頭の体操もいいけれど
世の中のあれこれを分析するにはいろんなテクがある。
21世紀の現在では、概ね西欧由来の科学と呼ばれている分野で開発・確立されてきた手法やその原理原則を真似たようなものが主流となっている。
テクニカルなものというのはあまり善悪優劣があるとは私は思っていなくて、無限に多様であって何ら問題はないと理解している。
とはいえあまり私たち人間の生き様に直結するものではない分析テクというものはある。いや。分析テクなんてものは、生き様なんて茫洋として定義しづらいもの全体を扱えないもんで、なんやかやと理由を付けて仕切りを引いて、その範囲内限定のいわば仮想現実を分析しようとするものばかりと言ってしまってもいい。
つまり、分析テクだけでは私たち人間の世の中をベターにしていくことはできないということだ。
では何が分析テクに加えて必要なのだろうか?
私は人間への興味ではないか?と考えている。
随分いろんな人が言っていることなのだけれど、知識というものはパワーというものと絡まざるを得ない。
よって、知識を得ようとすれば、それが純然たる学術的な興味であったとしても、パワーバランスに影響を与えてしまうことは避けられない。
何故そうなるか?という分析は様々なされているけれど、私は知識というものが私たち人間の生き様そのものだからだと思っている。
人間には当然の如く個体差がある。非常にある。
よって生き様といったって千差万別。
つまり、本来知識なるもの、現代人の多くが想定しているような、教科書なんかにのっけられているような体系化された知識だけが知識なのではない。けれども、体系化がなされているという事実がはっきりと示しているとおり、知識なるものも階層化され、使い方の指南書までが付いてくる。
そうした振舞いも含めて私たち人間の生き様であり知識。
こういう入れ子構造をつぶさに見ていきたいと思ったら、現代で主流の分析テクだけでは不十分だ。観察者が観察対象を分析するという単一方向だけでは全体の造りが見えないし、当然説明もできないから。
知識の体系化の例が示しているとおり、知識ひいては人間そのものまでもが階層化されざるを得ないのだけれども、そのように一人一人が行動するのもただプログラムされたロボットのようにオートマチックに動いているわけではない。つまり人間がもたされているなりの知性を駆使して感じ、考え、行動している。時に甘んじて受け入れたり、時に対等な交渉を求めたり、時に実力行使で立場を逆転させたりしながら。”知らぬ間に”って場合もあろうけれども、その間も普通に生きてはいるわけで、知性を一片たりとも使っていないわけではない。
私はこの世の中からパワーインバランスが消滅するなんてことは夢にも思っていない。
でもそれでいいとかそれは仕方がないとは思わない。
こういうどうしようもなさそうな状況で、「ここは何とかした方がいい」と私が考えるのは、私たち人間は人間たるものの実力を知った上で、いや、せめて知ろうとした上で体系化というパワーを行使しているのだろうか?という疑問を持つこと。
これは学問的にも論じられていることだけれど、人間なるもの概してパワーの行使には鈍感で、行使される側になるとパワーなるものに気付きやすいという特徴がある。なもんで、自分がパワーに押しつぶされそうな気分が生じればそれはどんどんおっきくもなる。そこで骨のある人というか才覚なんかも運よく持ち合わせているような人は抵抗に入ることができる。ここまではいい。
問題は、抵抗といっても、いや、抵抗だからこそかな?既存のパワーの流れ方、システム?みたいなものをなぞらざるを得ないところ。力学でいうところの作用反作用の法則。方向は真反対ではあれども同一直線上。
要するに抵抗になっているようでなっていない。
よくてより大きなパワーを行使できる人の数が増えているように見えるぐらい。
それでも、概して抵抗して立ち上がった側が自らパワーを行使しているなんて風には思わないのが常。
やはりパワーの行使というのは自覚しにくいものなのだ。
デカさというか社会への影響力というものは大小様々。ではあっても、この世にパワーなんて一切行使していないという人間はそもそもいないのである。生きている以上その有様が知識になっているわけだから。
何気ない日常で発することばにしたってその人の性格であるとかクセであるとか生き方であるとかが反映され、そういうものでもって触れ合う人々に何らかの影響は与えている。
そんなもんがパワーといえるのか?と思う人の方が多いと思うけど、名前とか社会的な地位とか年齢とか、、、って考えていけば、勿論強さの違いはあれども、名もない人間と超有名人との間で行使しているものの本質は変わらない。パワーというものは実はそれぐらい分かりにくいものなんだともいえる。
18世紀に啓蒙思想なるものが出てきて以降、私たち人間には一人一人基本的な権利、無制限ではあり得ないけれども自由に生きる権利があるという考え方が定着してきた。まだまだ貧困問題や奴隷的な使役や支配というのはなくなってはいないけれど、やっぱり経済的に豊かになっていることが大きな要因と思う。
ただ、たくさんモノがあったり、安全安心なだけでなく、より便利で快適な生活が営めるようになっても、基本的人権の考え方に沿ったより自由な生き方をより多くの人間が実現できるような公正なパワー配分が実現されるというわけではない、ということも私たちは見てきた。
モノやサービスを提供するだけではパワーインバランスは緩和も難しいものと私は理解している。非常に実感しづらいパワーとその行使について、とりあえず自らのものについてモニターできるようになることがキーとみている。
啓蒙思想の時代以降の流れだと、名もない一般大衆の一人とはいえ、やっぱりそれなりに生きているわけなので、”権力者の餌食”のような専ら受動的な存在とばかりは思っていられない。そうだからといって、やる気を出す際に、一体自分自身が考え行動した先についてどんなイメージを抱いているのか?というところから注意して見てみないなら、ほぼ同型の権力構造が規模は違えど再生産され続ける可能性が非常に高い。
これはひとえに、モノゴトを分析する方法が、西欧由来の科学と呼ばれる分野から発展してきたもの、その流れを汲むもの一辺倒になりがちであるためなのだけど、方法自体がどーのこーのではなく、ふっと手を伸ばしやすいものを使うというただそれだけのことで、どんなパワーが発揮され、どこへどのような影響が及ぶか?これをできる限り厳密に見ていく必要がある。
簡単に言えば、自身が何を得たいか?どうなりたいか?そういった目標に向かって何をどのようになすべきか?を分析するだけでは不十分で、そうした分析の仕方自体が自身を含む身の回りに何を巻き起こすか?についてせめて2、3のシナリオぐらいは思い描いてみるべきだろう、ということ。
流行りの分析テクを使えば、当然その勢いは増すし、流れに乗れない者や乗り遅れた者たちをどんどんと周縁に追いやってしまう可能性が高い。
また、どんなに普遍性が高く見える、よって誰でもウェルカムに思える手法であっても、一時に全員が漏れなく活用できるということはないわけなので、「後からでもイイから付いてこい」ではパワー(イン)バランス上はほとんど意味をなさない、或いは、益々悪い方へと偏ってしまう可能性もある。
知識にしても言葉にしても、私たちは主体として活用しているだけではなく、活用しているまさにそのやり方でもってその知識や言葉にパワーを与えている。そのパワーなるものは、使っている人自身にも、その人を取り囲む人々や環境(社会)にもとある影響力を及ぼす。単なる対象物ではなくて、それを使う人々のやり方に従ってではあるが、知識や言葉はより多くの人間の人生や社会環境に影響力を及ぼす擬似主体のようにも振る舞うのである。
観察者がその観察という行為自体で観察対象に影響を及ぼしてしまうという量子論っぽいところがあるけれど、知識や言葉と私たち人間が織り成す構造は、主体・客体の立場入れ替わりも全て経時的に記録され、例えばAとBとの間の主客入れ替わりが何度か起こるなら、それらはどれも唯一無二のイベントであって、どの入れ替わりも同一とは見做せないし、よって異なる時点で生じたイベント同士を適宜代替させて理解することも原則ご法度である。プラスマイナスをざくっと足し引きしてイコールじゃん?なんていう交渉も日々行われているけれど、これは厳密にいうと物理数学を無視している。
また確率統計的に次に起こり得るイベントを予測することを妨げるものではないけれど、他の手法の場合と同様に、それを採用するという時点でパワーとその影響、起こり得そうな他イベント等々、考慮する必要がある。
唯一無二性と代替(交換)可能性というのは常に表裏一体で存在しているので、時間経過とともに起こる唯一無二のイベントたちを足し算引き算で処理するという方法しかない、というのなら、丸め込むパワーの強烈さも知っておかなければならない。
パズルというものは世に様々なものがあって世の中の何の役に立つわけでなくてもそれ自体楽しめる娯楽でもある(なら役に立ってんじゃん??)。
人生も所詮ゲームのようなものと言ってしまうこともできるのかもしれない。けれども、それはそのように言ってしまった方が過渡に入れ込み過ぎたり落ち込んだりせずに済むというような効用があるからであって、ゲームだからルールだけきっちり決めといて、その範囲内限定で自由に楽しべばいいんだと言い切って済ませることはできない。ましてやゲームが上手いからサバイバルできるとかヘタだから野垂れ死んでも仕方がないなんてことまでは言えない。
先の見えないわりと長めの人生。やっぱり様々な創意工夫で乗り切ろうとする。人生ゲームのようなその場凌ぎとも思える比喩的表現と数理物理というのは全く別物ととらえられがちだけれど、私は比喩やレトリックなるものも全て数理物理が動かしていると理解している。
ということを言うと、比喩やレトリックなど言葉やその使い方を数理物理で分析しようとするのが今の時代の基準で知的リソースが豊富な方の人間の傾向。そういう分析が全く無意味であるとは言わないけれど、私たち人間と私たち一人一人が行使するパワーや私たち一人一人の生き様たる知識との入れ子構造(生きてるだけで知識は生み出され続け、その知識なるものが同時に自他ともに影響を与える。そして、その有り様をどう眺めるか?によって人間全体が向かう方向も違ってくるというような構造)を、唯一無二のイベントを一つ一つ追いながら見てみたいと思うなら、比喩やレトリックいや言葉なるもの全体、そしてそれを使っている人間なるものについて、これら全部を現にこの世にあらしめている数理物理を、どんなステップも見逃すまい!スキップすまい!という厳密さで解き明かしていく必要がある。
複雑難解なパズル。解きまくってレベルが上がったと言いたいなら、本当に複雑難解なパズルを解こうとしなきゃね。得意なものがたまたま世の中に評価される。そんな評価とレベルアップを混同してちゃいけないよね。
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