を追って起きていくのを思い出しながら、時間の感覚が発生していく、という説に出会った。

彼の説が好きになったのは、結構複雑で抽象的な概念の分析も、もれなく私たちの体感する様々なモノの動き、人々の行動なしには十分説明できないだろう、という点。

学者というのは相当知的能力が優れているため、どんどんどん抽象概念の中で思考実験したり、理論構築したりできる。でもこれは非常に頭でっかちになる危険が高くて、実際、ものすごい原始的な感覚の問題をすっとばして真理追究に文字通り耽溺しやすい。

原始的な感覚なんてちゃんと脳や神経系のデータとって研究してるさ!という面々も、人間が日常的に経験している感覚と、それらのデータとを関連付ける、となると非常に怪しい。

私たちが日常的に経験しているものというのは、私たちの体のどっか一部分で起きている事象を切り取って見るだけでは再生不可能だ。そんなことは学者さんならとっくに解っているのに、実際の研究活動となると、あたかも自分たちの切り取った事象で、私たちの日常経験する物事が説明可能だというスタンスを打破できないでいるように見える。

私たちが日常経験する物事というのは、いきなり分解してデータにしたりはできない。まずとっかかりは、全体の観察、それを日常使っている言語でもって解釈して、それからでないと因果関係なんて説明はできない。

「言語」はそれでも単なる記号なんかではなくて、私たちの体感をもとに形成され、運用されている。だから、出来上がった記号の機構であるとか記号同士の関係性を分析したり、多くの人が使っている辞書的な意味を分析したりするだけでは、そもそもの人々の動きであるとか感性であるとかは解明できない。

そもそもどうやって私たちは体感から、いろんなものに名前を付けているのか?

多くの人々は既に出来上がった名前、とあるコミュニティで理解されうる名前を察知して、学習して、借用している。

「学習」以前に「察知」しているというのが大切で、ことばなんて細部のルールがぼんやりとでも見えてくるそれよりはるか前に、私たちは何とか他者と意思を疎通させようとする。

「意思」って何だ?それを疎通させるってどういうことだ?

当然確固たる「意思」なんてものは最初っからあるわけではなくて、あるのは体感。

言葉が解らないと、体感はなんとなく感じているだけ。

でも、私たちの周りにはいろんな人がいて、特に言葉が解る人は、解らないであろう人にも、とりあえず言葉で話しかける。だから、何となくの体感も、どんどんと言葉に変換されうる方向を探るように「解釈」されていく。

無視できないのは、言葉が解る人が、解っていないであろう人に言葉で話しかけること自体、既に「多分いいこと。解らない人にとってためになることをしていると何となく信じられている点」。そう。私たちは「いいこと」だからやる。でも、これがいろんな「思い込み」の源にもなっている。

じゃああえて「わるいこと」からアプローチしてみるか!という選択をしたとしても、それは、そのアプローチが「いいこと」と思っている。だから、「思い込み」はまず避けられないことと理解した方がいい。

で。「多分いいこと」というのは、何によって判断されるのか?というと、そこにはルールがある。体感からことばへの変換。これは各自がてんでばらばらに独創的にやるのではなく、とっかかりは真似、そして、自らが「OK」と思えるものを選択し、また、アレンジもしている。

つまり、体感からことばへの変換にまつわるルールというのは、何か或は誰かのアクションで出来ている。音楽とか踊りとかもそう考えるとことばとそれほど距離があるとは思えない。でもやっぱり違うけどね。ことばはことばによって架空の世界を作ることができるから。しかも音楽と踊りの世界と違って、そこにボディが存在しなくても、あとで読んだりするだけで、多くの人々の間で意味が共有されうる。ただ、テンポとかリズムとか、体感からことばへの変換ルールを思い描くとき、踊りや音楽の存在は非常に参考になることは確か。

ことばのルールの特殊性は、しかし、架空の世界の創造をしていく中で、時間を止めることができる、という点にある。

これは記号一般に言えることで、記号になってしまったものというのは世界を固める効果を持つ。つまり、本来は記号が出来上がろうがなかろうが様々なモノがうごめき続けているのだけれども、現実の必要性に応じて、かなり柔軟に、「ああ。それは動いてないってことにしといてOK。」というものを適宜判断して決めている。だからこそサインなんてものが成り立つ。

とある物体のみならず、動きにも名前が付くのは、細部の変化よりも、大まかに「動かないもの」「変化の少ないもの」「似ている要素」「変化したとしても(つくしがすぎなに変わっても、うら若き乙女がお婆ちゃんになっても)同一の個体といえるもの」を判別しているからこそ記号による表象が可能になる。

何気なく理解している数直線なんてのもそう。線を整数で等分するのか?微分を使って無限に極小の連続体と見るか?それらは私たちの用途(計測したりしたいものの違いなど)によっていかようにも解釈されうる。

平面を掛け算で見るのか?三つの点で決定されるものと見るか?

数も点も極小変化も、全部時間を止めないと無理。

でも、時間って計算されてない??

そう。

ここに時間のミステリーがある。

時間なんてものは実はこの世の中には存在しない。

でも、私たち人間にとっては存在するかしないか?を突き詰めるよりも大事なことがある。

私たちには過去を思い出したり、未来を予想してみたりする能力が現にある、ということ。

そして、その能力の発揮方法は実質無限なんだけれども、そうはならない、ということ。

何故なら、私たちは過行くものを「時間感覚」として体感するから。

私達の体の中でも絶えず血が流れて細胞が死んだり作られたりしている。

全部それらは感知されている。

感知されている以上、何かが永遠に同一の状態でとどまっているなんて「信じられない」。

ではあっても、自分たち自身のクセにしたって、どうやって固まってきているか?徐々にでも変化はないか?そんなことはあまり考えない。

やっぱり大まかに、その場その場の必要に応じて、「動かないもの」としておけるものが必要なのだ。

全部が全部何もかもランダムに動きまくっているなんて、事実がそうであったとしたって、それでは考えが先に進められないのだ。

だから切ったり分けたりくっつけたりして、なるべくウソは言わないように工夫する。

しかし、現代のように社会が高度に複雑になっていくと、その場その場の必要性なるものも、人によって大いに違ってくるのが当たり前。

だから、とある人によっては「これぐらいはOK」でも、別の人にとっては「許しがたい暴挙」に映る。その最たるものは人口統計とか人間の様々な行動や要素の数値化。為政者やそれに仕える人々にとってはただのお仕事だ。彼らのお仕事によってそれ以外の多くの人間がより楽に暮らせるようになっている面も否定できない。しかし、そうした役割分担が成立しているような社会だと、「より楽に」も様々。特定の人が「これでええやろ」とは本当は言えない。(けど言う。)

さあ。どうすればよりよい社会って作って行けるのだろう?

あまりにも複雑すぎて、私は社会システムのことを考える気が起きない。

それよりも個々人の感じ方、考え方の方に注意が向く。そちらの方がまだ希望が持てる。というよりも、それらをすっとばして社会システムのことばかり議論したって、じり貧になる気がするのだ。

なぜなら、「社会システム」なんてものも別に確固たるカタチが決まっているわけではないから。

所詮想像上の記号に過ぎない。

でも間違いなく様々な物品・サービスがその記号システムを通じて生産され供給されていて、私たちはそれを利用しないと生きてはいけないようになっている。

だから社会科学なんてものが成り立っているのだけれど、私は今の社会科学、いや科学一般に盲点があるような気がしてならない。

時間を平気で計算してしまえることもそう。

ともかくすでにあるものとされているものを当たり前にあるものとして扱い過ぎている

だからあるもの同士の因果関係を理論的実証的に検証するだけでよいと考えてしまう。

それは大事なこと。

でも、それだけじゃだめだ。

何故なら、私たちの限界をまだ厳密に限界として認めていないから。

この世にあるもの全部、たとえあることが知覚できたとしても、それらをすべて同時には扱うことはできない。

方程式でこうなってます、と言って、いや、これだと○○という条件は満たしていないから、、、といって検証を続けている間にも、人々は生きている。

だから方程式が間違っていないだけでは不十分なんだ。

現にともに時間を過ごしている人々、動物、植物、工業製品だってそう、そういうものとどういう関係を築いていくべきか?考えなければ。

そのためにも、私たちが日々体感していること。考える方法は考え続けられなければならないのではないだろうか?

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