よくあるいやありすぎる錯誤

誤謬???かな???

(下の↓引用記事は”触発された”ものであり、その内容を批判するものではありません。)

「○○が必要か?」

「必要じゃなくてやりたい(したい)からやる(する)。」

この”必要vs.自由意志決定”の二元論って蔓延りまくってるよね。。。

蔓延りまくり過ぎてて、これがまさか「ワタシ神様」って言っているなんて気付かないよね?

「必要なものが何か?」が分かるか?

やりたいこと、したいことが分かるか?

私の答えはノー。

でも現代人とくに先進国と呼ばれている国・地域で生まれ育った人々は、少なくともパーシャリー・イエスだと思う。

いつでもどこでも何についてでも100%は無理だろうけれど、そこそこ判断付くはずだし、場合によっちゃあ厳密に調べてみて、仕訳けして、正しく選び取ることが出来る、或は、選び取るべき(自己責任で)。。。

「神様だ」。。。

私はそう感じるのだけど、上記のように書いても、「別に神様だなんて。。。」って納得しない人の方が多いのだろう。

私たちはあくまでも人間であると思っている私としては、必要なものが何か?も、やりたいこと、したいことが何か?も、全部他の人間やその他の生き物や、自発的には動き回らないもの(バットや石っころ)とかからも分からせていただいているものと信じています。

特に人間から。

周りに人間がいるということだけで相当楽に生きることができるようになっていると思う。

そりゃウマが合わない人間だっているし、コトバも通じなきゃ、食い物なんかも違っているし、生計成り立たせようと思ったらコンペティターだらけだし、、、みんなが仲間だとか、直接助けてくれているだなんて思わない。

とはいえ、スーパー行けば食べ物買えるし、蛇口捻れば水出てくるし、PCには電気だってネット環境だって供給してもらえるし、、、。こういうものなかったらえれー大変と思うのよ。

社会ってやつ?

で結婚だ。

結婚って先進国のみならずほぼどこの国でも制度化されているから、好き勝手にまぐわったり、子ども作ったりはできない。

法的要件のみならず、経済的な根拠だって必要だ。

であるからして、社会を構成する一つの基本単位としての家族作りって、かなり型にはめられている。

型にはめられている以上、条件を一つ一つクリアしなければならないし、一般にいわれるプロジェクトとかのお仕事とは違うけれど、価値観共有できる人と支え合う共同体作り♪なんてロマンティック?に言ってばかりもいられない。

とはいえ。

人間って動物の一種でもあるから。

しかも概ね男女というヘテロの性別のいずれかを持たされた個体からなる。

であるからして生殖活動して子孫を残すというプロセスを経るのが”自然”だ。

他方、細かく見ていくなら、性差の扱い(見た目のみならず様々に異なる性的志向なども含む)とか、「子孫を残す」といったってただ卵を受精させて新しい個体を生むだけではなくて、そういったプロセスを「いかに”人間らしく”経ていくことができるか?」とかも考えなくてはならない。

”自然”と”人間らしく”とは永遠に明瞭には区分できない。生き物とは何だ?心や意識って何だ?どこまでいっても結論になんて至れないだろう。

それを悩むのが人間。

悩まないのは神様。

”必要vs.自由意志決定”の二元論が神様っぽいのは、”悩まない世界”を夢見ているという点において。

夢を見るのは自由?

うーん。

人間にとっての自由って常に条件付きだから。。。

少し考えれば納得できると思うんだけど、いつまでも結論の付かない問題を抱えた世界ではなくて、「きっとどこかに統一的・普遍的な理論があって、複雑に見えるいろんな問題もすっきり結論付けて解決してくれるんじゃないか?」って夢って、見られる人限られるんですよ。ずぅーーと見続けていられる人なんていったらごくわずか。誰もが、答えがあるかどうか?なんて考える以前にあれこれ悩ましいことがあり、考えたり考えなかったりしながら生きている訳で、どんなに勤勉な方の人だって、「与えられた環境・条件の中でできることをやっている」という点では、それほど勤勉には見えない人と違いはない。

そう。その夢って特権的なんです。

「そんなことあるかい。わしゃごくふつーのサラリーマンじゃい。でも必要に迫られれば適当な決断を下し、どうしても悩むような時も自分の胸に手お置いてやりたいことを判断して選び取る。つまりは必要性が低いとかそれほどやりたいと感じないとか苦渋の決断でもって諦めもする。そのどこが特権なんじゃい!?」

って思う人多いだろう。

まず、人間って始まりとかモノ・コトの起源にめちゃ拘ります。「どっから来たんだ?ソレ?」って感じ。これ、(アホっぽい)心理学だと、潜在意識とか前世とかのお話出してきて延々それらしく分析しちゃうんだけど、そもそも”心”なるものの発端というか、”心”が形作られ維持されるプロセスそのものに関わるお話なので、”潜在意識”とかわざわざあるかないかわかんないようなもん持ち出して複雑にすることもない。単純に人間がいろんな情報を扱えるようになる、そのために必要最低限の”拘り”なので。

なんで心理学とかがアホっぽいのか?というと、人間というか他の動物達或は植物達が扱っている情報って何なんだ?ってことを全く考えようともしないで、勝手に”心”っていう出発点を設定してしまっているから。

私たちが扱う情報っていうのは全部束になっている。しかも電線や光ファイバーのような、どこで切っても材質や長さが同じであればどれも一緒(どれとどれを入れ替えても関係ない)、みたいなものの束ではなくて、一つ一つに不可逆の経緯が刻印されたものたちから成る束。

そう。もう私たち人間が何かを感知できるようになる、ずっと以前から、とある始まりと終わりがあるものとして情報を扱っている。というよりも、束を構成する一つ一つにそれぞれ固有の始端と終端とがあるからこそ、私たちが”情報”と認識するようなものが実現されている。これが先に述べた電線や光ファイバーのようなものであったなら、のっぺらぼう過ぎて多分”情報”なんてものがそもそも認識されないはず。

とある始端と終端があること。しかも始まりから終わりまでには時間経過に沿った順序があって、後々逆読みとかは可能でも、順序自体は変更不可になっている。ということは、私たちが自分たちの認識能力でもって「必要」だとか「望んでいる」とか判断していると思い込んでいるものも、遡れば全て、無数のものどもが、始端から終端に向かって変化するというパターンあってのものであるということ。別の言い方をするなら、私たち人間のみならず、この世にあるありとあらゆるものは、お互いを個々の独立した物体・物質として認識しているのではなく、何はなくとも、とある始点・終点で区切られたプロセス、であるからして、順序だった動きが残す軌跡でもってそれぞれが構成されているからこそ、相互の関係性が構築され、もって、”相互に認識し合っているかのように”観察される。

「神様っぽさ」が滲み出てしまうのは、こうした制限されたパターン(運命)をあたかも無いかのように扱いたいという意志、儚い夢のため。

私たちの生きている現実世界では、起こってしまったことはどうあがいたって取り返せない。

多くの人間はそんなことは重々承知している。

でも人間は同時に「そこをなんとか。。。」という思いを消すことが出来ない。未来があることが分かってしまうから。過去そのもののやり直しは無理でも未来では少しでもうまくやりたい。。。

そもそも全てこの世に存在するモノは順次進んでいくプロセスであるけれども、より安定的・定常的に観察されるものから名前を付けていき、その名前たちを自由に組み合わせることができることとして、様々なストーリーを編み、語り、記憶することで取り敢えずは凌いでいた。

しかし、名前の定義の仕方や組み合わせ方の規則が洗練されていくと、あくまでも空想でしかなかった(そしておそらく今も空想でしかない)、名前を様々に継ぎ合わせて創造する世界が、よりリアリティを持つようになる。それはもはやストーリーとは呼べない、時空をほぼ無制限に飛び越えられる、因果関係の論理整合性という普遍的規則・法則に従いさえすれば、どのような組み合わせも可能な世界。無数の理屈に適った選択肢。選びうる未来。

そうした本来現実とは程遠い架空のものたちがリアリティをもつようになる根拠とは、普通物質的な豊かさに支えられた人々の実感や科学技術に対する信頼だと思われている。でも本当のところリアリティとは、豊かな物量(お金などの無形資産も含む)ではなく、あくまでも「どれだけ自分の都合の良いように意味を操ることが出来るか?」によって支配されていて、「客観的事実に即しているかどうか?」は実はそれほど大きな威力を発揮していない。「客観的事実としてはこうなってます」と言って、人々の信じる迷信なんかを暴いたつもりになる人多いけど、そもそもみんな通常事実と呼ばれるものを認識しないわけがないわけで、「不正確だ」と指摘するだけでは不十分なのは明らかだろう。どちらかというと、「なんでこんなに不正確なのにそこそこ無事にやっていけているんだ?」という疑問にこそ答えるべきなんだろう。

勿論客観的事実をいかに正確に把握できるか?によって、現在私たちが浴しているような科学技術がもたらす利益は左右されるわけで、大事であることに変わりはない。とはいえ、それだけでは私たちは不確定な現実を生きていく上で必要な安心感を十分に得られたと満足することはない、ということ。

整理しましょう。

私たちはそもそも何が必要か?なんて分からないし、実はそんなに心配してもいない。心配しているというか心落ち着かなくさせているのは「始まりは何?どこ?」という疑問そして感じてしまう来るべき未来。

自由意志とか呼んでいるものも個人個人の頭の中とか体のどっかにあるようなものではなくて、過ぎ去った様々なコトやモノを色んな方法で記憶しようとしているうちに見えてくる、今後起こりそうな未来。これがより具体的に選択しうるカタチをもって複数現れて初めて発揮されている。ワタシが選ぶ未来。

この「始点や起源を追ってしまう性質」と「あり得そうな未来をなるだけ沢山創造しようとする性質」とはお互いに相矛盾しているようで、同根。

明らかにやり直しのきかない現実。それを逐次思い知らされながら、でもいつ終わりが来るかはよく分からない未来を、より安全に過ごしていたいと願ってしまう。いずれも私たちの意思といわれるもの、合理的思考や心をどれだけ鍛えたとしても完全に排除することなどできない。

それを「意思の力などでなんとかできる」と言い続けられるかどうか?はどこにどう産まれ落ちたか?だけでも大きく違ってくる。

何も合理的思考や心を鍛えるための不断の努力を放擲してしまいなさいと言っているのではありません。

鍛えられる人は鍛え続けるべきと思っています。

でも、生まれもっての能力や環境がどういう風に異なるのか?よく分からない人々に無差別に投げかけてよい言葉ではないということです。

どんな境遇に置かれている人でも共通に取り組んでいる日々のこと。これに注意を向けられなければ、「あたかも神様」の誹りを受けても反論はできない。

生きておれば様々な現実的な悩みは絶えない。絶えないのだから無理矢理克服できるということにして正当化する必要もない。

おひとり様でもどこか自然で超然としていられるなら、それは逐次適切な判断能力を行使しているというよりも、自然と他者の幸せを自己の幸せにとりこめているという意味で、より無我の境地に近い生き方を実践できているということ。だからこそ結婚だとかおひとり様だとかいうコトバについてだって考えはするだろうけれども、実際に触れ合う人々の”今”に関係が薄いなら、特段悩まされたりコンプレックスを感じることもない。

褒めたたえるべきは、「自分が何をどう考え、行動してきたか」ということではなく、「日常を愛で、丁寧に生きることができている」ということ。

「おひとり様」のように名前ができてしまえば、それぞれの日常に照らして考えずにはおられなくもなるだろう。ただ、そもそも名前というものは一般性・普遍性を指向する。故に、一つ一つ真に受けて、合理的手法でもって分析しようとするなら、個々の事情なんて何の普遍性も確定性もないものは、より普遍的な語彙の”カテゴライズ力”の餌食になるだけ。

引用のノートによれば、企画はボツになり、著者の方、編集者の方共々パートナーと巡り会えたとのこと!(現在のことは存じ上げませんが、大事なのはそのような現実が確かにあったということ。)

日常を愛で、丁寧に生きていおれば、幸せは勝手に訪れる。だって、そうでしょ?常に他人の幸せが自分の幸せなんだもの。。。放っておきませんがな。幸せさんの方が♪

ありきたりではあるけれども、結婚だとか、ずっと老後も独りで生きていくことになるのか?とかは、本当にご縁。”自然”と”人間らしく”をうまく折り合わせた生き方というのも、若干弱げに聞こえるかもしれないけれど、「『人事を尽くして天命を待つ』の心境」が最もそれに近いのではないだろうか?十分に誇ってもいいぐらいに尊いものなのだから。日常を愛で、丁寧に生きることができるってことは。

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