歴史教育を考える#1:脱暗記、指導と評価の一体化など

英語の授業や試験で、辞書や翻訳サイトはNGなのか?

 私は社会科教員で、他教科科目に不用意に喧嘩を売るようなことはあまりしたくありませんし、各教科科目には専門性があることは熟知しているつもりですが、話の入り口として長年の疑問を書きます。あえて刺激的な言い方をしているので、気分を悪くされたらごめんなさい。ちなみに想定しているのは、主に高校です。

 英語の授業で辞書はOKなのに、翻訳サイトがNGなのはなぜなのか?

また試験では辞書すらNGになるのはなぜなのか?

 「自分で英文を書くことに意味がある!」など、色々と理由があるのかもしれません。もちろんそれはそれで大切と思います。ただ、単語帳を丸暗記することに比べたら、調べながらで良いから自分の考えを英語で表現することの方が、優先順位が高いのではないか?と思うのです。

 大事か否か?で言えば、どちらも大事なのです。意味がないとは言いません。でも、例えば「英語の記事や論文を読む」「それをもとに英語で意見を書く」といった経験は、英単語の丸暗記に時間を費やしていたら、卒業までに間に合いません。実際多くの高校でそこまでたどり着けていないと思います。

 英単語を覚えるくらいのことは、後でも何とでもなると思います。実際私は、高校時代全然英単語なんて覚えていなかったし、今も自分に必要な言葉しか覚えていません。それも覚えようと思って覚えたというよりも、何度も登場するから自然と覚えた、というくらいです。でも英語の文献をざっくり読むくらいのことはできます。その経験の機会が多かったからです。

 それよりも、英語の記事や論文を検索する、読む、まとめる、意見を書く、発信する、といった経験を、粗削りなりに経験しておいた方が後々有意義だろうと思います。高尚な記事でなくてもよくて、サッカーが好きなら海外サッカーの移籍に関する記事とか、ディズニーが好きなら海外のディズニーパークの新アトラクションの記事とか、洋楽が好きなら好きなアーティストの新作についての記事とかでよいのです。興味があったら読みたくなります。最初のうちはざっくり理解する程度で良しとして、とりあえず読む経験、まとめる経験を積むのが大事だと思います。

 何より、高校の授業が文明と隔絶されていることは、生徒にとって「なんのために学んでいるのだろう?」と感じる要因です。何でもかんでも生徒の意見に迎合しなさい、という話ではありませんが、さすがにこの時代に、延々と単語テストや自力での精読ばかり繰り返すのでは、時代錯誤と言われても仕方ありません。

 学校教育は、<変化の激しい時代を生きる力>を育むものです。社会に出て、辞書も翻訳サイトも使わない中で英語の論文を読んだり、書いたりすることはまずないと言っていいでしょう。しかし英語の文献を読んだり、英語で何かを発信したりする機会は珍しくありません。つまり優先順位は後者の方が高いはずなのです。限られた時間の中で学ぶ以上、優先順位という考え方は重要です。

では歴史の試験はどうなのか?

 さて、ここからが話の本題です。では、歴史の授業や試験はどうなのでしょうか? 歴史の試験では、まず暗記が必要です。英語と同様に考えるなら、別に本なりPCなりを持ち込んで調べながら答えてもよいのではないか?と思うのです。

 そうなると試験問題も、単純な丸暗記を避けるようになるでしょう。そんなことは調べれば誰でも答えられるからです。そして、それは今までの試験が時間の無駄(言い方が過激で申し訳ないですが)だったことの何よりの証明です。

 仮に、本、中でも公平性を期すために教科書をその場に持ち込めるとしたら、試験問題はどうなるでしょうか? 教科書で得られる情報を活用して答える問題が作られることとなります。

 まず、大観的な時代の流れを述べる問題、例えば「古代文明はいかに成立し、いかに衰亡していくと考えるか? 具体例を示しながら、あなたの考えを述べよ」といった問題が考えられます。細かな情報は、教科書を調べればすぐ分かるわけですから、直接問うてもあまり意味がありません。むしろ全体を概観させる問いが重要になるでしょう。

 また、歴史記述を批判的に検討させる問題、例えば「教科書P.xxには、『大航海時代』の語が用いられているが、近年これがヨーロッパ中心史観から抜け出せていないとして、この語を用いず『大交易時代』と呼ぶ動きがある。いかなる点がヨーロッパ中心的といえるのか。また用語の変更について、あなたはどう考えるか」といった問題もあり得ます。教科書を考える材料として用いるということです。

 問題数は、今のような一問一答が何十問も並ぶ形式から、数問の論述問題のみ(場合によっては選択制)に代わるでしょう。

そもそも試験は必要か?

 ただこうなってくると、そもそも50分など分単位で時間を区切って試験を行うことの意義自体も問われてきます。例えばレポート試験であれば、各自が時間を作って、じっくり調べて考えられます。そちらの方が本来持つ実力が成果物に反映されるとも言えます。

 また、そもそも学習は、全員が想定される到達度に到達していることが理想であり、試験の目的はそこに到達しているかを確認することです。点数をつけて順位付けすることや、未定着の生徒を炙り出して懲罰を与えることが試験の目的なのではありません。つまり、全員合格点を超えていることが理想なのです(もちろん、そのためにレベルを下げていたら意味がないことは、言うまでもありません)。

 例えば、試験より前に十分な期間を確保したうえで、論題をあらかじめ示し、何度か事前にレポート(下書き)のやり取りをして改善し、そのうえで試験当日を迎えるというやり方はどうでしょうか。教員が事前に添削することもあってよいし、生徒同士で改善し合うのもありでしょう。

 そもそも日ごろの授業をそこに向かって設計していくべきなのです。例えば「1学期中間テストまでの期間には、複数の古代文明について、その成立と発展、衰亡を学びます。そして、『文明はいかに生まれ、そして滅びていくのか?』について、各自にレポートを作ってもらいます。定期テストでは、その完成原稿を書いてもらいます。」といった具合に課題を示し、それに向かって、毎回の授業を組み立てるのです。いわゆる指導と評価の一体化というものでしょう。

 学び――授業も試験も含めて――のあり方が、今、問い直されています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?